救世主症候群《メサイアシンドローム》

光杜和紗

プロローグ

プロローグ

 2049年某月某日 危険指定区域(旧東京吉祥寺一角)


 ――世界を救える、はずなんだ。


 喘ぐような呟きを雨が廃墟に打ちつける音の中から拾いあげた。


 分厚い雨雲が太陽を隠している。

 そこから降りしきる大粒の雨のせいで視界不良だし、ただでさえ瓦礫だらけの足場が滑りやすい。

 風も強く、雨粒が瓦礫にぶつかる音はザアザアというより、バチバチというまるで銃弾が弾けるような音に似ていた。

 ――つい数分前に崩れたばかりの五階建てのビルは天候によって既に土煙をあげることも諦め、酷い有様でじっ……と風雨に晒されている。

 聞こえた声が気のせいでなければ、音の出どころはあそこのはずである。


 スリングベルトで背に回していたアサルトライフルを外し、強く握りしめる。

 手袋がじっとり濡れたせいで、持ち心地に違和感がある。

 指先にいつも以上に力を込めた。


 耳を澄ませると銃弾の嵐のような雨音の隙間を縫うように、また微かに知らぬ男の声を聞く。

 それを邪魔するように、鼓膜が不意にクリアに届く声で震えた。


『南西クリア』

『北クリア』


 左耳に差し込んだワイヤレスイヤフォンから、聞き慣れた仲間の声が続く。

 無事と安全を報告する会話ではなく、雨の中に消える微かな声を探し続ける。


「……ず、……だ」


 バチバチバチバチ。

 雨粒があたるせいで視界が歪み、仕方なくゴーグルを外した。

 滑りやすい足元に気を向けながら、コンクリート道路の上に転がる大小さまざまの瓦礫を避けて崩壊したばかりとビルの残骸へと近づいてゆく。


『今回は少なかったな』

が先にいたんだろうよ』


「える、はず……せかいを」


 無線越しの会話が集中を邪魔してくるので、仕方なく今度はイヤフォンを外した。

 繰り返され続ける言葉の出どころに目を向けると、ジグソーパズルのように歪な形になった壁がある。

 雨音で足音を消し、腰を屈めて壁に隠れる。

 スウと一つ息を吸いこみ、彼女は一歩で身を翻して壁の裏側へ銃口を向けた。


「…………」


 そこで倒れている男を見て、止めていた呼吸をゆっくりと再開する。


 瓦礫に下半身を潰された青年。

 血液は雨に流され、薄い桃色の水たまりになっていた。

 死を間近に迎えた青年は瞳孔を開いたまま「世界を救えるはずなんだ、世界を救えるはずなんだ」と唇を戦慄かせ、掠れた声で呟き続けていた。

 ミリタリー服を身に纏っているが、その下の身体には戦闘に必要とされる筋肉はついておらず、ひょろりとした体系をしている。

 陽の光に当たらない生活なのか、肌もずいぶん白かった。改造エアガンを手放してしまった両手はゲームコントローラーを握ったタコこそあっても、武器を握ってきた痕跡はない。


 己がこれから死ぬという現実を受け入れられない青年の希望に過ぎない未来を予言する声がどんどん小さくなってゆく。


 むごい様を見て、野球ボールほどの大きさをした追跡浮遊カメラのシャッターを閉じさせる。救世主になれなかった哀れな男へのせめてもの同情だった。


 歪んで消えてゆく視界に影が差し、青年は目玉をきょろりと動かす。

 灰色の空の中に、雨に濡れてキラリと光る金色があった。


「…………あ」


 透きとおる青の瞳に覗きこまれ、彼は天使が迎えに来たのかと錯覚しかけたが、しかし気力で焦点を合わせると、その娘は天使よりも彼の好んだゲームに出てくるヒロインキャラクターに似ていることが分かった。

 目鼻立ちのはっきりした精巧なビスクドールのような顔と、それにそぐわぬ人間らしい感情を隠さない表情。

 みんなが憧れを抱いたヒロインだ。


 何度も彼女と世界を救ってきた。

 仲間を集め、倒されては立ち上がり、やり直しては戦って。


「俺は、……世界を救える、はずなんだ」

 震える指先を伸ばす。

「俺だって英雄ヒーローに、……救世主メサイアに……」

 信じてくれとでもいうように、声に懇願が滲んでいる。


「そんなものになってどうするの?」


 善意も悪意もない、青いガラス玉に似た瞳と僅かに憐憫を含んだ声。

 彼の崇高な目的に微塵も興味を感じさせられないその問に男は絶句する。


「こんな、はずじゃあ」


 死を間近に迎え陰りのある瞳が、ようやっと現実を映し出した。


「…………」

「どうしてこんなこと……、なんで、こんなとこに」

 愚かな行為をしでかした青年に言ってやりたいことはまだあったが、口にするまでもなく彼は過ちを受け入れたらしい。

 涙が滂沱として流れ落ち、雨に混じる。

「馬鹿だ、俺、イヤだ、どうしてッ、イヤ……うううっ、なんで、俺」

 伸ばしかけていた手で己の口を覆い隠し、青年は泣き咽ぶ。


「もういいよ」


 やはり善意も悪意もない瞳と声だった。

 まるで神を背後に同情も感情もなく、こんこんと小さな魂に罪状を告げ、赦しを与える天使の如く、愛ある行為を作業のように。


「いろいろ思うことあるかもだけど、とりあえず寝て、休んじゃいなよ」


 大きく丸い瞳がやっと細められ、にっこりと彼女は笑う。

 かつてテレビ画面を通し、何万人へも向けられたそれだ。

 不安を吹き飛ばすような、邪気のない太陽に似た笑顔だ。

 今はその微笑みが去り逝く一人の男にだけ向けられている。

 疲労と微睡みを自覚し、男は瞼を閉じかけた。

 しかし赤ん坊が眠るのを恐怖するかのように、闇の底へ落ちる不安が襲い、必死にまた瞼を開けようとする。


「起きたら、その時考えよう」


 男の心境を慮ってか、彼女はそう言った。

 そっか、起きた時でいいか。また、起きた時に。

 閉じかけた濁る瞳に安堵が宿り、やがてそれは瞼の下に消える。


 パチャンと、結局彼女に触れることなく男の指が桃色の水たまりに落ちた。


 バチバチと降る雨が、安らかな青年の顔を容赦なく水に沈めようとする。

 暫く雨の音だけを聞き、彼女は今にも口から飛び出そうだった何かをスウーッと鼻から吸い込み、ハァーッと深いため息に変えた。


「おやすみ」


 もはや誰にも届かない独り言を零し、彼女は外したイヤフォンを再び左耳に嵌める。

『姫、姫? 応答しろ。問題があったか?』

 弟が彼女の名を呼んでいた。

 どうやら残りの報告は自分だけらしい。

 彼女は首につけた通信機のボタンを指先で押し込む。

「こっちにももういない。オールクリア」

 報告を入れると、盛りあがりきらない疲弊を滲ませる歓声を各々があげた。


『さっさと帰ろう。びしょ濡れだ』

『銃の手入れが面倒だな』

『視界最悪。これ上手く撮れてんのか?』

『雨しか映ってないんじゃないかな』

『くっそ。結構強いやつ倒したのに』


 男たちの会話をこれ以上聞く気になれず、無線の電源を切る。

 車を目指し、瓦礫が転がる雨のコンクリート道路を歩いてゆく。

 そこには三種類の死体が転がっていた。


 ――無残に血を流す人間だったものと、皮膚が変色した人間だったものと、傷ひとつなくただの抜け殻になった人間だったもの。


 地獄絵図のようなそこを歩く彼女の青い瞳は、その様子が反映されることなく澄んでいた。透明なガラス玉が青空を映すかのように。


 まだ崩れていない建物の影に停められた車が見えてくると、先に戻っていた仲間の一人が軽く手を上げていた。

 各々の個性と趣味を反映したミリタリーの服装は、彼女の好む煌びやかなものとは似ても似つかない。

 仲間に笑顔で手を振り返そうとするも、その事態にまた不服と不満が零れそうになる。彼女のかぱりと開いた口からすぐに音が洩れることはなかった。

「ただいま~!」

 一秒に満たないほんの一瞬をあけ、明るい声が飛び出る。


 動画の映像と音声がほんの少しズレたかのような違和感がそこにあった。


「早く乗れ。が集まってくる前に」

 七人全員が素早く八人乗りバンに乗り、車が発進する。

 丈夫なタイヤに変えたとはいえ、荒廃しかけた街の道のりを進めばガタガタと車体が揺れた。

「もうクタクタだよ~。二度とこんなことしたくない!」

 汚れた窓にゴツンと頭を当て、彼女は甘えた声で唇を尖らせる。

「馬鹿言え」

 同い年のチームリーダーが小馬鹿にしたように言った。

 彼は助手席で、すっかり変わった街並みを窓から眺めている。

「だぁってぇ、女の子がすることじゃないじゃん!」

「女の子って歳かよ」

 ハハンと馬鹿にされ、彼女はせっかくの可愛い顔立ちを不細工に歪め、目の前の助手席をガツンと蹴った。


 かつて大きな広告看板を頭上に掲げていたビルが見えてくる。

 今やその看板はコンクリートにぶつかり下半分をぐしゃぐしゃにしており、その一部を瓦礫に沈めているものの、しかしそれでもそこにいる芸能人たちは笑顔でドラマの宣伝ポスターの中に身を置いている。

「アイドルはいつまでも女の子なんですぅ!」

 通り過ぎるバンの中で顔を歪め声をあげた彼女と、ポスターの中で微笑む可愛らしい女は同一人物であった。


 ――立川たちかわ ひめ

 かつては一世を風靡したアイドルグループの一人である。


「もうアイドルなんか、誰が必要にしてんだよ」

 吐いて捨てるような物言いに、車内の空気が張りつめた。

 言葉を詰まらせる姫を見て、一人が「僕はずっと姫ちゃんのファンだよ」と情けない声でフォローを入れる。

 だがチームリーダーはその声を喰い、言葉を重ねた。

「いねぇよ。この世界じゃ。もう。アイドルも。王子様も」

 区切って、丁寧に、刷り込むように。

「……」

 何か言い返そうとしたのか、姫の唇がまたかぱりと開く。だが音は漏れない。

「お前はやれることやればいいんだよ」

 意見を押さえつける声音だった。

 ふっくらとした唇は結局何も言わず一度閉じられ、姫は背もたれに身を預ける。

 男たちは気まずそうな顔のまま、この空気が変わるのを待っているだけだ。


 車体を雨が叩く音と障害物をタイヤが踏みつける音だけが暫し続いた。

 ……かと思うと。


「いやだああああああああああぁぁぁぁ~!」


 サイレンに似た絶叫が車内にけたたましく広がった。

 

「戻りたあああぁ~い! なんでこんなことになっちゃったのよおおぉぉ~!!」


 駄々をこねる幼児さながらの泣き声だ。

 さすがアイドル、鼓膜を破りそうな声量が男たちに襲い掛かる。

「うるせー!」

「ちょ、姫、落ち着いて!」

「ガキかお前は! 静かにしろ!」

「鼓膜が……!」

「泣かないで姫ちゃん!」

「やつらに気づかれるだろ!」

 男たちが喚く。

 チーム唯一の女は泣く。

 嘆き泣き喚く彼女の望みと疑問は、恐らく生き残ったほとんどの人間が抱いているものだろう。


 なぜこんなことになったのか。


 大きな兆候は半年以上遡り、2048年の冬、亜型インフルエンザウイルスが世界的大流行をした頃にまで遡らなければならないのだが、しかし誰が思うだろう。


 ――新世界の始まりを、忌むべきウイルスが警告していたのだと。

 

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