自慢

 先ほどから、飛紗がクリアファイルに挟んだ紙を睨んでいる。結婚式の招待客と、披露宴でのテーブル席を決めるための用紙である。突然ぽんとキャンセルが出たのでと連絡をもらい、挙式日が確定したことによって、スケジュールが一気にかつかつになった。あと約二ヶ月。ホテルの人間にも言われたが、招待状を送る日程としてはぎりぎりらしい。自分たちの首を自分たちで絞めたわけである。

 しかし三連休の中日とはいえ、大安吉日、日曜日である。いまどき大安かどうかなど気にしない人も多いらしいが、瀬戸は案外、律儀に踏みたいタイプだ。文化は踏襲されて然るべき。がちがちにこだわるのは違うにしても、守れるならば守ったほうがいい。

「飛紗ちゃん、次の駅ですよ」

 声をかけるが、うん、と紙を見つめたまま目を離さず、沈思している。豪華に行うわけではないから、呼ぶ人数もそんなに多くはない。瀬戸の友人は大半東京にいて、ほとんど来られないせいでもあった。二次会は飛紗の友人が幹事をしてくれると言うので任せている。数ヶ月前に結婚式の写真を見せてくれた、飛紗自慢の美人な友人である。

 瀬戸とは違って、飛紗は地元近くで行うがために、誰を呼ぶか、そしてどう座ってもらうか、なかなか決めかねているようだ。

 駅に着いても案の定気づいていない飛紗の腕をとり、電車から降りる。瀬戸はほぼ事前に連絡をとって席も決めているので、楽なものだ。招く親類も少ない。父の晟一は同性の学をパートナーに選んだとき事実上の勘当を受けていて、呼びようがなかった。たまにしか会わない親類と父二人を天秤にかければ、当然父二人の比重が重いに決まっている。とはいえ、もちろん誰もいないわけではなく、兄夫婦や叔母は来る予定だ。

「結婚式ってお金も準備もほんま大変やねんなあ。結婚情報誌があんなに分厚い理由がいまわかったわ」

 階段を上りながら飛紗が嘆息する。飛紗の両親が薦めるままに会場を決めたので、情報誌は買っていない。

「次の休みに念願のドレスが着られますよ」

「あっ、それはたのしみ。うん」

 ほっとしたように飛紗が笑った。やらなければならないことは山のようにある。飛紗と瀬戸の衣装を決め、招待状を送り、席次表や席札を決め、当日の料理を決め、結婚指輪を購入し、披露宴の演出とプログラムを確定し、流す曲を決め、何かビデオを流すのであれば映像制作依頼をして、など、数えたらきりがない。

「お兄さんたちも結婚式やったんよね? いろいろ聞いても怒られへんかな?」

「怒りはしないでしょうけど、ほんとうに式だけで、披露宴はなかったですからね。兄は目立つのがいやで、義姉は式に憧れを持っていなかったみたいなので」

 結婚式自体も、親の面子のために行った側面がつよい。特に母親の梢が式を挙げないことは絶対に許さなかった。

 改札を出ると、兄の聰一がこちらに向かって手を挙げた。黒縁眼鏡は記憶そのままだが、会わない間に髪をさっぱりと短く切っている。

「相変わらず寒そうな恰好してるな、お前。今日大寒波だぞ?」

 薄着の瀬戸を見て聰一が言った。対する聰一はコート、マフラー、手袋をきっちりと着用している。暑がりの瀬戸とは異なり、どちらかといえば寒がりの兄だ。

「紹介します。鷹村飛紗さんです。こちらは兄の聰一」

「初めまして、鷹村飛紗です」

「塚本聰一です。眞一の三つ上。お噂はかねがね」

 名字が梢と異なるのは、入り婿だからだ。説明すると、飛紗は意外そうな顔をした。おそらく彼女がしているであろう想像どおり、梢は大反対し、一悶着も二悶着もあった。母親の反応をはなから予想していた聰一が、先に籍を入れてから報告したのも彼女の神経を逆なでした。聰一とマキともに乗り気でなかった結婚式を挙げたのも、梢をなだめる意味合いがつよい。

 ふうん、と聰一は飛紗を眺めた。じろじろとした不躾な視線に耐えて、飛紗が笑顔をつくったまま小首を傾げる。

「おきれいですね。背も高くて爪まできれいで、僕の好み」

「えっ」

 すっと飛紗の指先を手にとった聰一の腕をばしりとはたく。油断も隙もない。飛紗を後ろに隠すようにすると、聰一はわざとらしく両手をあげた。

「冗談じゃん」

「だからたちが悪いんでしょうが」

 一連の流れを真顔のまま行うため、聰一のことを知らないと冗談か本気か判断がつきにくい。飛紗は戸惑ったまま、どう答えたものかわからずにいるようだった。

 時計を見た聰一が、バスの時間になると言ってさっさと移動を始める。嘆息して、ついていくよう飛紗を促した。飄々とした男なので、細かいことは気にするだけ労力の無駄だ。

「あ、でも好みなのはほんとう」

 くるりと振り返った聰一に、いいから行けと手を振る。恋愛事に疎い飛紗は案の定、冗談とわかっていても受け入れるのが難しいらしく、緊張がほぐれるどころか反対に体をかたくしている。

「兄の言うことは、半分冗談、半分嘘だと思って聞き流していいから」

「そうそう」

「あなたが首肯してどうするんですか」

 言い合っていると、飛紗がふっと頬を緩めた。仲ええんやね、と呟かれて、薄く笑う。確かに仲は悪くない。ふざけたたちの兄ではあるが、やはり「兄」であり、自分は「弟」であると気づく。

 聰一が、今日は車で迎えに来る予定だったが、雪が降ってきたのでやめたのだと言う。聰一の妻であるマキは身重なので、姪の心寧とともに留守番をしているらしい。

「椛は?」

「もう来てる。すみません飛紗さん、今夜は出前ですけど、味は保証するので」

 お気になさらず、と飛紗が首を横に振る。先ほどまでに比べると、だいぶ緊張がとれているようだった。

「眞一、久雄には連絡してるのか」

 バスに乗り込み、いちばん後ろの席に三人並んで座る。久雄は聰一と同い年の、梢の再婚相手の連れ子だ。聰一からすれば親の再婚によりできた義理の兄ということになるが、瀬戸からすると少し遠い。兄弟と言うには抵抗がある。椛は一応母親が一緒なので、なんとなくでも妹の感覚があるのだが。

「してません。事後報告でいいでしょう」

「僕はもうフォローしてやらんからな。あいつ、根に持つとうるさいぞ」

 久雄の話はほとんどしていないので、飛紗が聞いてもよいものか、戸惑ったようにしていた。母親とは異なり、別に確執があるわけではない。簡単に説明する。

「私をかわいがろうとしてはくれるんですが、何かとずれているというか、変なところで張り合ってくる人で」

「眞一をかわいがろうとして、眞一と張り合う」

 眉根を寄せて繰り返したあと、聰一がいることを思い出したらしい。眞一さん、と言いなおしたが、聰一が気にしないと言ったので、頭を下げた。気にすればするだけ、聰一も椛もいやがると言葉を重ねてやる。そういったマナーは親の前くらいでいいだろう。

「無茶やない? それ」

「無茶だな」

 ははは、と真顔のまま笑って、聰一が頷いた。

「あいつ、頭はいいんだけどばかだからな。たとえば飛紗さん見たら、口説いてくると思うんですよね。ただそれもかわいいと思って声をかけるならまあ、理解はできるじゃないですか」

 飛紗があいまいに微笑む。先ほどの好みの話と同じく、飛紗にとって受け入れがたいたとえだとは思うが、説明がややこしいので黙っておく。少しは慣れてくれたほうが瀬戸としてもありがたい。恋愛に対して変に気を張りすぎて、隙が出てしまっている部分が間違いなくある。

「でも葬式の場でそれをやっちゃう奴なんですよね。しかも葬式の場ってことは、集まるのは当然親戚がほとんどで、見覚えのない飛紗さんくらいの年代の女性ってことは、誰かの奥さんかなとか、知らなくてもなんとなく想像がついてもよさそうなものなのに、気づかない」

 あまりにも予測できる話で、瀬戸はむしろぞっとした。きちんと写真を送っておこう、と考えを新たにする。聰一とは違って、基本的には冗談で行動することがない男だ。常に本気なのだ。過保護と言われようと、飛紗はかわすのが下手なので先手を打っておいたほうがいい。

「うちの奥さんも口説いてきたくらいだから。白無垢着てんのに」

 それは知らなかった。周りが見えてなさすぎる。

 バスを降りて、徒歩一〇分。マンションの三階が聰一家族の家だ。心寧には「眞一の大切なひとが来る」と伝えていて、昨日から落ちこんで大変だった、と聰一が言った。今朝は普通に起きて朝食を食べ始めたので落ち着いたのかと安心していたら、突然ぼろりと泣き出し、声もあげずに泣き続け、食べ終わると部屋でしくしくと布団にくるまった。母親のマキがなだめると、なかなか泣きやまないながらもお気に入りのワンピースを選び、髪をかわいくしてとねだったらしい。

「娘のなかにはやくも女を見たよ」

「叔父と姪は結婚できないって前から言ってるんですけどね」

「心寧もわかってるから、なんで、とか文句は言わないんだろ。ただいま」

 聰一がドアを開けながら叫ぶと、妹の椛が顔を出した。長い髪を一つにくくって、今日はさすがにジーパンではなくそれなりの恰好をしている。化粧は相変わらずしていないが、しばらく会っていないうちに顔つきが女性になっていた。

「おかえり。眞兄、今日も寒そうな恰好だね。ていうか見ているだけで寒い」

 大寒波だよ? と、聰一と同じことを言われる。椛も母親の梢とソリが合わずに家を出た一人で、服装や化粧に頓着がないのは反発からくるものだと以前自認していた。対して服装も化粧もしっかりしている人を見ると眩しくて仕方がないそうで、飛紗に少し圧倒されている。真顔なので当の飛紗には伝わっていないだろうけれど。

「鷹村飛紗さんです」

「はじめまして、鷹村飛紗です」

「はじめまして。眞兄の半分妹、寺内椛です。木偏に花でもみじ」

 まああがってよ、と自分の家でもないのに椛が言う。靴を脱いでぞろぞろと進んでいくと、マキが待っていた。前に会ったときは肩ほどまであった髪がばっさりと切られている。お腹はまだ目立っていない。今日何度目か、飛紗が挨拶をして、手土産を渡す。関西から持ってきたものと、昼間行ったチョコレート屋のエクレアだ。聰一はぴんときていないようだったが、マキはブランドを知っているらしく、こんな高級なもの、とよろこんだ。

「式がはやくなった分、準備が大変だと思いますけど、おかげで出席できてうれしいです」

 にこやかに言われて、飛紗が照れたようにうつむいた。

 聰一がきょろきょろと部屋を見渡す。

「心寧は?」

「それが、部屋から出てこなくて」

「帰ってきたとわかるやいなや、閉じこもっちゃったんだよ」

 人数分のお茶を持ってきた椛が補足した。聰一が任せたとばかり、眼鏡の奥から目線を寄越す。まあ、妥当だろう。椛も心得ているのでさっさと座っていて、マキにも座るよう促した。

 飛紗の手を引いて、心寧の部屋まで来る。ここでちょっと待ってて、と小さく呟き、ノックを二回。心寧、と呼びかけても返事がない。しかし気配はある。入りますよと宣言してドアを開けると、部屋は窓からのかすかな光が入っているだけで、薄暗かった。

「心寧」

 呼びかけると、ベッドの横に隠れるように座っていた心寧がびくりと体を震わせた。目の前に行って、目線が合うようにしゃがみこむ。泣きはらしたせいで目が腫れていた。髪を二つにくくっているヘアゴムも、前髪につけているヘアピンも、瀬戸があげたものだ。服は前に褒めた覚えがある。

「久しぶりですね」

 心寧はこくんと頷いて、体をさらに小さくするようにぎゅっと腕に力を込めた。

「今日は挨拶に来たんです。私の大切なひとを心寧にも会わせたいんですけど、いや?」

 今度は首を縦にも横にも振らず、うつむいてしまう。感情の整理がついていないと見えて、困らせたくないと思っている反面、素直になることもできないようだ。久々に会えてうれしい気持ちと、突然の失恋がない交ぜになって、目がぐるぐるとしている。六歳であれば立派に人間だ。表現の術を持っていないだけなので、急かさずに待つ。

「こっ」

 うつむいたまま、心寧が声を詰まらせる。

「ここねが、けっこん、したかった。しんいちくんと」

 ぼろ、と大きな滴を落として、ぎゅっと顔のパーツを中心に集める。泣きたくない、と全身が主張していた。しかし心寧の意思に反して、ぼろぼろと涙は出続ける。アニメ映画のような見事な大粒だった。

「うん。ありがとう」

 以前にも「大きくなったら眞一くんと結婚する」と言われて、叔父と姪では結婚できないと答えたことがある。あのときも心寧は大泣きし、マキにすがりついたが、今日は一人で耐えようとしている。聰一が言っていたとおり、実際には自分は瀬戸と結婚できないのだとちゃんとわかっているのだろう。

「でもごめん。私にも結婚したいひとができたんです」

 指で涙をぬぐうと、心寧は唇をぎゅっと合わせた。

「心寧がいやなら、会わなくていいですよ」

「あ、会う。ちゃんとあいさつ、する」

 瀬戸が立ち上がろうとすると、心寧は慌てたように瀬戸の裾を掴んだ。

「でも、きょうは、しんいちくんのお膝のうえでごはん、たべてもいい?」

 いわゆる交換条件を出してくる姪に、笑みがこぼれた。飛紗よりもよほど女を武器にしている。いつもなら許さないところだが、今日くらいは甘やかしてもいいだろう。きちんと挨拶できたらね、と釘をさし、最後にまた涙をぬぐってやる。

 ドアまで連れていくと、飛紗が膝を床につけて心寧と目線を合わせた。

「はじめまして。鷹村飛紗です」

「塚本心寧です」

 洟をすすりながら、心寧が答える。瀬戸の手を掴んで離さないが、頭だけはぺこりと下げた。

 それ、と飛紗がヘアピンを指さす。

「かわいいね。心寧ちゃんって呼んでもええかな?」

 すると目を輝かせて、小さく頷いた。褒められたのがうれしいようだ。もじもじと結んでいないほうの手を体の後ろにやりながら、心寧があの、と飛紗に話しかけた。

「ひさちゃん、ってよんでもいい?」

「もちろん。よろしくね」

 最後に握手をすると、照れた心寧が瀬戸の後ろに隠れた。とりあえず挨拶は完了だ。

 居間に戻る途中、心寧に裾を引っ張られて、しゃがみこむ。

「ひさちゃん、びじんね。びっくりした」

 耳打ちするように手を口元にあてているが、声の調節が下手なのでおそらく飛紗にも聞こえている。そうでしょう、と瀬戸は心寧に耳打ちをし返す。声はわざと飛紗にも聞こえるようにして。

「私にとっては誰よりもかわいくて美人なんです」

 立ちあがって飛紗を見ると、動揺した飛紗が耳まで赤くしていた。何か言いたそうだが、ね、と頭をなでて反論を許さない。さすがに口をふさぐのは心寧に悪かった。

 戻ると、三人とも何事もなかったように改めて飛紗を歓迎してくれた。ちょうど出前の寿司が届いたようで、椛がせっせと準備している。聰一も椛もなんだかんだとマキに対して心配性なので、椅子から立たせない。皿を割ったり、何もないところでこけたり、ドジはマキの専売特許だ。

 瀬戸は座り、約束どおり心寧を膝の上にのせてやる。

「あれ心寧、今年からお姉ちゃんになるんじゃなかったっけ?」

 椛がからかうと、心寧はいいの、とことさら大きな声で主張した。

「今日はしんいちくんがいいって言ったもん。しんいちくんの前では、おねえちゃんじゃなくて姪だもん」

 その言葉に、どこか彼女なりの覚悟を感じたのか、あとは誰も何も言わなかった。心寧はご機嫌で瀬戸と話し、心寧以外の三人が飛紗と話した。



「ねえ、今日母さんと会ったってほんと?」

 聰一一家と別れて帰り道、椛が白い息を吐きながら言った。就職が決まって、今年の四月から京都に来ることになっている。高校生あたりから言っていた念願の会社だったこともあるが、とにかく親と会わない理由がつけられる場所に行きたかった、というのも、志望動機の一つだろう。父親はともかく、母の梢とは瀬戸以上に相性が悪い。というか、兄弟四人のなかでうまく折り合いがつけられているのは、皮肉なことに梢と血縁関係が一切ない、久雄だけだ。

 会ったときの飛紗の啖呵を教えると、椛は腹を抱えて笑い、最高、と呟いた。

「あのひとは災害みたいなものだからさ、そうやって言い返せるのはいいと思うよ。家が違うし、あとの付き合いは眞兄次第なんだろうけど」

 もちろん、挨拶はしたのであとは付き合うつもりはない。そもそも結婚することにならなければ、もはや死ぬまで連絡をとらなかったかもしれないのに。

 聰一ですら、梢への反発から入り婿になったくらいだ。一矢報いたかったのだろう。マキは天然なので梢の皮肉に気づかず、むしろ梢から苦手に思われていると聞いた。あとはいまのところ唯一の孫娘である心寧が、変な影響を受けなければよいのだが。

「でも眞兄と一緒に、飛紗さんがいるなら京都行っても安心だな。頼らせてね。他に知り合い誰もいないからさあ」

「引っ越しのときは手伝いに行きますよ」

 そりゃ安心、とにかりと笑う。笑った顔は梢に似ていない。瀬戸はあまり会ったことがないので印象に乏しいが、父親似だ。それが自慢だと前に椛は言っていた。

 買い物してから帰るからと、椛とは駅で別れる。ホテルに戻るため改札に向かおうとすると、飛紗が寄ってきて、ぎゅっと手を握った。少しだけむくれている。不機嫌とは違う様子に、手を握り返した。立ちどまって顔を覗きこむ。周りをたくさんの人が通りすぎていく。中心地でありつつ、ベッドタウンなので、電車を利用する人も、ショッピングモールを利用する人も、途切れることがない。

「ヤキモチ?」

 思い当って口にすると、飛紗がじろりと睨みつけてきた。気まずさのためか迫力はない。ふうと一つ溜息をついて、やがて頷かれた。

「親戚の、それもあんな小っちゃい子にヤキモチって情けないなー、って思うんやけど」

「小さくて親戚でも、女の子だと思ったんでしょう」

 実際、瀬戸が思ったことだ。飛紗が「子ども」だとひとくくりにせず、心寧個人を見た証拠だろう。少なくとも、心寧は本気ですきだと思ってくれていたのだから。

「もてもてですね、瀬戸先生は」

 ふんと鼻を鳴らして足を進めつつ、手は離さず飛紗は言った。引っ張られる形でついていきながら、改札を通る。関東で先生呼びとは、飛紗なりの精一杯の皮肉だろう。かわいいものである。

「そうですよ。知っていたでしょう」

「うん。すごく疑問やった、前から」

 エスカレーターではなく階段を下り、飛紗が振り返りもせずに言う。こんな風に理不尽なことを言っているとわかっていながら不満をぶつけてくるなんて、大進歩だ。しかしあまり言うと自己嫌悪に陥るに違いない。

「私には飛紗ちゃんだけですよ」

 突然飛び出てきて男性とぶつかりそうになったところを、つないでいる手を引っ張って引き寄せる。バランスを崩した飛紗が瀬戸にもたれかかる形になった。

「ヤキモチを焼いてくれてうれしいです」

「……ずるい」

 やっと振り返った飛紗の顔は真っ赤で、手を握りなおして隣に並んだ。入ってきた電車に乗りこむ。乗り換えなしで約一〇分。そこからホテルまで約五分。気を張って疲れているだろうから、はやく休ませてあげたい。

「そういえば別れ際、心寧に何かこっそり渡してましたよね? あれなに?」

「ああ、チョコレート二粒。エクレアと別にして買っておいたん。マキさんにはちゃんと伝えとるよ」

 抜け目のなさに感心する。二人だけの秘密、に心寧は舞い上がったに違いない。そして秘密を共有すると仲間意識が生まれる。今日はあまり話さなかったが、心寧が飛紗に懐くのもそう遠くないと思えた。

 飛紗ちゃんに選ばれたことは、自慢なんです。

 心のなかで、心寧に話しかける。きっといつかわかってくれるだろう。

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