魔法少女

めけめけ

第1章 春夏秋冬

第1話 春の目覚め

 週末、公園のベンチに腰かけ、ぼんやりと子供たちが遊んでいる姿を見ていた。


 僕たち夫婦に子供はいない。妻と結婚して3年になる。

 お互いに仕事を持ち、結婚してからも妻は仕事をやめなかった。いや、やめられなかったのだったか。

 ともかく子供を作るのは、もう少し先にしようと、二人で話し合った。


 この春、妻が急に仕事を辞めると言い出した。

 僕はそれを心から喜んだが、心から望んでいたのかどうかはわからない。

 なんとなく部屋にいられなくなり、『タバコを買いに行く』と言って家を出た。すぐに部屋に戻る気になれず、この公園で時間をつぶすことにした。


 ミサを愛している


 その気持ちに偽りはない。

 だからと言って、浮気を全くしたことがないかといえば、それは偽りになる。妻への愛とはまったく関係なく、そういうことは、起きるときには起きるものだ。

 もちろんそれを正当化するつもりも、ましてミサのせいにするつもりもない。結婚をするまで自分が妻以外の女性と関係を持つなんて想像もしていなかった。

 互いに仕事を持っているということは、少しずつだが確実に生活のズレが生じてくる。3年という月日の中には、思いもよらない出来事が一度や二度起きるものなのだ。


 だがミサが家に入るとなれば、いろいろと清算しなければならない。そう思うと面倒で仕方がなかった。浮気を感づかれたとは思わない。そんなへまはしていない。

 しかし、ミサは勘のいい女だ。

 すべてを見透かしたような目で僕を見る。その目が――、怖かった。


「おじさん、ボールとってぇー!」


 ボールが僕の足元に転がってきた。小学生くらいの男の子が手を振っている。

 その後ろにもう少し小さな男の子が首をかしげながらボールを投げる真似をしている。どうやら兄弟のようだ。

 私はボールを兄と思しき少年に投げであげた。少年はしっかりと両手でボールをキャッチし、僕に礼を言うと、弟と思しき少年に向かって言い放った。


「お前、本当に下手クソだなぁ」


 僕はその光景に、デジャブのようなものを感じた。僕も弟と同じようなやり取りをした覚えがある。あれは確か……。


 あれは僕が小学3年生に上がったばかりの時。二歳年下の弟と近所の公園で遊んでいるときのことだった。

 弟はキャッチボールが下手クソで、それでも根気よく、ボールの握り方、投げ方、受け方を教えてあげていた。でも、弟はなかなか思うとおりにやってくれない。

 弟の投げたボールは、とても僕が届かないあさっての方向に飛び、僕はそのボールを追いかけて走った。

 公園のベンチ。ボールの転がった先に一人の少女がぽつんと座っていた。ボールは彼女の足元に転がった。


「ねぇ、ボール取ってくれる?」

 少女は酷く驚いた表情をして、回りをきょろきょろと見渡し、小さく舌をだした。

「ボール、これね。はい、どうぞ」

「サンキュー!」


「あなた、この町の子?」

「うん、そうだけど、君はちがうの?」

「わたしは、ほかの町――というか場所に住んでいるの。ちょっと、遠いところよ」

「そうなんだ。いま、一人なの?」

「そうね。一人かな。たぶん」


 いたずらぽく微笑む少女はまるでフランス人形のような透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。着ているものは公園で遊ぶには不釣合いな余所行きの格好をしていた。


「お兄ちゃん、まだぁ?」

 弟がボールを催促する。僕はボールを弟に向かって投げた。

「ちょっとタイム。アキラ、一人で練習していて」


「えー、つまんない」


「いいから、そこのトイレの壁にボールを投げる練習しておけよ。ちゃんとまっすぐ投げられるようにな!」

「お兄ちゃんといっしょがいい」


「10回ちゃんと投げられたら、一緒にやってあげる」


「10回? いいよ、わかった」


 弟はいつも僕について歩いていた。僕は時々それを疎ましく思っていた。弟と一緒じゃなければ、もっと友達といろんなところで遊べるのに、どこにでもついて歩こうとする弟は必ず最後には足手まといになっていた。


「弟さん、いいの?」

「いいよ、あんなやつ」


「そうなの?」

「いないほうがせいせいするよ。君には兄弟はいないの?」


 少女は小さく首を横に振った。黒い髪が風になびく。

 どういうわけか僕は、その少女に興味を引かれた。それを一目ぼれというには、あまりに僕も少女も幼かった。いや、彼女はもしかしたら、そんなこともないのかもしれないけど。

 ともかく僕は、弟のことよりも、その少女ともう少し話がしたかった。


「ねぇ、君はいくつ?  今、何年生なの?」

「何年生?  あぁ、学年ね。わたし学校には行ってないの。だから、何年生とかないのよ」


「えー、本当に? そんなことできるんだ。びっくり」


 少女は少し笑いながら答えた。

「びっくりも何も。わたしこそ、びっくりよ。私が見えるなんて」


「え? なにが?」

「まぁ、いいわ。どうせ話しても信じてもらえそうにないし」

 僕は少し腹立たしかった。

「だから、何がだよ。信じるとか、信じないとか」

 女子に馬鹿にされるのは恰好が悪い。


「ねぇ、あなた。宇宙人とか幽霊とか信じる?」

 変わったことを聞く子だと思いながら僕は少し意地悪な言い方で答えた。

「見たことのないものは、し・ん・じ・な・い」


「へぇ、そうなんだ」

 女の子はこういう話には興味がないものだと思っていた。

「でも、よくわからないな。テレビでそういう番組やっているとオヤジはいつも『生まれてこの方、見たことない』って言って、チャンネルをまわしちゃうんだ。本当はUFOとかネッシーとかもっと見たいのに」


「ネッシー?」

「知らないの? ネス湖にいる恐竜さ」


「恐竜? まさか」


「そうだろう? 僕もそう思うんだ。そう思うんだけど、いたらすごいなぁって思わない?  雪男とか地底人とか」

「宇宙人とか超能力者とかも?」

「いてもおかしくないかなぁって僕は思うな」

「じゃあ、魔女とかは?」


 少女はとてもいたずらっぽい表情を浮かべながら僕の顔を覗き込んだ。僕は思わずたじろいでしまった。

「まっ、魔女? ほうきに乗って空をとぶの?」

「そんな魔女はいないわよ。そうじゃなくて、魔法を使う女の人。あー、ちがうか。魔法を使える人」


「魔法? 人間をカエルに変えたり、かぼちゃを馬車に変えたりかい? そんなのは、おとぎ話や漫画の世界の話だよ」

「そう……。やっぱり信じられない?」


 僕にとっては魔法は超能力よりも滑稽なものに感じていた。

「だってさ、もし、魔法使いがこの世に存在したら、もっとすごいことが起きてるんじゃない?」

「もっとすごいことって?」


 あまり魔法を真面目に考えてなかったのでとっさに言われると困ってしまう。

「うーん、よくわかんないけど、奇跡とか……」

「奇跡? 奇跡は、毎日どこかで必ず起きているわよ」

 苦し紛れに出た言葉を取り繕う。

「あっ、そういうことじゃなくて、海が割れて道ができるとか、死んだ人が生き返るとか……」


「魔法はね。誰も望んでいないことはかなえられないのよ」

「誰も望んでいないこと?」

「そう、たとえば、世界が平和になりますようにとか、病気で苦しむ人がいなくなりますようにとか、そういうこと」


「えっ、なんで? どうしてそれがダメなの?」

「わからないの。それがわからないから、わたしダメなのね」


 少女はとても悲しそうな、寂しそうな表情をした。力なくベンチに腰掛け、空を見上げた。その瞳にはまるで空の青さがそのまま映ったような美しさだった。僕は、しばらくそれに見蕩れてしまった。


「ねぇ? あなたの望みって、なに?」

 不意に少女が尋ねてきた。お金持ちになりたい。野球が上手くなりたい。そんなことが最初に頭をよぎった。


「ねぇ、お兄ちゃん。まだぁ? もう一人で、遊ぶのいやだよ」


 公園の入り口のそば、トイレの壁にボールを投げて遊んでいた弟がすぐ後ろまで来て、僕をせっついた。

「うるさいな! ちゃんと10回できたのかよ!」

「だって、だって、一人じゃできないもん!」

「できないなら、もう一緒にやってやらない!」

「お兄ちゃんのいじわる! ばかーっ!」


 売り言葉に買い言葉――弟に罵声を浴びせるのをこらえられたのは、目の前にあの少女がいたおかげだ。だけど、弟が公園のトイレに向かって駆け出したあと、僕は思わず口走ってしまった。

「あんなやつ……。あいつなんか、いなきゃいいのに!」


「そう。そうなの。それがあなたの……」


 その声は、少女の今までのそれとは少し声のトーンが違うように思えた。

 いや、少女が公園のベンチに座っているのに、なぜかその声は僕の耳元で囁くように聞こえた。

 そう、空間的な位置関係がずれているのだ。

 同時になにかとてつもなく嫌な感じが僕の肌を突き刺した。

 鳥肌が立っている。

 急にアキラが心配になった。


「アキラ……」


 振り向くと、アキラがボールを公園のトイレの壁に向かって投げているところだった。あきらかに暴投とわかるフォームから放たれたボールは、トイレの壁に当たらずに公園を出て、道路に転がる。アキラはそれを無我夢中で追う。


 そこへ一台の乗用車が……。


 ボールのフライを取る感覚と同じだ。ボールの軌道、落下点の予測、自分の走るスピード。

 それらの要素からボールがキャッチできるか出来ないかが予想できるように、アキラが車に撥ね飛ばされる映像が僕の脳裏に浮かんだ。


 ダメだ、そっちに行ったらダメだ。

 車はアキラの行動を捉えていない。絶対にブレーキは間に合わない。

「アキラ! 危ない!」


 叫ぶしかなかった。が、結果は目に見えている。


「そうなんだ」


 さっきと同じように少女の声が耳元で囁く


「わかった気がするわ」


 そう聞こえた気がする。そうじゃなかったかもしれない。僕は、もう一度、弟の名前を叫び、けたたましいブレーキ音と共にアキラは宙を舞った。いや、何かにつかまれて空に吸い上げられたように見えた。いったい何が起きている?


「大丈夫よ。弟さん、仲良くしてあげてね」


 振り向くと少女の影のようなものが、僕の目の前を通りすぎていった。少女は右手を前に伸ばし、何かをつかむような格好をしているように見えたが、まるで僕の体をすり抜けるようにどこかに消えてしまった。


 弟は奇跡的にほんのかすり傷程度ですんだ。そのかすり傷も、車に当たったにしてはまるでおかしな傷であったが、誰もが弟の無事を奇跡か”魔法”のようだと言い、それ以上は追求をしなかった。




「そういえば、あれは春の出来事だったか」

 もう一服して、ベンチから立ち上がり、空を見上げる。

 透き通った青い空に、あのときの少女の瞳を思い浮かべる。


「本当の望み……かぁ」


 公園から家に戻った僕は、リビングのソファーで、なにやら難しそうな本を読んでいる妻に、そのことを話した。

 公園で道草を食ってきた言い訳をするつもりではなかったが、なんとなくこちらから話題を振らないと、気まずいような雰囲気が漂っていた。


「あれは、いったい。何だったのだろうか?」


 僕がその話を終えると、妻はくすくすと笑い、読んでいた本を閉じるとこう続けた。

「ちゃんと覚えていたのね? でもえらいわね。あのときの約束、ちゃんと今まで守っていたのだから」


「約束? ミサ? いったい何のことだい?」

「あなた、ちゃんとわたしとの約束を守ったってことよ。このことを誰にも話してはダメよって」


 そのとき、僕は背中から首筋にかけて、蛇か蜥蜴が這い回るようなおぞましい感覚を覚えた。


「嗚呼、そうだ。そうだった。あのとき僕は、あの少女の話を親にしなかった。それは、あの少女が……、いや、少女じゃない。あれは、あれは……。ミサ、君だったのか」


「そうよ、あの少女は覚醒する前のわたし。あなたがわたしに目覚めるきっかけを与えてくれた」


「覚醒?」


「そうよ。覚醒。わたしは人の望みを叶える力を授かりながら、どうしてもそれをうまく使えなかったの。でもあなたが教えてくれた。人には本音と建前があって、本当の望みは本人すら気づいていないことがあるってことを」


「ぼっ、僕はすっかり忘れていた。いや、怖くて、恐ろしくて、それで記憶を封印してしまっていたのか。あのとき君は、僕にこういった……」


「もしも、このことを、誰かに話したら……コ・ロ・スって、そう言ったかしら?」

「そう、それで、僕は怖くなってあの少女のことを誰にも……。誰にも言わないでいたのに」


「今日、言ってしまったわね」


「ぼ、僕は、僕は君を……」


「愛している? それは本音? 建前?」

 そうか、僕にもわからなかったことがようやくわかったよ。あのとき少女が言っていた言葉に意味を……


 みんなが望んでいるわけじゃない

 平和になることも

 この世から病気がなくなることも


 だから、世界は変わらない。たとえ魔法がこの世に存在しても……

 たとえ、君への愛が偽りでないとしても……


「ねぇ……、大丈夫?」

 誰かがやさしく体を揺らす。深い闇の底から次第に体が浮き上がる。気が付けばそこはまた闇。

「うなされていたわよ。変な夢でも見たの?」

 闇の中にうすらぼんやりと白い顔が浮かび上がる。

「ミサ……」

「酷い汗ね。冷たいお水でも持ってくる?」

 体は冷えているのにびっしょりと汗をかいていることに気づき、得体のしれない不快感が体の芯にまとわりつく。

「大丈夫。洗面所で汗を拭いてくるよ」


 ミサは長く黒い髪をかきあげ、ベッドのサイドボードに置いてあった髪留めで素早くまとめあげる。

「どんな夢を見るのも自由だけど、人の名前を呼びながら苦しい表情するなんて、あまりうれしくはないわね」

 僕はベッドから起き上がり、脱ぎ捨てたガウンを拾い上げて袖を通した。

「そうか? 全然覚えていないや」

「そうなの? それならいいわ。行ってらっしゃい」

「ああ」


 何か大事なことを忘れているような気がするが、頭の中にモヤがかかったようになっている。そういえば、何度かこういうことがあった気がする。気がするだけではっきりとはしない。それもこれも、きっとこの季節のせいだろう。


 春にはいつも、こういうことが起きている――そんな気がしてならない。

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