第4話 晩夏

晩     夏  



 まだ幼さが残る少年が沖の珊瑚のリーフから、砂浜を満潮に追われるように陸の方に歩いてやって来た。

 足を踏み進めるたびに小さな足跡が砂浜に記された。

 足跡はすぐに打ち寄せる波に掻き消されてしまった。

 幸吉は防波堤から、他の老人たちとともに少年の姿を見守っていた。

 遠くの晴れ渡った遠くの空を戦闘機が細く白い飛行雲を残し、飛び去っていく。

 すでに風はやんでいた。

 だがリーフに砕ける波は通り過ぎたばかりの台風の余波で荒かった。


 こんな日に高台から海面を見下ろすと、太陽の光が、うねりの高い山の部分と低い谷部分を照らし分け、眩しい光の帯とくすんだ光の帯を描いている筈である。


 そばにいる老人の一人が、「こんな日に。アキサミヨ」と叫んだ。

 呆れたという、驚きを示す方言である。

 もちろん、台風が通り過ぎたばかりの海に出掛けた少年の無謀さに呆れたという意味である。

 幸吉は沖から帰って来る少年が自分の孫であることに気付いていた。

 少年は小さなタイドプールの水溜りでの釣りからの帰りだった。

 少年の姿は次第に大きくなり、声が届く所まで近づいていた。

「勇」

 幸吉は、その少年に呼び掛けた。

「釣れたか」

 彼は既に七十を越している。

 

 勇は黙って頭を横にふった。

「こんな日に、よく海に出掛けたものだ」

「二人そろって無茶をする」

 年を取っても、海に出て行くことを止めない幸吉に対する皮肉と非難のこもった声でもある。

 彼は勇には海が怖いことを良く教えているつもりである。無表情のまま、そばの老人を一瞥したが、口を閉じたまま何も答えなかった。


 他の老人たちと別れ、幸吉は少年と一緒に歩き始めた。

「じいちゃん、海は怖くないか」

 勇は、先の老人の「海が怖くないのか」という質問を気にしているである。

 勇は怖いと思った。

 正直に「海が怖い」と認めれば、老人たちに笑われそうな気がして、彼は黙っていたのである。

 少なくとも、まだ幼い勇の目には、幸吉だけは海を恐れているようには見えなかった。


「怖い」

 幸吉は、無意識に自分の左足を手で擦りながら孫に答えた。

 勇にも彼の無意識の動作が理解できた。

 彼の太腿には、しわのように醜い傷跡が走っている。

 戦前、シンガポールの沖で追込み漁をしている最中に鮫にやられた傷である。

 今の勇より、少し年を取っていたが、あの頃は、まだ幸吉も少年だった。

 沖縄には追込みという漁法が残っている。

 暖かい地域だからこそ生まれた独特な魚法である。

 裸の漁師が海に潜り魚をサンゴや岩影にひそむ魚たちを、追い立て、張った網の中に追い込む魚法である。

 網に閉じ込められた魚を求めて鮫たちも集まって来るので、危険な魚法でもある。

 その時、漁を網の中に追込み、網を引き上げようとする直前、幸吉は鮫に会った。

 ほかの仲間はすでに船に上がり、網の取り込みを開始していた。

 幸吉だけが、海中に残り、魚を網から逃さないため最後の仕上げをしていた。


 ホオジロ鮫という狂暴な奴で、それも三メートルもある大きな鮫であった。

 鮫は幸吉の姿を認めると、様子を見るように静かに近づいて来た。

 幸吉の頭も不思議と冷静であった。

 彼は、大人たちから教えられた通り足の裏で鮫の鼻を押し付けるようにして、鮫が網に近づくのを阻止しようとした。

 鮫は、海面に引き上げられようとする網の中の魚を餌にしようと狙ったのである。

 網の中に取り込まれた魚はもちろん、網も漁師にとって大事な生活の道具である。

 その網を鮫の鋭い歯でズタズタに噛み裂かれた話は多く聞いている。

 腹をすかした鮫は、網の中の魚を格好の餌と狙いを定めとように、なかなか諦めようとしなかった。

 幸吉は、鮫と網の間に立ち、鮫の突進を阻止しようとした。

 幸吉は、海面に顔を出しては空気を肺の中に一杯に吹い込むと、すぐに海面に顔を付け海中の鮫の行動を見張り続けた。

 船の上の漁師が網を用心深く海上に引き上げ始めた。

 鮫も気付いたのか、鮫の標的は幸吉に変わった。

 次第に凶暴になり、猛烈な勢いで幸吉への攻撃を繰り返してきた。

 彼は持っている二メーター程の短い手もりで鮫の身体を突き、鮫の突進を避け続けた。

 手銛はザラザラした鮫の肌を滑るだけであった。

 

 辛うじて何度か鋭い鮫の歯を避けることができた。

 その攻撃のたびに、やすりのような粗い鮫の肌で血がにじんでいた。

 鮫は益々狂暴になる。

 一匹で助かった。

 もし、群れをなした鮫だったら助からなかった。

 うまく、鮫の目にもりを突き刺したのと同時だった。鋭い歯が彼の太腿に大腿部に食い込んだ。

 鮫ももがきながら、必死に幸吉の足を食いちぎろうとした。幸吉は鮫に振り回されながら、もりを脳天まで付き刺そうとした。

 船の上の仲間が海に飛び込み鮫の急所の脳天を突き刺し彼を救い上げるまで、わずかな時間だった。

 あの時、彼は人生の大半の時間を使い切ったような気がする。はっきりとした印象が脳裏に刻み込まれている。


「勇は海が怖くないのか」

「怖いけど」

「でも好きか」

 勇は黙ってうなづいた。

 幸吉の言葉は勇の気持ちを的確に言い当てた。

 幸吉の前ではいつも勇は正直におれた。

「明日、夜。

 一緒に付いて行っていいよね」

 幸吉は勇の頭を優しく撫でた。

 血管が浮き上がり、細かい皺の走る彼の手には、すでにほかの同じように老いの気配が迫っていた。

「お母さんに許しを貰ったか」

 勇は黙ってうなづいた。

 幸吉は勇の反応に疑いを抱かなかった。

 彼も孫が自分の前では、いつも正直であることを知っていた。

「天気が良ければ一緒に出掛けよう」

「じっちゃん。明日の天気はどうだ」

「大丈夫さ。

 明日の夕方には、波も嘘のように静まる」

「じっちゃんが、大丈夫だと言えば大丈夫だ。じっちゃんの天気予報は、これまで絶対に外れたことはない」

 勇は頬を緩めて笑った。

 決して、良いことばかりではない。

 苦しいことや哀しいことを数え上げれば切りはない。

 だが、楽しいことも多くある。


 あの時の怪我がもとで、彼は生涯、足を引きずるようになったが、後のことを考えれば、運がよかった。

 おかげで彼は徴兵を免れた。

 仲間の多くが外地で徴兵され、帰らぬ人になった。だが、自分は生き残ることが出来たと思う。

 外地から沖縄に帰ってからの生活も楽ではなかった。

 二人の息子をもうけた。

 その二人の息子とも、すでにこの世にいない。二人とも海で失った。

 随分悲しんだ。

 あの時のことは忘れることはできない。

 だが、次男の嫁がなした孫の勇といると、彼にとって二人の息子がいたことも夢だったかも知れないと思うようになった。

 二人とも大きな船に乗っていた。

 長男は、台風の後の大波に飲まれて行方不明になったまま帰らない人となった。

 勇の父は怪我の後、長く患った後、苦しみながら死んでいった。

 勇の母親は港の近くで小さな焼き鳥屋を始めた。

 もう三年が過ぎてしまった。

 うるさい老人たちは、めざとく彼女の行動を監視し、幸吉に言ってくる。

 彼は、そのような誹謗の言葉を気にしないようにしていた。

  昔は、あいつらも他人の噂で暇を潰すことはなかった。陸に上がってから人が変わったと思っている。

 勇の母が店を始める時も反対しなかった。

 じっちゃんもみんなと同じように陸に上がれば良いのにと言ってくれる。

 幸吉にとっては優しい娘である。

 勇は彼女が夜の仕事で出かけた後、淋しそうにしているが、だが生きるために仕様がない。


「じっちゃんも頭が空っぽになる時があるか」

 突然、幸吉の沈黙を破るように勇が話し掛けてくる。

「あるさ」

「今でもあるか」

「もちろん」

「僕と同じだ」

 勇は、共感を込めて歓声を上げた。

 彼も何かに感動する時、いつも頭が空っぽになる。

「でも、最近は少なくなった」

 勇は、淋しそうにつぶやいた。

「お父さんが元気な時は、よく頭が空っぽになっていたのに」

「怖かったのか」

 勇はうなづいた。

 父親が元気な頃、よく叱られていた。

 幸吉が自分の息子に教えていたことを、自分の息子も子供の勇に教えていた。

「叱られる時は、頭が空っぽになった。

 寂しいね」

「心配するな。

 大人になったら他に夢中になれる物が現われて来る。

 でも今は頭が空っぽになることは無いのか」

「ウウン。今でもあることはあるけど」

 勇は笑って頭を横に振った。

「魚を釣り上げた時か」

 勇は黙ってうなづいた。


 あの時も頭が空っぽになった。

 まるで白い霞のような虚無感が全身を支配した。長男に次いで、次男の勇の父までを早く失うことになるとは。


 漁師にとって運、不運は付いて回る。

 海の気象にしろ、人間の予想外の動きをすることがある。

 運が悪いとか良いとか諦めるしかないことが多くある。

 それに漁師は昔から神を信じる。

 神秘的で驚異的な自然を相手にしているせいで、やむを得ないことなのだろう。


 波は翌朝には静まっていた。


 ゆっくりと準備をし、サバニに荷を積み終え頃には、水平線上に太陽が沈みかけていた。

 波は昨日までの嵐が嘘のように納まっていた。

 エンジンをかけてみた。

 古いディゼルエンジンはせき込むような重い振動音を響かせ黒い煙を上げる。

 長い付き合いである。古い友人のようなものである。

 エンジンのかかりが悪い時の、あやしかたも知り尽くしている。

 沖のコンクリートの堤防を出るまでは珊瑚の浅瀬が多い。

 気を付けて、ゆっくり進まねばならない。

 底の浅いグラスファイバー製のプレジャーボートが海面を叩きながら、そばを走り抜けて行く。

 いつもことである。

 慌てることもあるまいに。

 幸吉は、走りすぎて行く船を見ながら、心の中で呟いた。

 

 通りすぎたボートが立てた波で船が微かに揺れた。

 サバニは正面から見ると、ナタのように三角形の形をしている。波に乗らず船底で海を切り裂くように走る。

 速くは走れないが、どのような波にでも対応できる。細いが横から波を受けても重心が低いせいで絶対に転覆はしない。

 勇はうらやましそうに通り過ぎて行くボートを目で追い掛けていた。

「あんな船に乗ってみたいか」

「あんなボートでは遠くには行けないよ。

 だって、弱すぎる。速すぎる。

 荒波ですぐに転覆するよ。

 遠くに行くためにはゆっくりと行かなければ」

 彼は幸吉が、この古い小さなサバニを大事にしていて、海が荒れ漁に出れない時にも整備を欠かさないことを知っていた。

 幸吉にとっては、船の整備や自分の仕掛けを作るのは、昔から期待と不安が交互に胸に行きかう楽しい時間だった。

「昔は、こんな小さなサバニでフィリピンまで行ったものさ」

 幸吉は誇りにもって応えた。

「今はもう駄目か」

「今でも行けるだろう。海は昔と変わらない。でも年を取りすぎた」

「じっちゃん、今度は僕が大きくなったら、連れて行ってやろう」

「ありがとう。

 楽しみにしているよ」

 彼は孫の言葉を噛みしめた。


 幸吉も何度かこのサバニの強さに命を助けられた。

 サバニの分厚い木の船底は、珊瑚のリーフに乗り上げても多少の衝撃では絶対に破れることはない。

 驚くべきほどの復元力を持っている。強い風や波に対して船首を波に向けて進む時にはもちろん、波を船腹に受けて進む時にも波の背に乗り、転覆しない。波の波長と相性がいいのである。

 ラジオ放送もない時代、洋上で台風に遭遇することがあった。

 昔の人は良い物を作ったものだ。

 自分が死んでも、勇の心の中にこの小さな船と自分のことが思い出として残ってくれるはずである。

 

「勇。じっちゃんが子供の頃は、この辺りでも大きなイラブチャー(南洋ブダイ)が面白いように釣れた」

 今は海の底の珊瑚礁も死に絶え、白色の死骸の廃虚が海底に残っているだけだ。

 数年前に、大発生した鬼ヒトデのせいで、この辺りには魚の住み家となる珊瑚は見られなっている。

 何もいなくなった海の底を覗き込む勇に、幸吉は慰めるように語りかけた。

「何故、こうなったの」

「人間のせいだ」

 声はエンジンの音に掻き消される。

 肺の中に息を一杯に溜めて大声でわめくように話し掛けた。

 昔は遠くまで行く苦労もなかった。

 すぐ近くの海で生活の糧を得ることができた。

 人間は面白いことをする。

 大きな漁港を造るのはいいが、代償に近くの漁場を潰していく。

 昔は珊瑚のリーフが大地を大洋の荒波から大地を守る防波堤の役目をしている。

 だが今は、その位置に白いコンクリートの防波堤がある。

 近くの漁場を失った漁師は、船を大きくしなければならない。

 漁場まで行くのに使う燃料代も馬鹿にはならない。

「人間は勝ち目のない馬鹿げた競争を海に仕掛けている。

 本当に愚かなことだ。

 それは、まるで小さな虫たちが大木を食い倒そうとしているようにも見える。その大きな木を食い倒した後は、その虫たちも生きてはいけない。

 勇は幸吉の独り言を黙って聞いていた。


 でもそれ以上に嫌なことは人間たちが怠け者になったことだ。

 結局、色々なことを考えていくと分からなくなり、考えることを止めねばならなかった。


 船がリーフの外に出ると、次第にうねりが大きくなってきた。


 サバニは波を切り走った。

 勇は手で波を掬って遊んでいた。

「まだ暖かい」

 無邪気な歓声を上げる。


 みんなこうやって大人になって、立派な漁師に育っていった。

 途中、幸吉は勇に舵を取らせた。

 何度か体験をさせている。

 万が一のことが起きた時の準備でもある。

 

 しだいに周囲は暗くなっていく。

 まだ風は暖かいが、夏も終わりに近い。

 過ぎて行く時間を大事にしなければと思い続けていた。


 港を出て一時間は経ったろうか。

 珊瑚の切れ目の狭い水路を通り過ぎてからも、すでに三十分が過ぎている。

 波は、長い周期の大きな円のようなうねりを描き、ひどくゆったりとしたリズムで船を押し上げ、そして沈めた。

 遥かかなたの灯りの点る沖の浮き灯台も、うねりに揺れていた。


 次第に陸が遠くなって行く。

 糸満の町も変わった。昔は平屋の家しかなかったのに、最近は新しい鉄筋コンクリートのビルが建ち、ネオンが町を照らすようになった。


 大陸から復員して来た時の様子を思い浮かかけて幸吉は激しく頭をふった。

 思い出したくないことの方が多かった。

 町は焼け野原だった。

 随分片付けられたということだったが、まだ、生々しい人骨が野原に転がり、死臭が漂っていた。

 しばらく彼と過去を繋ぐものは何も見出せないようだった。無気力な日々が続いた。

 ところが、ある日突然、県を通じて一通の手紙が舞い込んできた。弓野という縁もゆかりもない男からのものだった。

 それで彼は自分の家族の最後の姿を知ることが出来た。そして唯一の家族の遺品でもある写真を手に入れることが出来た。彼がどのような経緯で、それを入手したかはもちろん、彼の連絡先さえ知ることは出来なかった。

 彼は、それを機転として人生を歩み始めた。

 

 生活もずいぶん変わった。

 それも、最近、急にである。だが、どんなに島が変っても、これまで一度もこの島を嫌いになったことはない。

 青い海と、透き通るように青い空。

 茜色の朝焼け。まぶしい太陽。真っ赤な夕焼け。月夜。闇夜。小雨。大雨。

 過ぎて行く一日の時間の中でも、めまぐるしく景色は変わる。

 季節でも景色は変わる。

 飽きることはない。変わる景色を眺めているだけで生きている価値がある。


 永遠にこのリズムが続き、勇たちと共有できると信じることが出来れば、寂しいことはなかった。

 自分がこの地上から姿を消しても、寂しくはない。自分は勇たちと一緒に生き続けることが出来ると信じることが出来た。

 だが、確実に目の前にある物が変わっていく。

 それも想像ができないほどの早い速度で。

 自分の死後、この世界の様子を想像できなくなった。


「どこまで行くの」

 心細くなってきたのだろうか。

 遠出をするのは始めてであった。

「グカン礁まで」

 糸満の沖、十キローほどの沖合に灯台が立つ珊瑚の浅瀬がある。

 ここ数年、幸吉も足を伸ばしたことがなかった。

「まだ三キローほども残っている」

 糸満の町が遥か遠くに、手の平に入りそうなくらい小さく見える。

 目は効いた。

 幸吉は自分の身体の機能を一つ一つ確認するようになっていた。

 そこまで行く最後の機会かも知れない。

「そこは深いの」

「浅い所もあれば深い所もある。

 だが夜になると、魚たちは餌を求めて深い所から浅い所に集まって来る。

 夜の魚は値の良い。昼みたいには数は期待できないが。

 勇も海の底に棲む怪物のような大きな魚を想像した。想像するだけで楽しかった。

「海の底はどのようになっているのだろう」

「もう少し、大きくなったら、潜ったらいい。

 色々なことが解るようになる」

「早く大人になりたい」

 勇の自分を見る目が暗闇の中で、幸吉には一瞬、輝いて見えた。

「じっちゃん。

 それまで長生きしてね」

 まだ勇に教えてやれることが、山ほど残っている。

 

 魚の住む場所は、月例や風によって潮流が変わる。もちろん潮流や水温の変化で魚の動きや住む場所も変わってくる。


 目的のグカン礁に着いた時には、すっかり暗くなっていた。

 勇が綱をほどき錨を卸してくれた。

 幸吉は、灯台と糸満の街の明かりで船の位置を確認した。

 昔は、この場所が、よく釣れる場所だったが、今はどうだろうか。幸吉は遠い陸地の灯りを見ながら、かすかな不安を感じた。

 しばらくして暗闇の中で灯台の位置と遠くに見える糸満の街の灯りで船の位置を決めて、舵を操作している勇にエンジンを止めるように合図をした。

「魚はいるかな」

 幸吉はエンジンを止めた。

 エンジンを止めると船べりを叩く波の音だけが響いた。

 静けさと心細さが支配をした。

 ゆっくりと風に押されて船はへさきを風上を向けた。錨ロープが伸び切った。


 ボラの背に針を通し、海中に沈めた。

 オキアミを蒔いた。

 昔はそんなことは必要でなかった。

 魚影が薄くなったせいだ。


 生き餌を海中に沈めると、二人とも頑なに口を閉ざした。

 海に糸を垂らし魚を来るのを待つ間は、何も考えず、無心に竿の先を見つめていた。

 近くに船はいない。

 月は、九時頃に顔を出す。

「じっちゃん。アバズレって良いことか」

 勇が、小声で尋ねた。

 幸吉は、勇の言葉に耳を疑った。

 勇の表情は暗くて見えない。

 質問を理解するのに、少し時間が掛かった。

「アバズレ。そう言ったのか」

「うちのかあさんはアバズレだって」

 アバズレという言葉が勇の口から発せられた時、この言葉が出ることを予感していた。

「誰が、そんなことを言った」

 幸吉は怒った。

 勇は打ち明けたことを後悔した。

 そんなたぐいの話を何度か、海辺でたむろする老人たちからも聞いていた。

 幸吉は帰って来た娘に男の匂いを感じることがあった。

 朝方、帰って来る娘の足音に男の足音が重なっていることに気付いていた。

 だが、もう、どうでも良いことだった。

 彼女も子供ではない。

 幸吉もこの問題を深く考える気はなかった。


「何時、そんなことを言われた」

「喧嘩をしていた時に」

 勇も、悪い言葉であることを薄々気付いていた。

「でも、どうでもいいや。

 もう気にしないことにするよ。

 あいつとは、これから口を効かないようにするから」

 幸吉は勇を複雑な表情で見守っていた。

 そばにいて、長くは助けてやりたいが。時間には限界がある。

「気に入らない奴と無理して付き合う必要はないさ。

 他人に、つまらない関心を抱いたり、傷つけることを平気でいう奴は毒でもない奴だ。そいつらも大人になれば解るようになる」

「早く大人になりたい」

「大人になっても嫌なことがたくさんある。

 負けないことだ。強くなることだ」

 魚が来るまで気長に待つ必要がある。

 二人とも黙った。

 竿のへ先で餌にした魚の動きを微かに感じた。その生き餌の動きから海中の様子を感じることが出来た。

 生き餌が、ひどくおびえている。

 竿先の動きが、幸吉に、そう教えていた。

 その生き餌自体が激しく動いた。

 とてつもなく大きい奴が近づいて来ている。

 食いつこうと様子を探っている。

 勇も竿先の動きに気付いていた。

「慌ててはいけない。根気よく待つんだ」

 幸吉は、勇を諭した。

 慌てて竿を動かすとせっかく寄って来た魚が驚いて逃げてしてまう。

 鈍い衝撃が船に響いた。

 短く太い竿が大きくしなった。

 次の瞬間、小さな勇の身体がゴム鞠のように船から暗い海中にほうり出されていた。

 一瞬であった。

 幸吉は海に落ちて死んだ長男の事故を走馬燈のように思い出し、悪夢を見たような気がした。

 主のいなくなった竿が不気味な音を立てサバニの船べりを擦っている。


 勇は鼻から水を吸い込んだ。

 脳天に響くような冷たい感触が走った。

 でも不思議に冷静でいられた。


「勇。大丈夫か」

 胸が張り裂けるばかりの大声であった。

 まだこんな大声を発することができたなんて。声を発した幸吉は自分の声に驚いた。

 しばらくして浮き上がった勇が、海面で手足をばたつかせた。

 海面に浮いてきたらしい。

 息を大きく吐き出し、「大丈夫」という答えが返ってきた。


 水中をうろついていた怪物が勇の餌の方に喰い付いた。

 もし近くに岩があれば、糸は擦り切られてしまう。

 その心配はあるまい。

 夜の魚の動きから、ずいぶん海底から余裕を取っている。

 竿も大丈夫である。

 根元の方を紐で、しっかりと船体に結び付けていた。

 その間も、竿は一人で生き物のように動いていた。

 固い竿が大きく曲がるたびに、細長いサバニが左側に傾いた。

 目を凝らすと、勇が船べりにつかまり海面で目を白黒させて浮いている。

 幸吉は安堵した。

 教えていたとおり糸を手に巻き付けるような馬鹿な真似はしていなかった。

 幸吉は海中の勇に竿を差し出し、勇を船の上に引き上げた。

 魚は必死に海底に潜ろうとした。

 サバニごと海中に引きずりこもうとする強い勢いである。


 細菌ではめったに姿を見なくなったハタかも知れない。

 幸吉も最近では釣り上げていない。


 近ごろでも釣れるアジだったら、横に走って逃げようとするが、ハタならそんな動きをしない。

 強引に、住み家の岩の根に潜ろうとするのである。

 海底の岩場にでも潜られたら、上げることできない。


 幸吉は魚が潜ろうとする度に、左右に揺れる不安定な船をゆっくり歩いて反対の舷に移動した。船べりから水が入るのを防ぐためであった。

 それほどまでに引きが強かった。

 勇を引き上げる時にも左舷から、水が入ってきた。

 エンジンを掛けた。

 船底にたまった水を、外に吐き出すためである。


 幸吉の手助けを借りて船に引き上げられた勇の興奮は、まだ納まらない。

 彼は目を大きく見開いて竿の先を見ていた。

 糸は大丈夫である。

 魚は海中で、暴れ馬のように暴れている。二人力を合わせても引き上げることはできそうもない。手のほどこしようがない。

 疲れるのを待つしかなかった。

 十分もたっても、魚の引きは一向に弱まる様子はない。

 針は十分に魚の顎を捕らえている。


「クジラでもかかったのかな」

 ずぶぬれになった勇が幸吉の方を見てつぶやいた。


 魚は強い引きと弱い引きが交互に繰り返すようになるまで、ずいぶん時間がかかった。「じっちゃん。

 疲れてきたみたいだ」

 幸吉は頭を傾げた。

 彼にも分からなかった。

 勇が竿を手に取り、リールを巻こうとすると魚は敏感に反応した。

 リールに巻いた糸の分だけ、すぐに引きもどされてしまう。

 だが、その動作を根気良く繰り返して行けば、魚が海面に姿を現す筈である。

 魚が針に掛かってから、二十分ほどたった。 勇の額にも汗が滲んでいる。

 幸吉は糸が交差しないように、自分の竿の糸を巻き上げていた。

 勇が海中の魚と格闘をしている間は、魚も寄りつかない。


 勇は、根気よく糸を巻き続けた。

 海面に魚が口を出すまでは手助けをしないことに決めていた。

 勇もそれを望んでいるはずである。


 明かりを点けて覗き込むと、魚は驚いて背びれを叩き、船底に潜り込もうとした。

 海面に一メートルは越す魚が姿を見せるまで、一時間ほど経っていた。市場でもお目にかかることもできなくなった大物である。

 明かりの中で、彼の茶色の膚に浮かび上がる。

 茶色の肌の白い斑点が際立っていた。

 胸の空気室が膨らみ、ひどく太っている。

「凄い。ミーバイだ」


 思ったとおりだった。

 見てくれの良い魚ではない。

 最近では、めったに釣り上げることが出来なくなった。

 漁師たちの間でさえ垂涎の的となっているを釣り上げてしまったのである。

 子供の頭を軽く飲み込んでしまいそうな大きな口を開け、身体を船べりに当てて、抵抗をする。

 カギをエラに引っ掛けた。やっと二人で船に引きづり上げた。

 幸吉はねたましい気持ちになった。

 勇に対する最大の賞賛だと思い、自分を許していた。

「じっちゃん、運が良かった」

 幸吉の気持ちを気遣って、勇が慰めた。

 奇跡としか、言いようがなかった。

 恐らく餌を求めて住家を出たか、古い住屋を求めて移動している最中だったのだろう。

 幸吉は十五キローはあると感じた。

「じっちゃん。

 これで、あいつらにも自慢ができる」

 勇は素直に喜びを表現した。

 母親の悪口を言った友達のことである。

「そうだな」

 

 魚を船に引きづり上げると幸吉の手足はなえてしまっていた。

 周囲がボンヤリと霞んで見えた。

 暗闇のせいではない。

 立ったまま寝ているような、うつろな感覚で帰り支度を続けた。


 年を取てしまった。

 昔はこんなことはなかった。

 興奮が納まらない勇に手伝って貰ってロープを手繰り寄せ錨を上げエンジンを掛けた。 その後、意識が自分の身体から遠くへ離れていくように感じた。

 まるで魂が身体からスーと抜けていくような感じである。

 このまま寝入っててしまうと、二度と目を覚ますことがなくなるような気がした。

 まだ、駄目だと抵抗をした。

 ハタを上げた一本釣りの漁師が次の日には病気をしたという話をよく聞く。

 迷信のたぐいの話だと思っていた。

 ハタを釣るためには、岩場のしかも海底近くに餌を降ろさねばならない。だから岩の根に潜られる恐れが十分にある。それを防ぐために一本釣りの漁師たちは、掛かった瞬間に一気に、底の岩場に潜られないように、力任せに二メートルから三メートル上げなければならない。その時、古い傷が開いたりするのであろうと幸吉は考えていた。

 勇が横になったまま動けなくなった幸吉に雨よけのビニールシートかぶせた。


 かすかなエンジン音で目が覚めても、幸吉は立ち上がれなかった。

 どうやら、この話は迷信ではなかったらしい。勇にではなく自分にツケが回ったらしい」

「じっちゃん。

 疲れているんだ。

 安心して寝ててもいい。僕が操縦する」

 耳元で勇の声がした。

「フィリピンまでは無理だけど、糸満までなら、もう大丈夫だ。一人でも行ける」

 勇の声は明るかった。

 幸吉は、その声に安堵した。


 時々、船が波を切る快い振動を感じ、目を覚ました。

 ひどく手足が萎えた。

 揺れるゆりかごで寝ているような気がした。

 久しぶりに快い夢を見ていた。

 南の国から故郷の沖縄へ帰った時の夢である。戦争で全滅したはずの家族が笑顔で屋敷の門で出迎えてくれた。

 誰も年を取っていなかった。

 一人一人の姿を、はっきり見ることができた。

 屋敷も、昔のままである。

 あの時は、焼け野原で遺体がいたる所に転がっていたのに。

 勇の声で気が付いた時、幸吉の頬は涙に濡れていた。

 波のしぶきではなかった。

 勇には気づかれたくなかった。

 今まで彼が失った家族のことや生活のことを思い出していた。戦前の家族。そして離別。

 新しい沖縄での生活。結婚、妻との死別。息子との死別。

 その時まで、彼は、まだ自分のそばでみんなが生き続けているように思っていたのである。

「みんな死んでしまっていた」

 小さな声で呟いた。

 でも勇がこれから生きていてくれる。


 船は糸満の沖にある浮き灯台まで来ていた。

 港はすぐ近くだ。

 頭を微かに上げることはできるが、身体はやはり動かなかった。

 (きっと勇がいうように疲れているだけだ。

 明日には立ち上がることもできるようになる。)


 彼は自分にそう言い聞かせていた。

 だが彼は、一つだけ正しいことを確信をしていた。

 それは来年の夏には勇を連れて漁に来ることはできないということである。

 まだ勇には早すぎると思ったが、来ておいてよかった。

 幸吉はそう感じていた。

 それは正しいことだった。

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