2-11.呼び声

 喫茶室の中で、鍵を掛けた扉から三、四歩離れた場所で、ルッグはその扉をじっと見つめた。


(廊下の窓枠やさんの隙間から侵入してきたんだ)

 少年は思った。

(扉の隙間からだって……いや、扉だけじゃない。部屋中の隙間から……)


 そこでハッとして、ほとんど全面ガラス張りになっている庭に面した方を振り返った。

 しかし、窓ガラスの向こうは相変わらず霧の白一色で、黒い粘液が侵入した形跡は見られなかった。


 ほっと安堵の息をいて、喫茶卓の前にあるソファに尻を落とした。

「何なんだよ……」

 どうやら、しばらくの間は安全だと分かると、今度は、この奇怪な現象そのものがルッグの頭を悩ませる。

「あの黒いねばねばしたのは何なんだ? この濃い霧の中から現れたのか? この屋敷だけが化け物に襲われているのか? それとも町全体が? まさか帝国そのものが……世界そのものが変になっちまったのか?」


 その時、誰かが部屋の扉を叩く音がした。

 ぽとっ、ぽとっ、という弱々しい音だった。

 次に少女の声が聞こえた。

「あ……け……て……ルッグ」

 ひどくかすれていて、ソファに座っているルッグの耳に、やっと届くか届かないかという程度の小さな声だった。


「お……お嬢さま……」

 急いで扉の所まで駆けつけ鍵を開けようとした手が……本能的に止まった。

 ……何かが、おかしい。


「ルッグ……助けて……」

 再び、お嬢さまの弱々しい声が聞こえた。

 続いて、扉を叩く、ぽとっ、ぽとっ、という音。


 よく耳を澄ますと、その、手で扉を叩いているはずの音に、かすかに、ぴちゃ、ぴちゃ、という湿った音が重なっていた。

 ルッグは、あわてて二歩、三歩と後ずさった。


 ……違う……扉の向こう側に居るのは、お嬢さまじゃない…………


「や、やめろ」

 少年は扉に向かって……扉の向こうに居る『何物なにものか』に向かって、言った。

「僕の名を呼ぶな……戸を叩くな……助けてなんて言うな!」

 そして耳をふさいでソファの上に寝転がり、両目をきつく閉じて、赤ん坊のように体を丸めた。


(やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ)

 心の中で、ただそれだけを何度も何度も叫び続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る