20、蠅の王子

 暗闇の中、アーレン以下〈抵抗団レジスタンシア〉の者らは、矢に当たらぬように石板の床の上を這うようにして各自散開し、女神像の台座や柱の影に隠れた。


 その間も、敵兵たちが暗闇に放った矢が建物内の構造物に当たって跳ね返る音が神殿内に反響し続けた。


「暗闇の中で当てずっぽうにクロスボウを射って、無駄に矢を消費するとは……精鋭と言われたカールン警備兵士団も地に落ちたものだな」

 アーレンが柱の陰でめ息まじりにつぶやく。

「まあ、今の警備兵士団はチンピラの集まり、か」


 突然、神殿内に大きな声が響いた。

「ええいっ! めだ! めだ! 撃ち方やめろ! 女に……に当たったら、どうする! ザック様は『生きたエサ』しか食わんのだぞ!」

 意外なことに、それは大人の男の太い声ではなく、声変わり直前の少年の声だった。


 矢の音がむ。


 神殿内を一瞬、静寂が支配した。


「〈虫箱〉を前へ出せ! 中央へ!」

 少年の声とともに、車輪のようなものが転がるゴロゴロという音が、暗闇の中に響いた。


「ようしっ! 篝火かがりびけ!」

 再び、少年の声。


 ボッ……


 神殿内のあちこちに、前もって設置されていた篝火かがりに火がともった。


 明るくなった神殿の中央にあったのは……巨大な「ガラスの箱」だった。


 馬車のような車輪付き台座の上に、縦三メドール、横二メドール、高さ二メドール半の厚いガラスでできた直方体があった。

 巨大なガラス箱のそれぞれの辺は鋼鉄製の角棒で出来ていて、それが窓枠の役目を果たしている。

 四つある側面のうち一つだけ、四角形の枠線があった。どうやら箱の出入り口らしい。その出入り口をふさいでいる扉も、ほぼ全面ガラス張りだ。


 ガラスの箱の中に少年が立っていた。

 十三、四歳くらいだろうか。

 晩秋の寒さの中、上半身は裸で、下半身には黒い革製のピッチリしたズボンと、すねのほとんどを覆う細身のブーツをいていた。

 美少年と呼べる細面ほそおもての端正な顔立ちだが、両生類を思わせる色白のヌメッとした肌が、見る者に嫌悪感を抱かせる。


「僕の名は、ルニク」

 箱の中の美少年が言った。


 案外、声が良く通る。

 一見、完全密閉されているように見えるガラス箱だが、どこかに空気を抜く穴でも開いているのだろう。


「最近この町に来て、警備兵士団長ジャギルスの世話になっている者だ。つまり食客……平たく言えばさ……おっと! だからって、戦斧を振り回すしか能のない筋肉ブタのギードなんかと一緒にしないでくれよ」


 上半身裸でガラス箱に入った少年は、ひょろひょろに痩せた肩を大げさにすくめて見せた。


「ギードの筋力がいかに並外れていようとも、その技は、しょせんだ……僕とは比べものにならないよ。……何といっても、僕の能力は……〈だからね」


(何っ!)

 少年の言葉に、アーレンは我が耳を疑った。隠れている柱の陰からわずかかに顔を出し、大きなガラス箱に入った少年の姿を見た。

(見たところ、普通の人間に見えるが……まさか、〈妖魔〉に取りかれているのか? ……どころか、だと?)


「はっはっは……神像の陰やら、柱の陰やらに隠れている〈抵抗団レジスタンシア〉の諸君! 疑っているね?」

 アーレンの心の中を見透かしたように、ガラス箱の少年……ルニクが叫んだ。

「『正常な人間と変わらない、ただの少年じゃないか』……僕の事をそう思っているだろう? でもね、よく考えてごらん! 〈抵抗団レジスタンシア〉の諸君! じゃあ何で、僕は自分自身を〈虫箱〉の中に……こんなガラス箱の中に閉じ込めていると思う? それは、ね……さ! 何といっても僕は妖魔に取りかれた人間だからね。ときどき僕自身、自分を制御しきれなくなるのさ」


れごとをっ!」

 少年のセリフを打ち消すように神殿内に男の声が響き、同時に女神像の足元からクロスボウの矢が放たれた。


 矢は、しかし少年の体に届くことはなく、ガラス箱の側面に当たって、その表面に傷を付け、跳ね返ってゆかに落ちた。


「はっはっは……無駄、無駄、無駄! だよ! この極厚ガラスで出来た箱は〈妖魔〉に取りかれた僕自身を閉じ込めておくための物だけど、同時にクロスボウの矢から僕を守ってくれているんだからね」


 その時、物陰から一人の男が現れ、フラフラとガラス箱の方へ歩いて行った。男はフードを下ろし、目の周囲を覆っていた仮面を投げ捨て、両手を上げ、無抵抗の意思を示しながら神殿の中央へゆっくりと歩く。


(ぬっ! あれはリークス! なぜ?)

 アーレンは混乱した。さっきまで一緒に地下道を歩いた仲間の一人が、仮面を脱ぎ捨て、敵の前に顔と体をさらしている。

(まさか! 裏切ったのか! リークス!)


「ん~ん! よくやったぞ、リークス! 貴様の裏切りのおかげで、こうして地下組織の首領を追い詰めることが出来た」

 顔をさらしてガラス箱の前に立ったリークスに、箱の中の少年ルニクが言った。

「ご苦労だったな。……貴様の処遇は、警備兵士団長ジャギルス閣下より聞いている」


「ほ、本当か!」

 リークスが叫んだ。

「本当に、約束通り、警備兵士団に入団させてくれるのだな! 中隊長として!」


 その問いかけには答えず、少年ルニクは「まあ、後ろに下がって休め」とだけ言った。


 〈抵抗団レジスタンシア〉を裏切った男は、うなづいて、車輪付きの台座に乗った巨大なガラス箱をまわって、後方へ歩いて行く。


 その時、ガラス箱の中でルニクの右手がサッと上がった。


 それが合図だったのだろうか……隠れていたルニクの部下たちが一斉に矢を放ち、矢は、リークスの体を三方から貫いた。


「な、なぜだ……」

 血を吐きながら、ルニクを振り返ってリークスが言い、力尽ちからつきて石板を並べたゆかの上に倒れた。

 矢傷から血が流れ、神聖であるべき神殿のゆかを汚す。


「ひぃーひっひっひ……笑えるなぁー……まさか、本当に自分だけ助かると思っていたなんて……ひぃーひっひっひ」

 仲間を裏切り、敵に裏切られた男の死体を指さし、ルニクは腹を抱えて笑い転げる。

「確かに、貴様の処遇は、警備兵士団長ジャギルス閣下から聞いてたよ……『仲間を裏切るような奴には何の価値も無い。始末しておけ』と、ね」

 言いながら、また「ひぃーひっひっひ」と腹を抱えて笑う。


 それからしばらく、少年の笑い声だけが篝火かがりびに照らされた夜の神殿内に反響こだました。


 ……そして……


 突然、異変が少年を襲った。


「ぐきっ!」

 ルニクが叫んだ。


「ぐっごっけけっごぐっごごっく……」

 意味不明の声を発し、同時に体をくねくねと動かし始める。

「よ、〈妖魔〉が……ぐっきっきこっ……ぼ、僕の体の中の妖魔が……ぎくぎくっこここ……」

 言いながら、何かをこらえているような必死の形相で、狂った踊り子ダンサーのように全身の関節を滅茶苦茶めちゃくちゃに動かす。


(なんだ? 何が始まった?)

 アーレンは、ガラス箱の中で踊り狂う少年を、柱の陰から見つめた。


「ぐっここぐここ……〈妖魔〉が……駄目だ……もう耐えられない……〈妖魔〉が!」

 次の瞬間、ルニクの口が大きく開き、中から細かい黒い点のようなものが無数に飛び出した!


 ぶぅぅぅぅん……


 低いうなり音と共に、少年の口から次々に吐き出される無数の黒い点は、、神殿中に拡散した。


 黒い点の塊が、柱の陰に立つアーレンの所へ飛んでくる。


「何ッ!」


 接近した黒点の集合体は、その一つ一つが黒い〈はえ〉だった。

 無数のはえがアーレンの全身に取り付く。


 いかに剣術の達人だろうとも、飛来する何百、何千もの細かいはえを剣で断ち切ることは出来ない。


「ぐあああああ!」

 顔に付き、襟元えりもとから服の中に入り込んだはえの不快さに、思わずアーレンは叫んだ。


 全身に取り付いたはえたちは、顔といわず、胸といわず、背中といわず、アーレンのありとあらゆる場所をみ始めた。


抵抗団レジスタンシア〉の指導者の筋肉が徐々に硬直していく。


(か、体が……体が、動かない……ど、毒? なのか? しびれ毒を、注入されているのか?)


 全身の皮膚を何度もまれ、そのたびに筋肉の硬直度が増し、体の自由が利かなくなっていった。


 ついに、完全に動けなくなったアーレンの体からはえが飛び立った。


 空中を飛ぶ無数の黒い点となったはえは、さっきとは逆にガラス箱へ集まり、透明の壁を通り抜け、精一杯大きく開いたルニクの口の中へ帰って行った。


 神殿中に拡散しアーレンとその部下たちの自由を奪ったはえが全て口の中へ収まった後、ルニクはガラスの扉を開けて箱の外に出た。


「あーあ……また、〈はえの妖魔〉を使ってしまった……本当は使いたくないんだけどなぁ……なかなか自分自身というものは制御しきれないなぁ」


 上半身裸の肌を神殿の冷たい空気にさらしながら、あやかしの美少年ルニクがつぶやいた。

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