5、夜
レイネは父親の体に寄り添い、暖かなマントに包まれて
ふと目を開けると、完全な暗闇の中に居た。
一瞬不安になるが、自分の体を包むマントの肌触りと父の体温を感じて安心する。
今、生きているということは、寝ている間に〈妖魔〉に襲われなかったということだ、と、幼い心に思う。
(もう、夜なの?)
日が暮れているのは確かだとして、いったい何時ごろだろう。
突然、窓の外からボンヤリとした弱い光が差し込んできた。
その弱い光に照らされて、灰色の旅人ゾル・ギフィウスの影が浮かび上がる。
土の上に座っていたはずのゾルが、今は立ち上がって、窓際の壁にピタリと背中を付けていた。
少女に顔を向け、口に指を当てて、「静かにしていろ」という合図を送っている。
(〈妖魔〉だ!)
レイネは本能的に理解した。
ボンヤリとした光を発しながら〈妖魔〉が窓の外を
幸い、小屋の中に隠れているレイネたちの存在には気づいていない。気づいていれば、扉も窓ガラスも無い小屋に侵入して、レイネたちに取り
しかし少しでも物音を立てたら、〈妖魔〉どもは
レイネは、思わず両手で自分の口を押さえた。
窓……というより壁に開いている四角い穴……に、再び視線を向ける。
窓の外を直接目にすることは出来なかったが、小屋の中に入り込む弱々しい光を見て、幼い少女は、少女なりに外の様子を推理した。
(〈妖魔〉は、一匹だけじゃない?)
窓から入ってくる光を注意深く観察すると、その光源が一つでは無いことが分かる。いくつもの光源……すなわち何匹もの〈妖魔〉……が、ゆらゆらと空中を浮遊しながら、小屋の周囲を
突然、父親が「ひっ」と、押し殺した悲鳴を上げた。その声にギョッとして、思わず父親の顔を見上げる。
それほど大きな声ではない。
「む、虫が……虫が、背中に……シャツの中に……」
「お父さん、静かにして……」
小さな声で、それでも有りったけの
灰色の旅人の方を振り返ると、薄暗い闇の中に、ゾルの
父親が自分の口を自分で
飛び上がってシャツを脱ぎたい気持ちを懸命に押さえているのだろうか……不快感に歪み脂汗にまみれた顔が、わずかな光を反射してテラテラと光った。
レイネ、父親サイケン、そしてゾル……小屋の中の全員が、息をひそめ、外の様子に全神経を注ぐ。
(見つかりませんように……見つかりませんように……)
少女は必死に祈った。
(かくれんぼの神様、かくれんぼの神様……もし私とお父さんが明日の朝まで生きのびたら、これから毎日必ずお祈りを捧げます。だから、お願いします。私達を助けて下さい)
どれだけ時間が経過したのかも分からず、ただ、レイネは自分の口を押さえ、ジッと灰色のマントの中で体を丸め、神に祈り続けた。
やがて……外の光に変化が現れた……
複数……おそらく十数個……あった外の光源の一つが、突然、フッと無くなったのが分かった。
フッ……フッ……フッ……
次々に光源が消え、その
窓の外をチラリと見たゾルが、暗闇の中で指を一本立てたのが分かった。
(あと一匹だけだ……)
そういう意味の合図だと、レイネは解釈した。
少しホッとして気が緩む。
もう
……その時……
何かが、スカートの裾から入りこみ、脚を登って来た。
それが何か、暗闇の中で動けずにいる少女には知ることも出来なかったが、長くて、足がたくさんあって、ウネウネと動きながら這い上がるものだという事は、足の感触で分かった。
飛び上がって払い落としたい衝動を必死に
スカートの中に潜り込んだ何物かは、何十本あるか分からない足の爪を肌に引っ掛けながら、少女の足首から
叫びたくても叫べず、動きたくても動けず、嫌悪感で気が遠くなるかと思った瞬間……
今、スカートの中で脚を登りつつある多足多脚の生き物とは別の、それよりもずっと大きな何かがスカートに飛び込み、物凄い速度でレイネの脚を駆け上がると、
金と銀の鱗を持つトカゲだった。
レイネが見たこともない細長くて脚がうじゃうじゃ生えている虫を、口に
(ドラ公……って言ったっけ……た、助けてくれたの?)
無数の脚をバタつかせて
ホッと胸をなでおろし、そこで、ふと疑問に思う。
なぜ自分は、この金色のトカゲをこんなにもハッキリ見る事ができるのか、と。
〈妖魔〉が発する薄明かりの中でボンヤリ見えているのではない。その美しい鱗の一枚一枚までが、くっきりと鮮明にレイネの瞳に映っている。
(トカゲ自身が、光っている?)
……そうだ。
トカゲの全身が黄金色に、銀色に、輝いているのだ。
ゾルが窓の下を
その素早い動きに、さっきまでの「静かに息をひそめて〈妖魔〉をやり過ごそう」という意志は、もう感じられなかった。
「ドラ公のやつ、〈妖魔〉と闘う気だ……まったく、こんな時に限って」
「よ……〈妖魔〉と、闘う?」
オウム返しに聞き返すサイケンを無視して、ゾルが父と娘を立ち上がらせようとする。
「こうなってしまっては、この場所はかえって危険だ。さあ立つんだ。移動するぞ」
何が何だか分からないまま、ゾルの
ゾルが二人の背中を押し、窓からも出入り口からも離れた小屋の隅へ誘導した。
そこは、最初この小屋に入ったとき、無数の虫が
さっきスカートの中を登ってきた嫌らしい虫の感触が蘇り、一瞬、
「何があっても、俺が良いと言うまでここでジッとしているんだ」
そう親子に言い捨てて、灰色の瞳の男は、窓の方へ戻っていった。
窓から、数メドール離れた土の上に、
ゾルは、トカゲの真後ろに、両足を肩幅に広げ両腕をだらりと垂らした姿勢で立った。
全身の筋肉から適度に力を抜き、深く乱れのない呼吸を繰り返すことで、鏡のように静かでありながら瞬時に敵を迎え撃てる精神状態を作る。
その時、黄金色に輝くトカゲの体が、フワリッ……と
後ろに立つゾルの心臓の高さまで浮上した所でピタリと停止し、その脈動に合わせるように、ゆっくりとした周期的で輝きを増減させた。
「ヴェルテブラリース・ドラコーニス!」
灰色の男が呪文を唱える。
黄金のトカゲの輝きが一層増し、その輝きの中で体の輪郭が崩れ、別の物へと形を変えていく。
銀色の尻尾は輝く剣身に。
脚は
首が伸びて両手持ちの
頭部は
赤い瞳は、黄金の柄頭に輝く赤い宝石に。
……ついに黄金のトカゲは、身長百九十センティ・メドールのゾルでさえ持て余しそうな大振りの両手持ち長剣に変化した。
銀色の剣身に
ゾルがその脈動する輝きに右手を伸ばし両手持ち用の長い
「まったく……」
灰色の剣士がぼやく。
「お前の気まぐれには付き合いきれん」
お前というのは、この黄金のトカゲが
「〈妖魔〉を見ると、時も場合も考えず喰らおうとする……今は『善良な市民』の安全が第一だろうが」
そこで
「……と、人間の道理を、爬虫類のお前に言っても始まらん、か」
その時、窓の外にあった薄ぼんやりとした光が、ゆらゆらと揺れながら小屋の中に入ってきた。
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