メディエータ Ⅰ

有智子

前編

 初夏という季節が、ずっと苦手だった。

 若葉萌える新緑の頃、などと時候の挨拶では常套句だが、年々春と夏の境目が一瞬で移り変わる速度が速まっていると感じる。この四月こそいつまでも寒かったが、まるで舞台の上で暗転した瞬間に着替え終わっている役者のように、今日は気温がぐんぐん上昇してすっかり夏日だった。携帯電話のディスプレイには、右上に二十四の文字が大きく表示されていて、今日の最高気温を示していた。

 朝と夜の寒暖差がひどく、着るものに困るうえ、決して崩すわけにいかない体調の管理にことさら気を遣わなければならない。とうとう今年はじめて買った日焼け止めを化粧下地の下に塗りながら支度をした今朝、鏡に映ったこころもち白っぽい自分の顔を眺めながら、やはりさわやかさとは無縁だなと再確認してしまった。

 その新緑独特の草の匂いがそこら中に漂っていた。実に単調な山間の風景が続いている。曲がりくねった坂を右へ左へハンドルを切りながら運転する車の助手席で、目元をしっかり覆う大き目のサングラスをかけた彼は、全開の窓から半分腕を出して頬杖をつき、漫然と外を眺めていた。長い金髪は無造作にまとめられていて、車内に入ってくる風で毛先がはためく。それは横目に見ただけでも、まるで映画のワンシーンのように、様になる光景だった。

「アダム」

 彼はその呼びかけに気づかなかったみたいに無反応だった。恐ろしく耳がいいので、聞こえていないはずはないと踏んで念を押す。

「そろそろ着くわよ。まさか依頼人の前でもそんな態度でいるつもりじゃないでしょうね」

 本人がやろうと思えば、いくらでも親しみやすさを感じるような整った顔を、むしろ素に近いのだろう不敵にゆがめて彼は笑った。

「さあ、どうだろうね」

 彼は大変流暢な日本語でそう言った。

「いくらなんでもこんな辺鄙なところだとは思わなかった。京都だって言うから、石畳とか重要文化財とか酒とか舞妓とか、ほら、いくらでもあるだろ?他に?ところがなんだこれ。山しかない」

「京都とは言ったけど京都市とは言ってないわよ」

「しかも!ゴールデンウィークにだ!俺の連休!」

「心から残念に思うわ」

 彼は苛立ったようにサングラスをはずしてこちらを見た。あらわれたブルーの鮮やかな虹彩を一瞬見遣って運転を続ける。

「クロエ。全然残念がってないだろ」

「わたしだって休日返上であなたの運転手をしてるんだから、一緒よ」

 彼は呆れたように大袈裟に肩をすくめ、再び窓枠に肘をついた。

 今回の依頼は、彼でなければ解決できないだろう、という<境界>の判断から白羽の矢が立ったものの、実は彼は、一旦断っていた。先日大規模な地震災害が起こった九州・熊本で友人が被災しているので、救助活動に行きたいというのが表向きの理由だったわけだが、実際は十連休を使って台湾に旅行する計画がすでに立っていたらしく、わたしがそれを上層部に報告し、上から彼に正式に任務が押し付けられた。そうしてわたしは今、運転手を務めて曲がりくねった山道でカーブを切っている。

「クロエのその時々バカみたいに正直なところ、かわいそうになる」

「バカで結構」

「俺の台湾旅行……小籠包のコース……あのさ、前半で台湾いって帰りに福岡寄って、どんたく見ていこうかなと思ってたわけだよ。クロエどんたく見たことある?中洲の屋台行ったことは?それが京都の山奥、宇治は宇治でもこんなところに……」

 京都とひとくちに言うものの、人参のような形をしたその府のうち、山陽新幹線が通る京都駅を中心にして有名な寺社仏閣は市内および南東部に集中している。今回我々が向かったのは宇治だった。東京駅から京都まで新幹線に乗った後(あくまでも成田空港へ向かおうとする彼を連行するのに骨を折った)、借りた車で阪神高速に乗り、久御山ジャンクションで京滋バイパスに入って、宇治西ICで降りる。広大な宇治川の流れを横目に見ながら車を走らせていた。

「三室戸寺があるし……」

「紫陽花にはまだ早いんじゃないか?」

「そうかもしれない。平等院に藤棚があったかも」

「この連休に平等院なんかおっそろしく混んでるに決まってる」

 いっそ市内に引き返して嵐山に行くとか、祇園で遊ぶとか、しかしゴールデンウィークに市内観光は自殺行為かもしれないな……などと、軌道修正をはかろうと観光計画を立て始めた彼がぶつぶつ呟いているうちに、目的地が見えてきた。

「アダム。もう着くわ」

 よく晴れていた。アクリル絵の具で塗ったみたいに青い空が、山の深い緑の間に広がっていて、都内で見るのとはまた違った印象を受ける。綿菓子みたいな雲がふわふわと浮かんでいるのを見て、同じことを考えていたらしいアダムが「綿菓子食べたいな……」とポツリと漏らした。


「お待ちしておりました」

「どうも。エージェントのギルモアです。見た目はアレですが、日本生まれ日本育ちですのでお構いなく。彼女は僕の助手のクロエです」

 先ほどまで腐っていた様子は微塵もみせることなく、営業用の笑顔を張りつけて屈託なく挨拶する。名刺を取り出しながらまぶしく笑う彼の顔は見るものを安堵させ、一瞬身構えた出迎えの人間はその自己紹介にほっと胸をなでおろしたようだった。

「支配人の三浦です。お二方には、お越しいただいて感謝しております。こちらへ」

 到着したのは、昔ながらの大きな旅館だった。広い玄関から、慎ましい日本家屋を靴を脱いであがり、ギシギシ言う渡り廊下を通って和室の応接間に通された。お茶を立てるための囲炉裏が備え付けてあるのに感心していると、見事な欄間を見上げてアダムが溜息を漏らす。

「日本家屋っていうのはやっぱりこう、落ち着く。こう……和の心を感じる……」

「あなた、一ミリたりとも日本人じゃないでしょう」

「心のDNAは日本人だよ。実家も平屋建てだし。俺、むかし正座するのが苦痛でしかたなくてさ。中学校の体育館で全校集会して、尻が痛くなるまで三角座りしてるのも大概苦痛だったけど、正座ほどじゃなかった。大体足を折りたたんで座るなんて、なんかおかしくない?その必要ある?」

「あぐらで座れば?」

「いきなりあぐらで座ってて尊大だと思われたら困るし。心は日本人だけど体の規格が日本と合わないんだ」

 呑気な会話をしていると、襖の向こうで人が歩いてくる気配がして、スッと開いた。着物を着た女性が一度お辞儀をしてからしゃがみこんで、両手で戸を押す。その向こうから、依頼人らしい壮年の男性があらわれた。五十代くらいの男性で、恰幅がよく、スーツを着込んでいる。髪の色はやや白髪が混じっているが、まだまだ精力的そうで、きびきびとしていた。

「<境界>の方ですね。あ、どうぞそのままでいらしてください。お疲れでしょう。わたしが今回依頼を致しました、会長の宮下と申します」

「いえ。ありがとうございます、<境界>のギルモアです」

「彼の助手で、黒江です」

「ご足労いただき、感謝致します。これほどはやく来てくださると思いませんでした」

 アダムは宮下と名乗った人物に、にこやかに微笑んでみせた。

「それが<境界>の仕事ですから。特に京都なんかでは、多いですからね」

 アダム・ギルモアは、まだ年若い青年だが、<境界>の中でも指折りの能力者だ。背が高く、すらりとした手足に、無造作に結った長い金髪、アイスブルーの瞳で、色素が薄い。大抵ラフなクルーネックの七分丈の黒いTシャツに、細身のジーンズと磨かれた革靴を合わせていて、ファッション誌からそのまま出てきたモデルのように、よく似合っていた。見た目も名前も完全に外国人だが、自分で何度もネタにしている通り、日本生まれの日本育ちだ。

「やはりそうなんですか?」

「土地柄、関西に住んでいる能力者は多いですよ」

 <境界>に名を連ねる能力者たちの能力は、人によってさまざまだ。アダムはいわゆる霊能者というか、多少特殊で、『そういった』特別なアンテナがたいへん過敏で、無機物に命を吹き込んで使役したり、その声を聴いたりする。そのアンテナの精度が高く、対象物も広いので、同系統の能力者の中では最も階級が高かった。

 我々<境界>が彼に初めて接触したとき、彼は彼自身の能力のために相当疲弊していて、非常に厭世的な少年だった。当時彼を説得した<境界>のシフは、彼にそれを遮断する術を教え、社会的な回復を助けた。話に聞いている限りでは、数年海外に滞在して、スピリチュアルな専門家たちとの共同生活を経て、徐々に安定していったのだという。

 <境界>はあらゆる怪奇を収拾する機関であり、その発展のため、そうした能力者——持ちうる力のために社会生活に適合できない人々をサポートしている。その一方で、能力者たちがなんらかの形でその力を維持し、社会に貢献するためのこうした『任務』の依頼も請け負っていた。


「うせものさがし?」

「はい」

 時間が惜しいらしく早速仕事の話を切り出したところ、宮下はためらいがちな調子で依頼の概要を述べた。アダムはそれを聞いて一度、確かめるようにわたしを見た。

「どういった類の」

「それが、ご説明しにくいのですが……」

 宮下と名乗ったその人物は、どう伝えたものか逡巡していたようだったが、順を追って説明をはじめた。

 いわく、宮下家の祖先は代々宮司をつとめており、その歴史は古く、その経緯から、伝来の家宝の品があるという。今回は、その宮下家の所有する最も価値の高い宝である<笛>を探してほしいとのことだった。

 というのも、あまりにも大事な家宝であるため、後々の子孫に売り払われたり軽んじられたりすることをよしとしなかったご先祖様は、それを家督を継ぐものにだけ在処を教える形で継承してきたのだという。

「では、亡くなったお父上しかご存じないのですね。その笛の在処とやら」

「お恥ずかしながら、その通りです。そういった性質上、何かに書き写したものを細々と伝達していくような方法でしか、機密の保持ができなかったのです。父は、今年の二月に亡くなりましたが——十年前から認知症と診断され、まともに話ができる状態ではありませんでした。笛のことを聞いても、目を合わせようともしない。おそらく私が誰なのかもわかっていませんでしたね。……一応当面の遺産の相続関係が四月末で片付きまして、その話になったわけです。あれはいろいろな意味でたいへん価値のあるもので、把握しておかねばならんのです。どうか、先生に見つけていただきたい」

 <笛>は、便宜上そのように呼ばれているにすぎないらしく、かならずしも笛の形をしているとは限らない。平安時代には陰陽道の占いにも使われていたことがあるとかいう、霊験あらたかな術具の一種だそうだ。


 一通りの説明を終えて一旦宮下が退室した後に、出された茶を啜りながら話をまとめていた。

「うせものさがしなら、何も俺でなくても可能な案件だと思うけど?」

 彼は心外だと言いたげにわたしを見た。

「<境界>はあなたを要請するだけの難度と見たのよ。それほど古いものなら、並みの能力者では探しあてられないのでは……」

「国会議員を輩出して、グループ企業をいくつもかかえる宮下一族か。この依頼も、<境界>の上層部に直接話が持ち込まれて、体面のために俺を寄越したにすぎないんだろうな」

 彼の推理は推測の域を出ないものの、その可能性は十分に考えられた。

「邪推はよして」

「まあ、いいさ。どうせ<境界>が引き受けてるんだから、拒否しようがない。まるで犬だな」

 皮肉っぽく笑った。それがこちらの心を見透かすようで、ドキリとする。

「<笛>はここにあるはずだって言ってたな?」

「ええ。蔵があるそうよ。大事なものだから、持ち出したりはしないだろうって言ってたわね」

「じゃあ、中で誰かに聞けばわかるだろう。それとも死者を寄せる?」

「わたしには、やり方の良し悪しは……わからないけど」

「とにかく、さっさと仕事して帰ろう。今からならまだ観光の余地がある」

 彼は片膝をついて立ち上がると、大きく伸びをした。彼に続いて部屋を出ようとして自分も立ち上がったが、いつまでも彼が立った姿勢から足を踏み出そうとしないので訝った。

「アダム?」

「足がしびれた」

 律儀に正座していたらしい。

「あなたって本当……」

「いけるかなと思ったけどダメだった……あと三分待って、クロエ、こら引っ張るな!しびれてる!転ぶ!」

「動かせばすぐ血が巡るわ。時間が惜しいんでしょう?」

「鬼か?!」

 悲鳴をあげる彼を引っ張りながら、廊下へ続く襖の方へずんずん向かっていった。

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