アスタラビスタ

リンス

第1話

 空は夕焼けに染まっていた。雲の広がり方も、吹き渡る風の冷たさも、あの日によく似ていた。雲間から漏れた夕日の光が、頬を照らす。冷たい風が首元を通り抜けていく。

 私はひどく昂っていた。何もかも壊したい衝動が身体の中を駆け巡り、理性を捨てた私は笑っていた。

 悲しい。虚しい。寂しい。そんな感情を、私は今まで必死に溜め込んでいた。あぁ、なんて滑稽だったのだろう。どうにもならない感情を抱いていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

 迷うことなど、何一つなかった。感情の根源を潰してしまえばいいだけの話だったのだ。過去を懐かしむ必要なんてない。今に満足できず、過去にすがりつくのなら、その両方を潰してしまえばいいだけのことなのだ。


 私は壊す力を持っている。

 受け入れがたい現実を前にして、どうして私は目を閉じたのだろう。

 壊せばよかったのだ。それこそ一瞬ですべてを片づける唯一の方法。

 すぐにでも使える力を、私は持っていたというのに。





 






 あれ……?


 私はどうして、こんなことを考えているんだ?





「なぁ、なんでエレベーターぶっ壊れてんだよ」

 荒い息で話す、若い男の声が聞こえる。少年らしさの残った、やや高い声色だ。足音は重く、引きずるようにしてマンションの外壁に設置されている非常階段を上っている。

「知らないよ。話しかけないでくれる? 息切れして、圭と話す余裕なんてないんだよ。喋りたかったら一人で喋ってなよ」

 もう一人、男の声がした。先程の男よりも、やや年齢が上だ。声は低く、息が上がっているせいで言葉は途切れ途切れだ。声よりも呼吸をする音の方が大きい。

「おい、誰だよ。十二階に部屋借りようなんて言った奴は」

 若い男が嘆く。

「うるさいなぁ。文句言ったって、階段は短くならないよ」

 年上の男が呆れたような声を上げた時、私は既に十七階の手すりから飛び降りていた。

 夕焼けの空に身体が溶けていくような気がした。彼ら二人がいる階の一つ上の壁面に指をひっかけると、身体をひねって勢いをつけ、階段の中へと飛び込んだ。

 階段の中に入って来た私を、二人は驚いたような顔で見上げていた。

 私の予測は外れていなかった。むしろ、ぴったりというくらい、私が声や音から導き出した二人の姿は想像通りだった。

 若い男は病的なほどに身体が細く、目つきは鋭い。年上の男は長身で、いかにも人当たりの良さそうな顔をしていた。

 やっと見つけたという嬉しさで、二人の男に向かって笑みを浮かべる。

 若い男は目を見開き、口を開けたままの状態で固まっていた。恐怖で身体が動かなくなったのだろうか。私は若い男の頭を斬るために脇を締め、刃先を振り下ろした。

 取った、と思った瞬間、こちらへ向かってくる大きな足音が聞こえた。

 見誤った。十七階にいた私は、十二階から聞こえてくる声を判断材料とし、二人しかいないと導き出したのだ。しかし、もう一人いた。階段を上っているというのに、息遣いも足音も聞こえなかった。もう一人の気配がまるで感じなかったのだ。

 駆け寄る足音が近づいて来る。おそらく、この男を救いに来たのだろう。でももう間に合わない。いくら全速力でこちらへ向かって来ようと、私の刃先を振り下ろす速さには敵うはずがない。どうやっても、この男は私に斬られるのだ。

 私の勝ちだ。

 振り下ろした刃先が当たった感覚は硬く、確実に人ではなかった。勢いよく私が男へ斬りかかったせいで砂埃が舞い、辺りが見えなくなる。金属がぶつかる鋭い音が鳴り響き、耳が一時的に聞こえなくなった。男の姿も見えない。肌だけが夕日の光の僅かな暖かさと風の冷たさを感じる。

 やがて非常階段に風が流れ込み、砂埃が払われた。そこには二人の男がいて、三人目の男の姿はなかった。自らが持っている刃先に目を向けると、ナイフで私の刃を辛うじて止めている男の姿があった。

 彼は私が狙った若い男ではなかった。細身の身体は同じなのだが、髪の色は夕日の光のような、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。




 一体、何が起こった? 私が狙った男であることに違いはないのだが、髪の色が変わっている。

 力がぶつかり合い、刃を受ける互いの腕が震える。刃先の下から私を睨みつける男の目は、先ほどの若い男とは違い、目が座っている。

 「どけ!」と言って、若い男はナイフで私の刃を押しのけた。階段の手すりへと身体ごと払い飛ばされ、背中を打ちつける。背骨には痛みを、気管には詰まりを感じ、うめき声が漏れた。

 突然、ジェットコースターに乗ったかのような、強烈な重力が私を襲ってきた。目が回り、顔から血の気が引いた。あれ程軽く感じていたはずの身体が、石のように動かなくなる。

「雅臣! こいつが中身だ!」

 今まで茫然と立ち尽くしていた年上の男が、手すりへと駆け寄った。一体何が起きているのか。私は重い身体を壁伝いに起こし、手すりにつかまり立ちすると、二人の男が見ている外へと目を向けた。

 そこには、背中から地上へ落ちて行こうとしている黒髪の男がいた。夕日に照らされても光を通さず、透けない黒髪は異質で気味が悪かった。目は見開かれたままで、私を見て笑っていた。

 夕日に染まった髪の男は、手すりから上半身を乗り出し、落ちようとする男に手を伸ばした。顔を歪ませ、歯を食いしばり、黒髪の男が着ているパーカーの端をつかもうとする。しかし、黒髪の男は笑いながら手をすり抜け、遥か下へと落ちて行った。

「おい、雅臣! 急いで下に行くぞ!」

 年上の男が階段を下ろうとした。

「追うな! 追っても無駄だ!」

 若い男が年上の男の背に向かって声を荒げた。先ほど愚痴をつらつらと言っていた声と同じなのだが、何かが違っていた。焦っていたからかもしれないが、もっと心の根本的なところが、先ほどとは違っているような気がした。

 私は何が起きたのか、まったく理解できなかった。非常階段から夕日の空を見上げ、混乱する自分を必死に鎮めようとする。

 なぜ、私はこんなところに来てしまったのだ? 確かに私は大学から帰宅した後、薬を飲んで眠りについたはずだ。なのに、なぜ私はこんなところにいるのだ?

「何で、何が起きて……」

 二人の男の視線が私に突き刺さる。若い男の手の中にあるナイフが目に入り、私は自分自身を見失う。首の動脈が激しく脈打つ。苦しくて、胸を押さえる。



 私は、人を殺そうとした。

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