第3話 家族
8月5日、日曜日の昼どきであった。
大学2年、19歳の、清原美樹の家は、
下北沢駅よりも池ノ上駅に近い、
東京都世田谷区の北沢一丁目の
静かな住宅街にある。
庭には、春になると、白やピンクの花の咲く、
ハナミズキやコブシなどの木が、4メートル以上に、
すくすくと大きく育っている。
その、ハナミズキやコブシの生い茂る葉は、
真夏の日差しを遮って、芝の多い庭に
涼しげな半日陰をつくっていた。
その木陰の庭には、鉢に植え替えをしたりした、
色とりどりの、マリーゴールドやサルビア、
八重咲のインパチェンスなどの花が咲いている。
時刻は正午を、10分ほど過ぎていた。
玄関のチャイム音がゆっくりと、1回、鳴った。
「はーい」といって、キッチンで酢豚を作っている
美樹の母親の美穂子が、玄関ドアを開けた。
「やあ、美穂子さん、きょうは、ありがとうございます。
みなさん、お元気ですか。
きょうも晴れて、お天気なのはいいけど、暑いですよね」
わらいながら、そんな挨拶をして、
薄いベージュのチノ・パンツと、
Tシャツで、訪れたのは、
歩いて5分くらいの近所に住んでいる、
森川誠(もりかわまこと)だった。
森川誠は、下北沢(しもきたざわ)を本拠地に、
都内で、洋菓子やパンの店や喫茶店、
ライブハウスなどを展開している、株式会社モリカワの
社長であった。
「誠ちゃん、お忙しいところを、よく来てくれました」
と、ちょっと、頭を下げながら、
美樹の父親の清原和幸が、美穂子の横で、
満面に笑みを浮かべて、森川誠を迎えた。
「おっ、和ちゃん、相変わらず、男前ですね」
森川誠はそういって、驚いたように目を見開いて、
声を出してわらった。清原和幸も美穂子もわらった。
美樹の父親の清原和幸(きよはらかずゆき)は、弁護士だった。
下北沢の南口のビルで、法律事務所をしている。
森川誠の会社モリカワの、顧問弁護士も引き受けていた。
「森川さんは、人を笑わせることが、本当に、お上手ね。
ぱあっと、まわりを明るくしてしまうんですから。
主人も、森川さんと一緒にいると、
高校のころの少年に戻れると、いっているんですのよ」
そんな話をしながら、美樹の母の美穂子(みほこ)は、ワンフロアのリビングへと、
森川誠を案内する。
「おれも和ちゃんも少年のころから抜け出せないだけかな。
なあ、和ちゃん」と森川誠。
「まあ、そういうことになるだろうね」と清原和幸。
森川誠と清原和幸は、少年のようにわらった。
清原和幸と森川誠は、同じ年で、
小中高まで、学校も同じで、幼なじみ、遊び仲間の、
無二の親友だった。
森川誠の足もとに、白に薄い茶色のまじった毛の、
6歳の雌のポメラニアンが匂いをかぐように、
すりよってくる。
「ラムちゃん、元気かな。夏向きに、きれいに毛をカットしてもらったね」
森川は、ふさふさの長い毛の、しっぽをふる、ポメラニアンのラムを、
ちょっと、なでる。
朝と晩の、ラムの散歩は、雨の日以外は、必ず、
家族の誰かとする日課であった。
散歩のコースは、クルマの少ない静かな小道だった。
1週間に1度のペースで、スローなジョギングをする、
森川誠や清原和幸たちのコースと、ほぼ同じ小道だった。
ふたりは、30代後半あたりから、タバコをやめて、
健康のために、時には、一緒にだったり、
個々にだったりと、ジョギングを始めた。
ふたりは、白髪が、ちらちらと目立つ今も続けている。
リビングの中ほどにあるキッチンでは、
美樹と姉の美咲(みさき)が料理をつくっていた。
「こんにちは、森川さん」と美樹はいう。
「こんにちは」と美咲。
美樹と美咲は、笑顔で挨拶した。
姉の美咲は、大学を卒業したばかりの、23歳だった。
「いま、おいしいものを、つくってますからね」と美咲。
「よろしく、お願いします、美咲ちゃん、美樹ちゃん。
お二人は、いつのまにか。おとなっぽくなって、
ますます、きれいになっていくから、
いつも、お会いするのが楽しみなんですよ」
森川誠は、ちょっと足を止めて、姉妹を見つめた。
「森川さんったら、褒めるのが、
お上手なんだから」と美咲はわらった。
「ほんと、ほんと。あぶない、あぶない。
女性のあつかい上手な森川さんは、ちょっと危険な感じ」
といって、美樹もわらった。
「あら、あなたたち、なんということをいっているの。
森川さんは、本心しか、お話なさらないのよ。
いつだって、真実、ひとすじで、とても誠実な社長さんんだから」
と母の美穂子は、自分もこみあげそうな、
わらいを押さえるようにして、そういった。
「真実ひとすじですかあ。ははは、まいった、まいった」
森川誠は、大きな声でわらって、照れるように頭に手をやった。
美穂子と美咲と美樹が料理をつくっているキッチンの隣には、
椅子が8つと、四角いテーブルがあって、
白い皿やビールやジュースのグラスが準備されていた。
庭の軒下の半日陰で育てている、料理の風味付けにも使える、
セリ科のチャービル(別名セルフィーユ)や、ブルーのサルビアが、
小さなガラスの花瓶に入って、テーブルを飾っている。
テーブルのすぐ横の、南側には、ソファが置いてある。
庭を眺めたり、テレビを見たりする、くつろぎの場所だった。
ソファには、祖母の清原美佐子がいた。
昨夜のロンドン・オリンピックの男子サッカー、3対0で勝った試合、
準々決勝、日本対エジプトの、録画を、テレビで見ていた。
「美佐さん、こんにちは。お元気ですか」
森川誠はそういって、美佐子の隣にすわった。
「はい、おかげさまで、からだの調子もいいですよ。
きょうは、ゆっくりと、過ごしていってくださいね」と、
美佐子は笑顔で、ていねいに頭を下げて挨拶をした。
テーブルには、美樹のこしらえたゆで卵の入ったグリーン・サラダや
枝まめ、姉の美咲がつくった冷たくしたパスタの、
トマトとチーズのカッペリーニ、母親の美穂子がつくった酢豚、
叔母のつくったナスやキュウリやキャベツの漬物とか、
料理も出そろった。
みんなは椅子にすわって、にこやかに、「かんぱぁーい(乾杯)」と、
みんなはそれぞれのビールやジュースのグラスを触れ合わせた。
「おれの大好きな酢豚ですね、美咲ちゃん、ありがとう」と、森川誠は、
左隣の美咲に目を細める。
「酢豚つくったのはママよ。わたしはパスタつくりました」と美咲は、
わざと頬をふくらませて、怒った顔をした。
「わっはっは。美咲ちゃん、ごめん。おじさんは、もう酔ってるね。
おれも、和ちゃんも、すぐ酔っちゃうんだから。ね、和ちゃん、パパ」
森川は、右隣の清原和幸の肩を、軽く手でゆらした。
「しかし、おれたちは、いつまでも、酒は強いよね。酔っても、
乱れないし、つぶれない」と和幸はわらった。
「そうだよな。でも、知らないうちに、つぶれていたりしてなぁ。
人生は、いつでも、うっかりできないもので」
と森川も、声を出してわらった。
「そうそう、パパなんか、外で飲んで帰ってくると、
つぶれっぱなしなんだから。ねえ、ママ」といって、
森川誠の向かい側にすわる美樹は、
おおげさな困った顔をして、
右隣の美穂子に話をする。
「森川さんもパパも、酔っぱらうと子どもみたいになるけれど、
仕事しているときは、誰にも負けないくらいの、正義感と・・・
なんでしたっけ、男気のようなものがある、
いまどき珍しいくらいの紳士なのよ」
美穂子は、美樹や美咲を見ながら、そういった。
「いやあ、どうも、美穂ちゃん、褒めてもらって。
でも、正義感といえば、おれよりも和ちゃんですよ。
和ちゃんの正義感には、頭が下がります。
というよりも、和ちゃんの正義感に触発されて、
おれも感化されて、正義感を持って、人の上に立って仕事をしてきたら、
会社がどんどん大きくなって来たようなものなんです」
と話しながら、森川誠は、清原和幸から「まあ、まあ」と、
ビールをグラスにつがれて、森川も清原のグラスにビールを注ぐ。
「酔っちゃって、身の上話っぽくなしましたね」と声を出して森川はわらう。
「まあ、森川家も、初めは、というと、下北沢の商店街で、
小さな喫茶店を、今は亡き、おばあちゃんが、
ひとりでやっていたんですよ。
おれは、ケーキとかの洋菓子が好きで、
高校を卒業して、洋菓子の店に修行に行っていて、
その3年後くらいに、おばあちゃんの店を継いで、
そこを改装して、洋菓子と喫茶の店を、始めたんです。
おれの弟も、おれに影響を受けて、そんなわけで、
兄弟二人で、がんばって、店の数を増やしていったんです。
そこで、だんだん、わかったんですが、自分の欲が先行していては、
事業は大きくできないし、人の上には立てないんですよね。
そんなころに、和ちゃんの正義感に影響を受けて、
おれも会社も、成長して、来れたんだと思います」
「誠ちゃん、おれを高く評価しすぎ。おれはただ、
困っている人を、法律の力で、なんとか守ってやりたくて・・・。
おれのおやじが、やっぱり弁護士で、おやじは確かに、
正義感が、人一倍強い人だったと思うけど。
でもね、誠ちゃん、人間って、自分やお金のためには、
そんなに強くなれないものだけど、人のためなら、
強くなれるんじゃないのかな」
と、清原和幸は、上機嫌なようすで、笑顔も絶えない。
「そうそう、そうなんだよね。自分のためなら、そんなに勇気も
意欲もわかないけど、人のためなら、がんばれたりするよね。
それが、正義感ってやつで、不思議な力の源で、
逆説的だけど、結果的に、いつのまにか、人のためにやることが、
自分のためになったりするんだよね、なんか不思議だよね・・・」
そう語りながら、森川は、おいしそうに、ビールを飲んで、酢豚をつまんだ。
「そうそう、美咲ちゃんも、いま、予備試験を受けているんだってね。
見事に、受かれば、法科大学院に通わなくたって、
司法試験を受けられるんだから、美咲ちゃん、すごいよ、超優秀!
司法試験とかの合格祝いのパーティは、
ぜひ、わたしにさせてください」
森川は、そういいながら、左隣の美咲のグラスに、ジュースを注ぐ。
「森川さん、ありがとう。わたしも、弁護士を目指して、猛勉強しているの。
いまのところ、予備試験も、7月にあった論文式までは、
なんとかクリアーな気がしているんです。おかげさまで」と美咲。
「お姉ちゃんは、すごい猛勉強をしているのよ、森川さん。民法の本とか、
自分で声を出して読んでいるのを、録音して、それを家の中で、
いつも流して聴いているんだから。わたしたちも、それを、
毎日のように聴かされるんです。きょうは、まだ、そのお経にたいの、
流れていないんですけどね。知らず知らず、その聴かされる民法を、
覚えていたりもするんです。そのくらい、がんばらないと
覚えられないんでしょうけど。
わたしには、とても、お姉ちゃんのマネはできないです!」
そういって、無邪気で、ほほえましくなるようで、どこか、はにかむ、
美樹の笑顔を、みんなは見ながら、わらった。
「そうそう、森川さん、今度、森川さんの会社に、川口信也さんが
入社されるんですよね。わたしの大切な先輩ですので、
どうかよろしくお願いします」
といって、美樹は椅子から立ち上がって、テーブルの向かいの森川に、
ていねいに頭を下げた。
「美樹ちゃん、その話は大丈夫ですよ。
わたしの次男の純と同期の親友ですから。
純が、あの男ならと、認める友達ですから。
わたしたちが、しっかりサポートして、
川口信也さんには、いい仕事をしてもらいますから。
そうか、うちの純と川口信也さんは、美樹ちゃんの大学の、
今年卒業の先輩だもね。
大学公認のバンド・サークルの、ミュージック・ファン・クラブ、
なんていったっけ、そうそう、よく純が、MFC、MFC、
っていっている、そのサークルで、美樹ちゃんと、楽しく、
1年間を過ごしてきたんだったよね。
川口信也さんは、できるかぎりの最高の待遇を用意します。
美樹ちゃんも安心していてください」
森川は、美樹に、社長らしい自信ありげに、優しくほほえんだ。
≪つづく≫
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