第22話
元宮は依子の言葉を的確に訳してくれているようだった。けれど話は一向に前に進まない。何度も何度も何度も同じ質問が繰り返され、何度も何度も何度も依子は同じ答えを返し続けた。
『あなたの国籍は』
「日本人です」
『あなたの渡航目的は』
「異形からの保護です」
『異形とは』
「別の星の生き物です」
係官はため息をつく。
『宇宙人など存在しない』
「見たはずです、警察の人が何人も。人間の三倍はある生き物の死体を。その生き物が乗ってきた不可思議な乗り物を」
係官はため息をこぼす。
『そんな話は聞いていない。君は幻を見たのかね?』
無意味な問答は半年続いた。依子の編んだ髪は足首まで伸びた。何度も髪を切るかとたずねられたが依子は首を横に振り続けた。冷たく硬い鉄柵を両手で握って金の籠の中にいたときのことを考えた。柔らかな床、美味しい食べ物、有り余る時間。
それよりも何度も何度も何度も、いつでも思うのは雷三のことだった。雷三はどうしているのだろう。檻の中で寂しい思いをしていないだろうか。寒い思いをしていないだろうか。依子は窓から見える白一色の雪に埋もれた世界を見る。白い世界はどこまでも続き依子の心までなにもないまっ白になっていくようだった。ただ心に残った色彩は雷三だけだった。
「あなたが雷三と呼ぶ少年は、国に帰れることになりました」
ある朝、元宮が依子に接見してそう伝えた。
「雷三が! 雷三はどこの国へ帰るんですか!」
「ウズベキスタン、彼の故郷だそうだよ。よかったね」
依子は胸のなかに嵐が起きたかのようで、自分の胸をかきむしった。
雷三は帰れる。
雷三に会いたい。
私は帰れない。
雷三に会いたい。
私は檻のなか。
雷三に会いたい。
雷三に会いたい。
雷三に会いたい。
「ここにいたら自由だ」そう言って星に留まった人。
雷三に会いたい。
カナリヤの歌を歌ったしのぶ。
雷三に会いたい。
虫を食べて命をつなぐ老婆。
雷三に会いたい。
寒さから身を守るために抱き合って過ごした夜。
雷三に会いたい。
ああ、雷三、雷三は帰れる! 故郷へ! 檻から放たれて!
見渡す限りの草原。切り立った山にところどころひょろりと背の低い樹が立っている。遠くにいるのは羊の群れだ。雷三は鞭をふるい指笛を吹き羊の群れを追いたてる。雷三が、いやO`n beshinchi sanaが見つめるのは、ただ向かう先、切り立った山の頂だけ。彼は過去のことなど忘れてしまう。依子のことなど忘れてしまう。依子は涙でグシャグシャになって目覚める。
「雷三……」
依子は自分の膝に顔を埋めた。
二年後、依子は日本に強制送還された。パスポートも持たず飛行機も使わずカナダに現れた依子の進退は、在カナダ日本国領事館に託され、すべての渡航手続きを日本国領事館が行った。
依子が面会した領事館の職員は皆日本人だったが、皆が皆、困ったような愛想笑いを浮かべ依子の長く床に垂れた髪を見た。依子は一言もしゃべらず、日本行きの飛行機に乗った。
依子には身寄りがない。それがカナダで長く拘束された一因らしい。身元保証人は、依子が出国したはずのカナダの日本領事館という不思議な図式が出来上がっていた。カナダからやってきた日本人にカナダ大使館の職員は総じて平淡に接した。
「それで?」
「それでとは?」
依子の問いに日本語に堪能なカナダ人職員が答えた。
「私はどこへ行けばいいの?」
「どこへでも」
カナダ人は流暢な日本語で続けた。
「どこへでも。あなたは自由だ」
依子は窓の外を見上げた。今にも雨が降りそうな灰色の雲は、異形の星のあの空を思い出させた。
依子はもと住んでいたアパートに足を運んだ。しかし、五年も行方不明だった依子の部屋は片付けられ、今は見知らぬ人が住んでいた。
大家を訪ねると迷惑そうな顔をしながらも依子の貴重品を渡してくれた。置いてあった家電を売った代金としていくばくかのお金も受け取る。依子は深々と頭を下げて立ち去った。
行く宛はなかった。
寝る場所も、知り合いも、友達もなかった。たったの五年。その空白が、依子のなにもかもを消してしまった。
バス停のベンチで夜を明かした。
初秋の夜気はつめたく、夜露が粗末な服を濡らした。異形の星の黒い布がほしかった。膝を抱き、頼れるものもなく、自分の無力を噛み締めた。
翌朝、依子はコチコチに固まった手足を、うーんとうなって伸ばしベンチから立ち上がった。地面は固いアスファルトに覆われている。アスファルトをスニーカーで踏みしめる。見上げれば銀杏並樹が金色に輝いていた。
前に進もう。
私には足がある。
どこへでも。
行けるところまで進もう。
依子は朝日に向かって歩き出した。
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