肆の章【 休息 】

壱の戦 ≪ 想う女 ㊤

 


『可愛い服と不似合いな服を買う。それで友達にどう思うか尋ねる。もしも彼女が間違いを選べば、もうそれまでなの』── パリス・ホイットニー・ヒルトン



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■ 陽向ケ原高校2年1組の生徒

  国仲くになか 凛輝美りるみ ── 曰く





 上唇が嫌い。


 砂糖水に大匙1杯の食紅と小匙1/3杯の片栗粉を混ぜ、角が立つほどに攪拌かくはんした後、少し多めに盛って整形し、しばし固まるのを待ち、目の細かな紙鑢かみやすりで仕上げたかのようなこの上唇が。


 下唇よりも格段に体積が大きく、生まれつきに潤いと張りがあるからか厚ぼったく見える。まるでくちばしのようだが、これを嘴と呼ぶのならば明らかに雛鳥のものであり、餌をついばむのには著しく向いていないとわかる。ぷよぷよと肥大しただけの、幼稚な嘴なのである。


『あたしなんてビーチでしか生きられない無名のセレブアメリカ人みてぇだよ』


 上下ともにふくよかで攻撃的に主張して憚らない唇を自虐し、次原伊織つぎはらいおりは羨んだものである。しかし、慰めではない、親友ならではの忌憚のない自虐を耳にしても、国仲凛輝美はこの上唇を呪うばかり。


 もとは素朴な顔である。パッチリとしているくせに小さな目、陶芸の最中に起きた些細な事故のような小さな鼻、赤ちゃんを思わせる産毛の多い髪の生え際、赤みを帯びるだけで絶対に焦げてくれない白い肌──和菓子で装飾デコられた顔。


『リルの顔ってトータル的に玉淡雪たまあわゆきをホーフツとするね?』


 小学6年生の時にはクラスメートにそう比喩された。長岡の和菓子屋、紅屋重正べにやしげまさが誇る銘菓である。試しに取り寄せてみたら危うく蕩けそうになり、母親から無断で取り寄せるなと説教されたものだが、要するに、落ち着きのある、淡味に満ちた造型ということなのだろう。


 それならそれで、別に構わない。


 が、だとすれば、なおさらにこの上唇が違和である。天性ともいえる落ち着いた顔の中にあって、上唇だけが異様に背伸びをしている。無口な教室に浮く、成熟マセた女児の存在感なのである。


 ゆえにまぁ、目立つこと目立つこと。


「いっそ抱かれて大人になってしまえ」


 女児なので事件に発展することウケアイだが、あくまでも比喩である。いっそ大人の貫禄を習得し、清楚をうそぶけるようになっていただきたいものなのである。


「あーあ。歌帆さんの顔になりたい」


 もしくは、の顔でもいい。


 右手の人差し指の腹を上唇に押しつけ、ムニと捲ってみる。上の前歯が露出して滑稽な人相になるが、どうせ今はひとりである。寝顔が白目とも限らないし、どこで盗撮されているかも知れない普遍的可能性に蓋をしたまま、ムニムニと躊躇なく捲る。


羞月閉花しゅうげつへいかな歌帆さんに」


 不良校の生徒とは思えない熟語を口に、手持ち無沙汰の憧憬を捲るばかり。


『ウチの学校、どうなるんだろうね?』


『わかんねぇ。どうでもいい』


『他校に編入ってなったらどうする?』


『わかんねぇ。そのシステム』


 ぶっきら棒なレスポンスを投げ、さらに『タモリ倶楽部』が始まるからという非情な理由をあげ、今し方、次原は一方的に通話を切った。目的地の見えない与太話トークをのんべんだらりと紡いでいたかった国仲は、薄情なスマートフォンに向けて湿度100%の溜息を散布してやるも、そのスチームで親友を溺れさせることなど叶わず、薄紅のベッドに伏臥ふくがして今、沼の心地へと沈溺。


 タモリ倶楽部──相手が悪すぎる。



 ⇒ 20XX/09/15[土]00:XX

   東京都新宿区早稲田町

   国仲凛輝美の自室にて



 日本の明日に影を落とす熱帯夜。群馬県の館林で39℃を叩き出し、熱中症で緊急搬送された人は全国で延べ539人──そんな今日が暮れてまた、国仲邸のある早稲田の周辺には無惨な明日の青写真が号外でバラ撒かれている。どの掌を平たくして扇いでみてもヒートアイランド現象には敵わず、誰もが諦めた親指でエアコンを起こしては環境テロに荷担しているせい。


「つっか、なんなんだこのエアコンは」


 説明書の筋書では涼しくなっているはずなのだが、融解した国仲にとってはもはや机上の空論としか思えない。


「あー。入院したい」


 確か、一昨日の深夜に駆けつけた都心の病院は、涼しかったような気がする。


 寝返りを打って仰向けになる。


 静かな夜。虫もけているか。


 枕もとのスマホに手を伸ばす。


 でも、すぐに諦めて耳を掻く。


『歌帆さんて、血液型、B型だっけ?』


『けつ、え、はい、ビーだか、だす』


『びーだかだす?』


 他愛もない会話を思い出す。


『歌帆さんの好きな男のタイプは?』


『え!? 好、ふ、双葉山ふたばやま、様、でし』


『だれ? 弟子?』


 鎖骨を掻きながら、


『歌帆さんて、Hしたことあるの?』


『それは、巷でいう、H、ですか?』


『ちま……たぶん、そのHだと思う』


『いまだ挿入された経験はありません』


『ソーニューて』


 取るに足らない会話を思い出す。


『歌帆さん家には、ペット、いるの?』


『秩父の道場のほうに柴犬がおります』


『へぇ。名前は?』


『でぃへ。か、魁皇かいおうという名の』


『どこに照れるポイントがあったのよ』


 しかし、思い出してしまう会話である。いつ、どこで、どのように紡がれたのか、経緯までは記憶にないが、しかし確かに思い出してしまう会話なのである。


「でぃへ」


 右の脇を掻痒そうようしながら、感傷を払拭するように口にしてみる。天然少女の、可愛らしい照れ笑いを。


『歌帆さんて、誕生日、いつだっけ?』


『1月4日。たらの美味しい季節です』


『あー、歌帆さんて山羊座なんだ?』


『そうなんですよぅ実は……でぃへ』


 逞しい少女である。アマレス選手のように分厚い身体、首や太ももは切り株で背中は岩壁──シルエットの艶めかしい、珍しい形状フォルムの山脈のようである。加えて、足が速く、背筋は226㎏もあり、ドッヂボールで敵チームが垣間見た走馬灯は万を数える。ただし、卓球だけは異常に苦手で、リターンが台に触れたためしはない。


『我が半生にない規格外の軽さです』


 ピンポン玉の軽さが不気味らしい。


 あんがい彼女のおかげで楽しい高校生活を送っている。恋バナだのファッションだのスイーツだの、いわゆる高校生の話題とは無縁の珍しい少女なのだが、意外とつきあいがよく、嫌味のない天然で、なおかつ女子が憧れてしまうほどの美人でもあり、楽しい昂揚感スリルに事欠いたことがない。


 なのに、そんな生活もしばらくオアズケなのかと思うと、なにもできない自分に出会してばかり。いかに彼女に依存していたものかと、気づかされてばかり。


「余計なことをしてくれたよ、あの連中」


 狂犬のジンの逮捕による臨時休校が、あの、すがる者のいなかった中学生時代を想起させてばかり。


「死ぬのが、惜しく感じる」





   【 続 】




 

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