壱の章【 序幕 】

壱の戦 ≪ 駆けあがった男

 


『みんなは笑い声をおぼえているかい?』── ロバート・プラント



──────────────────





■ 新米の足場鳶

  鷲見すみ 晋太郎しんたろう ── 曰く





(恐ろしい領域エリアに足を踏み入れてしまった)


 そう気づいた時にはすでに手遅れの状態だった。追うこともできなければ退くこともできない。そもそも、いまだに敵の姿を捕捉できていないのである。


 鷲見晋太郎にとっての闘争とは、常に相手を捕捉することが大前提となるものだった。これをクリアして初めて拳足の振るわれるもの。喧嘩の時も、試合の時も、まず目の前に敵の姿があり、充分な視覚的情報インフォメーションを入手してからゴングの音を耳にするもの。彼にとって、敵の姿を捕捉し、確認することというのは、眠る前に目醒まし時計をセットすることよりも当たり前の作業だったのである。


 しかし、その当たり前の作業がいまだに叶っていない。闘争がはじまってからおよそ15分が経とうとしているが、敵の人相はおろか、1本の毛髪さえも目視できていない。わかっていることといえば、敵が女であるということ、彼女の身につけられてあるのだろう濃密なシナモンの香り、そしてこの肉体に刻みこまれた悪魔的な痛みぐらいのものだろうか。


 左の頬骨に、右の脇腹に、左の太ももに、左の手の先に、ただの打撲とは思えない鈍重な痛みが染みている。まるで鎚矛メイスで殴打されたかのよう。


 あの女、強い──全国大会のマットをも踏んだことのあるキックボクシングの上級者として、そう断言できる。もはや悔しいとも思わない。純粋なる闘争の世界においては、悔しさとは甘えであり、怠けであるということを鷲見は知っている。


(生命を脅かす紛争地帯で悔しさを思う兵士はいない)


 この領域はリングではなく、この闘争はスポーツではない。戦場であり、戦争である。ならば、悔しいという反骨精神を抱いた瞬間に彼はあえなく惨敗を喫することだろう。


 甘えてはならない。怠けてはならない。


(敵の力を認めるべきだ)


 汗がたまとなって首筋を伝う。茹だるほどに暑い東京の夏の夜だというのに、まるで冷や水のような脂汗である。たぶん気化熱の冷たさではない。恐怖や畏怖のもたらす悪寒が要因だろう。


 夜である。宵を過ぎた夜。ここは、鷲見の通う高等学校のはこの中。鉄筋コンクリートでできている硬質な匣、その最上階、3年5組の教室。


 彼は8組の生徒である。4階の妻部屋が本来の根城。しかし、あの女のせいでまったく馴染みのない教室へと逃げこんでしまった。キックボクシングの上級者ともあろう者が、尻尾を巻いて。


(いや、逃げたのはしかたないんだ。敵は強者。まだ恥じ入る場面ではない)


 教室の前方、黒板のある壁と廊下側の壁とがちょうど交わる三角コーナーに、今、鷲見は陣取っている。闘争の強者に対しては壁を背負うのがよい。こうすることで、敵にとっての攻撃の入口は減り、つまり好機チャンスを招くことへとつながるのである。さらに、多勢に対してはかどを背負うのがよい。こうすることで、敵にとっての攻撃の入口はもっと減り、つまり1対1で戦っているのと同じ状況へと持ちこむことができるのである。


 敵はひとり。しかしあの女は多勢に匹儔ひっちゅうする実力の持ち主。じくじくと化膿したかのような身体中の痛みが彼女を強敵と認め、ゆえに、鷲見は三角コーナーに陣取る。むろん、彼の逃げ場もない。まさに背水の陣。こうなっては手遅れの状態だが、手遅れだからこその善処であると信じる。いや、信じるより他に術がない。


(まさかこんなことになるとは……な)


 喧嘩を売ったのは鷲見のほうである。なにも特別な理由があってのことではない。この高校が、腕力的弱者はもとより、強者に対しても遠慮なく喧嘩を仕掛けることを校風とする闘技場コロッセオなのだから、わざわざ特別な理由を設置する必要はない。ましてや、誰もが認める兵者つわものに勝てばなおさら一目を置かれるという、時代錯誤も甚だしい勝利至上主義の高校である。敵を叩きのめしたい──胸にその一点を秘めてさえいれば問題ない。責められることはないし、咎められることもないし、もしや内申には響くのかも知れないが、残念ながらこの高校、大学進学を目指すような変人がひとりもいない学校であるからして、成績を憂慮する必要もない。あげく、退学こそ殊勲賞、警察に逮捕されれば内閣総理大臣賞。


 斯様に救いがたい高校がゆえ、鷲見が生徒に喧嘩を売るのも当然の流れ。1個の生物として呼吸するようなものなのである。


 件の女、かなり強いと耳にしていた。なにせ、入学式の最中、先輩の威厳を見せつけるために会場へと乱入した狩俣帯斗かりまたおびとを、瞬きの間もなく地に臥させたのだそう。狩俣といえば、池袋を活動拠点とする半グレ集団『孤月義道会こげつぎどうかい』の副リーダーだった男。鷲見とは同学年だが、喧嘩の残忍さはもちろん、社会的にも色色と問題のある男。そんな現場経験の豊富なほぼ犯罪者を、一瞬のうちにほふった。入学したばかりの、しかも女が、怯むことなく、一瞬のうちに。


(じゃあ売るだろよ)


 相手が男であろうが女であろうが、強者と見れば喧嘩を売ることが当校の生徒たる命題テーゼ。まったく呼吸するがごとくに売ったわけである。


 それが、このザマ。


 教室から出てくるところを待ち伏せし、おもむろに背後から放った右の上段回し蹴り。むろん、様子見の蹴り。しかし、予定調和のようにたやすく回避かわされると、続け様に連打を浴びた。頬骨に右の掌底、脇腹に左フック、太ももに右の膝蹴り──息も吐かせぬ連撃だった。特に、太ももの外側は打撃に弱い部位である、ここを鋭く射貫かれ、鷲見は思わず敵に背中を向けると同時にケンケンと跳ねて悶絶。


 ところが、


(追い撃ちしなかったのはなぜだ?)


 背中を向けてしまったことに気づき、慌てて振り返った時にはすでに女の姿はなかった。左脚を引きずりながら消えたほうを追ってみたが、やはりどこにも姿はない。


 無防備な背中が目の前にある、ゆえに畳みかけてもよかったはずである。しかし、追い撃ちをかけることなく女は姿を消した。跡形もなく、気配もなく。


(まぁ、そこからが本番だったわけだが)


 ワイシャツの襟を掴み、ごしごしと胸もとの汗を拭う。が、脂汗を掻きすぎたか、すでに湿っぽく、タオルの代わりとしてはだいぶん頼りない。いや、この教室へと至る道中で、鷲見はわずかな液体を浴びている。もしや湿っぽさの原因はそれかも知れない。


(水って、武器になるんだな)


 女の姿を見失ってから、鷲見は、痛む左脚を押さえつつも生徒専用の玄関までたどり着いた。とてもではないが、匣の中、閉所で落ち着いていられる心境ではなかったのである。


 準決勝で敗れはしたが、キックボクシングの全国大会を戦った。ちょうど2年前、高校1年生の時のこと。中学時代から通っていたジムの薦めで出場し、勝ちあがるごとにトレーナーや会長も喜んでいただろうか。その後、不良高校の校風にほだされて呆気なくジムを辞め、今やその格闘技術を喧嘩へと活かすばかりの彼だが、輝かしい実績をモチベーションの核としている事実は認めざるを得ない。そういう意味では、トレーニング浸けの日日も無駄ではなかったと思っている。会長たちへの報恩の気持ちはまったくないが、感謝だけはしている。


 だからこそ、あっさりと懐を許し、立て続けに3発もの打撃を喰らったのが却ってショックだった。あまつさえ敵に背中を向け、あげくの果てには姿を見失う──こんな肩身の狭い校内で安穏としていられるような心境ではなかったのである。自信喪失の初期症状に近い状態だったろうか。なるほど、自信とは「自分を信じること」という額面だけで成り立つものではなく、最も大切なことは「自分にちゅうを尽くすこと」となる。しかし、恩人であるはずの会長を裏切り、小手先の技術だけで満足してきた彼にその真理を知られる由もない。


『お、わッ……!』


 不意に、キラリと光るものが飛来、玄関の大地を目指すように、とっさに身を屈める鷲見。その頭上、こッ、かッ──ふたつの硬い音が鳴った。鳴ったほうを眼球だけで追ってみると、耐熱ボードを隠す壁面になにかが突き刺さっている。


 硝子の破片。


 天然記念物のような不良高校である、窓硝子の破片などいくらでも落ちている。


 しかし、それを、まさか手裏剣のように?


 と──背後に人の気配がした。いや、気配ではない。匂いである。香りである。甘い香り。ディズニーランドの香り。これは確か、シナモン……?


 ここでハタと気づく。またもや敵に背中を向けている。


 慌てて立ちあがる。どこを打たれるかはわからないが、発作的に鳩尾みぞおちのあたりをクロスアームで防御ガード


 すぐ目の前に、掌があった。


 ぱしゅッ。


『がッ!』


 両の眼球に猛烈な痛み。冷涼な痛み。すぐさま灼熱の痛み。


 掌に液体を乗せ、オーバースローで眼球へと投げ入れられた──と推察するのは後のこと。この時の鷲見はそれどころでなく、両手で顔を覆い、上半身を畳み、再び、再び敵に背中を向けていた。向けていて、向けていることにすぐに気づくも上手に瞼が開かず、薄目しか開かず、ぐじゃぐじゃに歪む視界の中、動物的本能か、とにかく明るいほうを目指して駆けていた。逃げるというよりは脱出口イグジットへと向かう感覚に近かったような気がする。


 天は明るく、しかしつんのめり、転びかけ、ここでようやく階段をあがろうとしていることに気づいた。自らの脚で、鍛えたはずの、しかしいまだに痛む脚で、脱出口であるはずもない、あろうことか匣の奥へと。望まない閉所へと。へと。


 眼球を打たれ、敵は背後で、体勢を立てなおす必要もあり、やむなく鷲見は急勾配の階段を駆けあがった。不良生徒の自尊心プライドか、職員室のある2階を無意識のうちにスルー、踊り場をUターンし、手すりを鷲掴みにしながら流れるように3階へと


 ごッ。


 Uの内側、手すりの内側、わずかな吹き抜けを貫き、下階から得体の知れない物体が飛翔してきた。そしてそれは鷲見の左の鷲掴みを直撃し、


『あぐッ!』


 突き指のような激痛が全身を疾走、左手を抱えこみ、思わぬ内股の小走りで脱兎の疾走、そのまま3階の大地を踏むと同時に、どごがこん──重たい音を響かせて飛翔体が踊り場へと到達。


 赤いボディの、小型の消火器。


 決して軽くはないだろう消火器を投げあげ、吹き抜けのわずかな隙間を通し、しかも鷲見の左手へと直撃させる──呆れるほどのりょ力と器用さである。そして、器用だと思った時には、彼は4階への階段を踏んでいた。またもや無意識だった。


 最上階になにがあるわけでもない。むしろ、椅子や机、掃除用具やカーテン、割られた硝子の破片など、凶器となりそうな物しかない。しかし鷲見の頭の中は体勢を立てなおすことで一杯だった。なにしろ彼はキックボクサー、ラウンドごとに必ずやインターバルが置かれ、セコンドとともに体勢を立てなおしてきたのである。今はもう孤高の戦士だが、インターバルの習慣まで無かったことにはできない。キックボクサーとしての本能が体勢を立てなおせと命じている。


 鼓動のように痛みの脈打つ左手を大事そうに抱えながら、とうとう最上階へと到着。3年1組と2組のある右側へは折れず、彼は反対側へと折れた。3組から8組までを擁するのがこちらの廊下である、右側よりも充分に長さがあり、つまり退避の選択肢も多い。


 逃げてばかりである。どこかに身を隠して呼吸を整えたかった。視力も回復していないし、頬も痛いし、脇腹も痛ければ脚も痛いし、左手がいちばん痛い。


 で、


(今──ここにいるというわけだ)



 ⇒ 20XX/06/28[水]19:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高校3年5組の教室にて



 本拠地である8組へは逃げこめなかった。あそこは妻部屋である、圧倒的に選択肢が少ない──と考えると、なんだか巧く誘導させられたような気がしてならない。鷲見のキックボクサーとしての哀しい性を熟知しているとしか思えない。しかし、敵であるあの女とは、今日が初対面といっても過言ではない。自分は3年生、相手は1年生、しかも彼女はまだ入学して3ケ月しか経っておらず、接点は皆無に等しい。鷲見のことなど知っているはずもないのである。


(どういう女なんだ?)


 素性の知れない謎の女。やたらと強い──巷説だけが独歩している。鷲見もまんまと乗せられた。まんまと乗せられ、今、それが真実であったと理解しつつある。


(名は、確か……)


歌帆かほ』だったか。


 名前しか知らない。苗字は、変な、妙な、珍しいものだったような気がする。はっきりとは記憶していないが、少なくとも「鬼」という字は入っていた。それだけは確実に憶えている。なぜかといえば、彼の所属するグループのボスの苗字にも「鬼」という字が入っているから。


 あの女と同学年の、つまり鷲見の後輩であるはずのボス──強さの桁が違った。いともたやすく自尊心を折られ、後輩であるはずのの傘下と相成った。そして現在、の手によって再び鷲見の自尊心は折られようとしている……、


「……バカ言うな」


 囁き声で自らを叱咤。すっかり弱気になっている。許多あまたの試合をこなしてきたはずの格闘家が、3発の拳足と2枚の飛礫つぶてと、1杯の液体と1個の消火器によって、すっかりと。


「そう、俺は許多の試合を熟してきたんだ」


 雨あられの打撃を掻いくぐってきたんだ──気持ちを奮い起たせた、その直後のことだった。


「なるほど。どうりで弱いわけですね」


 目の前の闇が、喋った。


「振る舞いがキックボクシングのものでしたので期待したのですが、あまりに弱く、遺憾です」


 完全な闇ではない。近くは校庭の灯、遠くは池袋の灯がこの教室内にも注がれている。ほんのお裾分け程度の灯だが、右と左がわかるほどの明度は保たれている。


 しかし、敵の姿が見えない。


「試合いばかりを知り、仕合いを知らない」


 ただ鳥目の世界が広がるのみ。声は教室の後方から聞こえてくるが、雑然と並べられる机の影しか見当たらない。鷲見の知る、人間という生き物の影が見当たらない。


「試し合いばかりを知り、立ち合いを知らない」


 今時の女子高校生とは思えないほどに太い声である。楽器でたとえるのならば、アルトサックス。


「ゆえにインターバルが必要」


 微かにハスキーで、腹式呼吸ができている。


「ゆえにハーフタイムが必要」


 昔のアニメにこういう声のキャラクターがいた。父親の好きなアニメ『機動戦士ガンダム』の、キャラの名前は、確か「キシリア・ザビ」だったか──どうでもいいことを考えている。


「これでも充分に差しあげたつもりなのですが、まったく体勢が整っていない」


 闇の中、存在感の塊のような声が漂う。しかし、声の主の存在はない。鷲見は、まるでフィクションの世界に迷いこんでしまったかのような、ふわふわとした夢心地に襲われている。


「試合にかまけすぎましたね」


「姿を見せろ」


 隠しきれない不安をようやく口にし、教室の後方へと目を凝らす。まだ眼球に痛みが染みている。幾度も瞬きながら、瞼の照準を絞る。


「どこにいる……?」


 なのに、見えない。いっこうに人影が見えない。


 こうも見えないものなのか。こうも見えなくできるものなのか。どうすればこうも見えなくできるのか。どんなトリックを使えばこうも見えなくできるのか。


 人相を歪めてさらに目を凝らし、腰の引けた前傾姿勢のまま、久し振りの1歩を踏み出す。


「どこに?」


「ここに」


 闇がそう宣言するや否や、左手、廊下側のり戸が、らんッ──素早くスライド、まっ黒な人影が流れこんできた。流れこんできて早早、人影が上半身を畳む。鷲見に向かって前方宙返り。とっさに彼は、


「ぅおッ!」


 頭を抱えるように防御。しかし、その腕をも押し退け、重たい胴回し回転蹴り、その踵が頭頂部テンプルをかすめた。


 ……どちらの手かはわからないが、携帯電話スマホを握っていた。ほんの一瞬だけ見えた。直後、かろうじて難を逃れた鷲見の脳裏に「トランシーバー」と「秋葉原」の2単語がよぎる。


 左から右へと通過した人影、その身を丸め、クラウチングスタートのような姿勢で着地。こちらに背中を見せている。女のものとは思えない広い背中。いや、いまだに影のままだから女かどうかもわからない。いや、濃密なシナモンの香りがするからやっぱり女かも知れない。


 蕩けてしまいそうなシナモンの香り、スイーツショップの平和な香り、胃もたれを予感させる気怠い香り──蹴りやすそうな広い背中を見おろしながらも、その馴染みのない香りに自失、せっかくの好機を逸して茫然と立ち尽くしてしまった。


「ぃよっ」


 暢気のんきな掛け声とともに背中が跳躍した。


 バック転。


 すぐ目の前、人影が一気に逆さまとなり、視線の先に下半身が、スカートが、はだけそうなスカートが、スカートの影が、スカートの影の中が、スカートの影の中の影が今にもその姿を見せ


 ごぢ。


 女の右膝が、バック転の勢いを充分に乗せた右膝が、さらに勢いを加速させながら鷲見の顔面を射貫いた。と同時に、冷たい痛みまでもが顔面を貫通、後頭部へと達する。鼻を挫かれた──とも判断できない猛烈な痛み。一瞬にして魂が抜けてしまったようで、彼には物理的な反射で仰け反ることしか術がなかった。


 わずか1秒、再び魂が戻ってきた時には、彼は仰臥ぎょうがしていた。


 すでに左脚が生け捕りにされていた。バック転の着地の際に捕られたらしい。偶然の産物なのか、いや、もともとがそういう技なのか──激痛に麻痺する頭によもやそんな分析が働くはずもなく、鷲見は巨大な黒い壁を目の当たりにするばかり。それが女の臀部おしりの陰影であるとはさすがに思いもしない。


 仰向けの鷲見、その顔面に座りこむようにして、女は生け捕りの脚を懐中ふところに抱えている。左腕を足首に巻きつけ、右手で甲を反らし、まるで足を裸絞はだかじめにするようにしている。この体勢は……足首固め?


 まぎッ。


「ごあッ!」


 なんの躊躇もなく、女は足首から先を捩った。捩り切られたかのようだった。1本の電流が脊髄を伝い、脳天を突き抜け、即座にマグマとなって全身に拡張、細胞のひとつひとつが激痛に染まり、


「ひぎぎぎぎぎぎ……!」


 足首の靭帯が断ち切られたか、いや、関節を外されたか、いや、アキレス腱かも知れない──と自己診断することも叶わず、鷲見は歯茎を剥き出しにしながら悶絶。


 人影が室内へと流れこんできてから、わずか数秒の出来事である。


「ううむ」


 不服そうに唸りながら、女が立ちあがった。しかし、眼球を潰さんばかりに瞼を瞑って悶える鷲見には、いまだに黒い壁が立ちはだかるのみ。


 永遠のような、絶望の壁。


拳鐘けんしょう先生もずいぶんと不合理な技をお考えになったものです」


 遠ざかりゆく女の台詞も、すでに遮られている。


「無駄の多い技」


 もう、なにも聞こえない。


「いや、技だと思うから無駄に感じるのでしょうか」


 全身から噴き出る脂汗の粘り気しか聞こえない。


「ううむ……未熟者の私には、わかりません」


 視界も、音も、痛覚も、すべてが闇になった。





     ☆





 あれから、ちょうど1年が経つ。


「落とすぞおらぁ!」


 年若い先輩が容赦なく足場材を落としてくる。いずれも10㎏を超えるだろう建築資材。鷲見はそれを空中でキャッチする。そして下で待つ中年の先輩へと投下。キャッチをしくじれば強面の先輩に足場材が直撃するかも知れない。イレギュラーバウンドの末、歩行者に直撃するかも知れない。生命に関わる事故ともなる。いや、仮に生命に関わらなくとも、間違いなく先輩たちから袋叩きにされるだろう。


「ちゃんと声だせやバカヤロウが!」


 江東区、一般宅の新築工事、そこで使われていた建築足場を解体バラしている。人件費の都合上、たった3人で切り盛りせねばならず、年若い先輩が上段で解体、中段の鷲見を経由し、下段の中年オヤジがトラックへと積みこむ。上中下段、どこも手渡しのリレーが叶う距離ではなく、ゆえに空中キャッチ。10㎏超の足場材を、雨霰のように降り注がれる建築資材を、労りもなく次次に投げ落とされる鉄の塊を、決して仕損じないようキャッチする。歯茎を剥き出しにしてキャッチする。


「休んでるヒマなんかねぇぞ!」


 腕が悲鳴をあげている。掌はすでに幾度となくっている。掌だけではない、人生で1度も攣ったことのなかった肉体部位がことごとく攣っている。今まさに頬さえも攣りそうな状態なのである。


「構えろや!」


 前距腓靭帯ぜんきょひじんたい断裂の重傷から回復した頃、鷲見は高校を卒業した。そして今、父親の伝を頼って『鳶鉄とびてつ工業株式会社』へと入社、いわゆる足場鳶をしている。


 実績のある会社で社員もみな仕事熱心なのだが、とにかく口が悪く、また態度も悪い。簡単に怒鳴り、罵り、頭を叩き、背中を蹴り、心棒をし折りにかかる。


 ちなみに、


「死ぬ気でやれやこっちも殺すつもりでやってんだからよ!」


 踏板アンチの隙間から巻き舌で罵倒してくる2歳上のこの先輩、キックボクシングの元日本王者らしい。なるほど、フットワークの軽そうな筋肉質の肉体を持つ。切れ長に座った目が特徴の、いかにもヤンチャそうな男である。


「ち──オメェのせいで終わんねぇんだよバカが」


 トラックの前で舌打ちする中年の先輩は元暴力団員。浅黒い背中にカープの刺青を負う男。ヘルメットを脱げばスキンヘッドで、まっ白な無精髭といい、深深と眉間に刻まれた縦皺といい、読んで字のごとくの強面である。


「すい、ま、せん……」


 とてもではないが勝てそうにない。戦ってもいないのに敗北を認めている。息も絶え絶えに謝るばかり。


 楽しい高校時代だった。強者だの弱者だの、勝者だの敗者だのと人を秤にかけ、甘えだの怠けだの、戦場だの戦争だのと格闘技漫画の主人公を気取る毎日は楽しかった。自尊心を折られることも確かにあったが、いつでも敵がいたから楽だった。楽しかった。天国だった。


「済みませんじゃねぇんだよ。済ませろ!」


 今は、


 敵はひとりもおらず、いち社会人として社会に貢献し、給料までもらっているのだから「天」であることに違いはない。まっ当で、明るい世界。


 しかし、鎖でつながれている感じ。完全敗者として唯唯諾諾と世界に酷使されている感じ。この感じは「獄」に等しい。まっ黒な、闇夜の世界。


 あの日、


「おいおい使えろや!」


 明るいほうを目指して階段を駆けあがったら、そこは闇だった。闇討ちに遭い、いや、闇そのものに討たれ、とうとう、鷲見は恐ろしい領域の住人にされてしまった。あれこそが天獄への階段Stairway To Heaven……だったのかも知れない。





   【 了 】




 

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