伍の戦 ≪ 査定する女 ㊦

 




■ 巌桐流の秘蔵っ子

  桐渓きりたに 更紗さらさ ── 続ける





 天文元年 (1532年) に桐渓釈晟きりたにしゃくじょうが開眼し、子の釈莱しゃくらいが広めたとされている。現存する武術体系としては恐らく日本最古とも呼ばれ、



荒巻流あらまきりゅう

高富流たかとみりゅう

桐三統流きりさんとうりゅう

北杜一世流きたもりいっせいりゅう

刀傳流とうでんりゅう



 など、有力な派生流派を数多く輩出している大柔術組織。


 組討くみうち捕手とりでを主力作法とし、投げ技や絞め技のみならず打撃にも長け、小太刀や脇差わきざしなどの短径武器も充分に扱う。実際、研究の一環として刀術、槍術、弓術などを教え、史上最強の武器とされている薙刀なぎなたもまた注力のひとつに数えている。いずれにせよ、無手勝流に特化した近代柔術とは明確な一線を画する戦場格闘体系。



『大柔術 ─ 巌桐流げんとうりゅう



 現在の当主の名を桐渓長政ながまさといい、子は長女のひとりのみ。桐渓更紗がこれだった。


 巌桐流は代代と継続する男系譜であり、後継者問題が最大の悩みの種となっていた。派生流派のほうから相応しい男子をあげて補うという案も浮上する中、しかし父は例外的な女当主の確立を目指した。よって、桐渓は幼少時代から徹底的に武術指導されてきた。スパルタ教育だった。むろん、女性なので潜在的体力には恵まれず、生まれながらにして小柄だったため耐久力にも劣るものの、対応力、吸収力、柔軟性に優れる天才肌であり、ちょうど未来を嘱望されていたところである。


 しかし、これ幸いか、ここにきてようやく母の由美子ゆみこが第2子を妊娠、すでに男児であることも判明している。


 桐渓は現在、高校2年生。早いもので、来月には17歳となる。


 そろそろ継承問題を意識しなくてはならない時期にきて、弟が生まれることを知った。およそ17も歳の離れた弟である。そして、17年間を彩ってきた許多あまた艱難かんなん辛苦は彼女のもとを去り、年端もいかぬ弟の小さな背中に伸しかかることとなる。いずれ武道とは無関係な夢を見る日も来るのだろうが、彼の夢は絶対に叶わず、現代日本社会においてはよもや発揮されることのない戦場格闘技を、連日連夜、錬磨していくこととなる。


 さすがに気の毒だとは思うが、だからと言って新米の姉にはなにもしてやれず、


『嬉しい? 悔しい?』


 身重の母から迫られた二者択一にさえ、


『……べつに』


 振ってやるべきこうべを持てなかった。





     ☆





 挑まれた2度の握手。しかも、どちらにも画鋲がびょうというオマケつき。


 いくら筋肉を硬く鍛えていようが、針の刺さる痛みは老若男女を問わずして平等フェアな感覚であり、たいていは1度だけで懲りてしまうものなのだが。


 果たして百目鬼歌帆はどうだろう?──と思っている間もなく、


「仲直りですか。それは妙案」


 きゅ。


 彼女は再び、画鋲ごと、躊躇なく桐渓の右手を握っていた。


「おー。なるほどね!」


 声にして感心してしまった。


 画鋲の針先の、肉に突き刺さる手応えがなかった。消しゴムにナイフの刃先を突き立てた時のような、そろりと小気味よい、しかし充分な抵抗をおぼえる手応えが。


 すでに刺さっている画鋲の背中で、針先を防御ガードしたらしかった。カチッという硬い音を掌の内側に聞いたような気もする。


「上手に合わせるもんだ」


 そう呟きながら桐渓、甘えるような上目づかいで百目鬼を見、ものは試しと、再び尺骨神経ファニーボーンを押さえるべく左手を伸ばしてみた。


 しかし、


「いっ!」


 左手が届く刹那、百目鬼が素早く1歩を踏みこんだ。同時に、自分の耳を掻くような挙動をして右の肘を折り畳む。自然、腕の内側を天井に向けたまま桐渓の右手は捻りあげられた。反射的に肘を裏返そうと試みる。しかし、時すでに遅し、軽量級の背丈には背伸びをするしか手段がない。


 間もなく、流れるように、すきだらけの右の胸に畳んだばかり肘が突き刺さった。とたん、平らな胸に臓物を焼かれたような辛辣な痛みが疾走。


 八極拳はっきょくけんが体術のひとつ『裡門頂肘りもんちょうちゅう』。


 よろよろと、簡単に後退しそうになる。しかし百目鬼は手を休めなかった。


 くんっ。


 握手の右手を引き、桐渓の身体を懐中ふところへと招き寄せる。つんのめって前傾姿勢となる小柄な肉体。その下腹部に首を挿入し、彼女は豪快に、天高く担ぎあげた。


 170㎝の物物しい視界。


 ディズニーの平和なんてどこにもない。


 しかし、異界を眺望している暇さえも与えられず、眼下に広がっていた夕暮れの土間が、一転、天井へと様変わり。さらには無灯火の蛍光灯が瞬く間もなく遠ざかり、次いで背中一面に重たい衝撃が走った。


 土間に背中を強打。


 破裂するように息が詰まった。


 百目鬼はまだ休まない。仰向けの桐渓の上でごろりと後転して立ちあがると、まだ結ばれたままでいる握手を引いて強制的に起こす。已むを得ずに起きあがった胴体にすかさずタックルを入れる。左腕で桐渓の両脚を抱えこみ、軽軽と首筋に担ぎあげてから再びの背面跳び。


 どむッ。


 コンクリートに肩胛骨を強打。


 ごろりと後転して百目鬼は立ちあがる。またも強制的に桐渓を引き起こす。すると彼女は、ようやく握手を解放した。


 急速に涼しさを回復させる右手。しかし清涼感を堪能している暇もなく、打点の高いドロップキックをすぐ目前に見た。


「ぬあ!」


 咆哮とともに、細胞に鞭を打って両腕をあげる。間一髪で顔面を防御。とはいえ、充分な体力の乗った底足ていそくをまともに浴びた桐渓は、顔の右半分を襲う鈍痛と一緒に、まるで玩具のように、仰け反ったまま吹き飛ばされていた。


 がおんッ。


 スチール製の靴棚に背中を殴打。


 衝撃のあまりに脳が揺れる。靴棚の表面に沿って崩れ落ちる。しかし、今まさに床に近づかんとしている顎を目掛け、鈍器の右膝が飛んできた。


 再び両腕で防御。致命傷は防いだが、呆気なく上半身をカチあげられる。さらにショルダータックルを胸に入れられ、棚に叩きつけられ、弛緩する右腕を捕縛ハグされ、そしてコンクリートの床へと一本背負い。


 ぱぁんッ。


 張り手の乾いた音が響き渡る。


「ダ、メだ」


 どの攻撃に際しても受け身は取られていたが、しかしながら5回に渡って背中を強打、桐渓の全身は跡形もなく麻痺してしまった。かじかむ掌を強く拍手したようなストレスの痛みがじわりじわりと身体中を蠢動。息継ぎも難しく、まさに冷たい海で溺れているに等しい。


「容赦、ないや、この人」


 虫の息で呟く。仰いだ天井もまた、濃度を強めた夕闇のせいでなにがなんやらわからなくなっている。


 と、紺色の物体が視界を遮った。


 靴下の底足。


 顔面を踏まれる──即座に判断すると、素早く寝返りを打って足踏みスタンプを回避、四つん這いの姿勢となる。


 が、間髪を入れず、


 がぱッ。


 右のチークに重たい掌底を喰らった。自動車の正面衝突さながらに、寝返りを打ったほうとは正反対の方向へとねられる。ぐるんと全身を回転させながら、桐渓は再び靴棚まで追いやられていた。


「い、ぎっ……!」


 張られた頬に、殴打のものとは明らかに異なる鮮やかな痛みが混じっている。


 舌先で頬の内側を確かめる。


 わずかに尖る、異物感。


 画鋲ごとビンタされたらしかった。


 くしゃっと顔を歪め、素早く画鋲を抜き取る。抜いたとたん、さらなる痛みが走り、口の中にほんのりと暢気のんきな鉄の味が広がった。


 左の側頭部に、右の上段回し蹴り。


 しゃがんで回避かわす。目の前には百目鬼の大きなお尻が浮かぶ。上半身はわずかに前に傾き始めていて……ということは、


「ふわっ!」


 慌てて腹部をクロスアームで防御。その華奢な盾に、大地の底からりあがってきた左のヒールが衝突。入射角から察するに、狙われたのは子宮か。いや、クロスした腕の骨が狙われたのかも知れない。どっちでもいい。


 百目鬼はまだまだ休まなかった。


 ヒールキックの左足を、フリーキックのように前方へと蹴り出した。その反動を利用して上半身を捻転、桐渓の横っ面を狙って右の裏拳バックハンドブロー。上と思えば下、下と思えば上のアクティヴなコンボ。


 さらに身を屈めて裏拳を回避す。ロングヘアを巻きこみながら、ふぉん、右の拳は頭上を通過。


 と、ガラあきの胴体が目の前に。


 好機チャンスと踏んで飛びこむ桐渓。


 しかし、タックルは入れられなかった。


「いがっ!」


 すでに髪の毛を掴まれていた。


 毟り取られそうな激痛が頭を占める。ゆえにタックルを簡単に諦めさせられ、桐渓は頭を抱えながら苦痛の声を絞り出すしかなかった。


 百目鬼は労らない。髪を掴んだまま、ますます荒っぽく、裏拳の流れを継いで時計回りに自転。足を髪にしたジャイアントスイングである。小柄ながらも50㎏は超える桐渓の身体を右手1本で持ったまま、百目鬼は楽楽と周回、靴棚に阻まれようがお構いなしに加速、そしてついに、出入口の観音扉に向けて放り投げた。


 プロレス技が、ハンマー投げと化した。


 ばっしゃあッ。


 背中から、硝子戸を突破。


 校外へと勢いよく飛び出した桐渓、軒下の鉄柱に激突し、うつぶせに転倒。


 こぅをぅをぅん。


 鉄柱が梵鐘を棚引かせる。


「く、か」


 とっさに頭を抱えて後頭部と頸動脈は死守できたものの、死守した両腕のほうに熱い痛み。


「か、かは、ははは」


 硝子で斬ったと、痛みでわかった。


を弁えよ』


 幼い頃から、父は、巌桐流を社会に表出させないよう娘を戒めたものである。ごく一部の公的防衛組織が発揮する以外、我が国はもはや武力の罷り通る軍国ではないのだと、強く強く、口癖のように語って聞かせたものである。


「分」という言葉に置換して。


 適材適所を逸脱した武力はすでに暴力に等しいのだと。民主主義国家の名のもとに必要視されない限り、巌桐流もしょせんは暴力組織に他ならないのだと。武芸の時代とは明白に異なり、決して分相応であってはならない平等な社会であることを心し、いたずらに表出させてはならないのだと。ゆえに、誠意の克己に励むべきであるのだと。


 これをもって「分」とするのだと。


 小学3年生の桐渓は、


『必要ないのになぜ励む?』


 そう質したことがある。


 すると父は、


『必要の外に遺されるのだ』


 文学で返した。


『誰のため?』


 なんだか遊ばれているようにも思え、


『それは違う。ためを以て成すのではなくみちを以て為されるのだ』


 だから彼女は、


『更紗よ、遺すとはそういうことだ』


 文学が嫌いなのかも知れない。


「かはは。弁えたら、このザマだ」


 わなわなと震える腕立て伏せで上半身を持ちあげる。それから、両の膝を立てて四つん這いの姿勢になった。


 見ると、やはりどちらの腕からも出血があった。光沢を帯びる深紅の蛇が何匹も掌を目指して這っている。特に、左肘に程近い患部は重傷で、CD大の硝子片が上手に突き刺さっていた。


 生ぬるい血の匂い。


「抜いたら、血が、噴き出るんだろうな。でも、武器にも、なるんだろうな」


 懐かしい重傷をひとりごとの脳内麻薬アドレナリンでいさめながら、胡座をかく。


「どっちを、選ぶべきかな」


 どッどッどッどッ──7歳の時、父に左腕を折られた時の激しい心拍数が蘇っている。


「止血か、武器か、相手によっては究極の選択だな、これは」


 その、相手のほうを見た。


「あー。ありがたい話だよ。色もつけずに遊んでくれてさ」


 乾丞秀いぬいじょうしゅう三枝虹子さえぐさこうことは桁違いの好待遇である。


 すると、目の前にぽっかりとあいている観音扉の裂け目シュルントから、するりと百目鬼があらわれた。とっくにローファーを履き、迷彩柄のバックパックも背負っている。


 そして、


「これ、お返しいたします」


 ハスキーな、アルトサックスを思わせる分厚い声を暢気に奏でると、裁縫でもするかのように右の掌から画鋲を引き抜き、手首のスナップも軽快にアンダースローで投げて寄越した。


「派手にやりすぎました」


 汗もかかず、息も切らさず、お月見でもするかのように夕闇の空を仰ぐと、


「いかに臆病なヒナ高の教師とはいえ、破壊音を耳にしては駆けつけないわけにもいかないでしょうね。ですので、もう私は逃げます。この乱痴気騒ぎに関してはくれぐれもご内密に」


 ちらりと桐渓を見て、悪戯っ子の微笑みに人さし指を立てた。勤勉な生徒にはあるまじき密約を、本気か冗談かもわからない口調トーンで平然と持ちかけたのである。


 しかし、そもそも忍術とはそういうものである。相手を煙に巻いてナンボの、虚実でもって人を騙くらかす行動力学なのである。欺瞞ぎまんに満ちた手品マジックであり、見分けのつかない詐欺ペテンであり、高水準の人心操舵術メンタリズムなのである。事実「忍者は年中無休で黒装束」という流言蜚語デマゴギーを巷間に拡散して史実を捩じ曲げてみせたのは、他でもない、当の忍者たちなのである──より隠密ステルス活動をしやすくするために。


 その程度のことを知らぬ桐渓ではない。


「もしもあなたが本気でしたらば、手遊てすさびに始終することもありませんでした」


 しかし、この女忍者くのいちは、


「あたら最後の最後まで手を抜かれるとは、遺憾の極みです」


 しみじみと、こればかりは本当に、残念そうに嘆いた。


 武術屋が聞いて呆れる。戦場格闘技である巌桐流と鬼門陰陽流の開戦が、よもや画鋲の握手であるはずもなかろうに。


 いったいどれが素顔だろうかと思う。


 しかし、相変わらずの文学的な牙で、


「久久の大物だと喜んだのも束の間」


「よく言うわ。大怪我させといてさぁ」


「なにを仰有る。想定内でしょう?」


 百目鬼は優しく微笑む。そして躊躇なく広い背中を向けた。


 まるで大樹セコイアのような背中。


 やっぱり、恵まれた背中。


「あなたは敗北の仕方を計っておられました。計ることで、私の質を測っておられました。確かに、勝った負けたの腕較べごときでは相手の本質を測ることなどできませんものね。まぁ、動機は知れず、手段も感心しませんが、ただ、私を高く買ってくださったことについては衷心ちゅうしんから感謝しております」


 羨ましい背中に猪口才ちょこざいな口上を並べ、しかし桐渓には1文の慰謝料を落とすこともなく、百目鬼はまさに道草の歩幅ストライドで帰路へと戻った。


 鋼鉄をコルクでコーティングしたかのような体躯が校舎の角に消え、たちまち、蝉たちが子孫繁栄の活動要綱スローガンを思い出す。鳴かず飛ばずでいればもっと長生きできるだろうに、頭を使わずに命ばかりを削る。


 夕闇もまた最後の灯を絞り出す。しかし、風は怠業サボったままでいる。夏という季節は、人の欲しがるものほど怠けて惜しみ、逆に、要らないものほど頑張って贈りたい性格のようである。


「余計なお世話だよ、夏」


 嘆きを口に、左腕を水平にする。最後の灯を手立てに、突き刺さる硝子片の中に自分の姿を探す。


 恵まれない小柄な身体だから簡単に見つかると思った。しかし、中立の夕闇が映りこんでいるばかりで、肝心の敗者の姿はどこにも見つからなかった。


「テスサビ」


 そう、


「手遊びかぁ」


 これは遊びなのである。


「手抜きとあらば」


 ただの試合なのである。


「巌桐流にもプロレスかぁ」


 ただの試し合いリハーサルなのである。


「どうりで虹子が遊ばれるわけだ」


 敗者なんているわけがないのである。


「なるほどねぇ」


 勝敗だけがいっさいの掟である親友は、だから負けていないのであり、だから、すっかり負けてしまったのである。


 こうして、


「あー。痛いよぅ。スーパー痛い」


 査定は終わりを迎えた。


 しかして、桐渓はわらう。


「痛い……」


 滴り落ちる深紅の血の中に、腕を燃やす炎の中に、荒れ狂う火の海に、


「痛い、けど、巌桐流だったら──」


 まだ見ぬ弟の姿を見ていた。


「──よ?」


 彼女はもはや遺す立場にはないが、だからこそ、遺す動機を新たに見ていた。





   【 了 】




 

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