第46話

「怪我はそれほど重くない。しかし最も重要なのが精神面であることは明白だろう」

 暗闇の中で聞こえてきた男の声は、奇妙な反響をしていた。なんらかの多面体、それもどのような法則性も持たない、全ての角度という角度が狂った、あるいは次元をも超えた奇怪な空間の中で聞かされる声のように、どの方向からでも、どこまでも連なりながら、恐るべき精妙さで脳の奥底に入り込んでくるのだ。

「彼はメサイアコンプレックスに違いない」

「なんですか、それは?」

 聞き返す女の声は、これもある意味で奇妙だと言えた。女の方だけは、全くもって異常性がなく、一点から発される指向性を持ち、自分の左隣の上方から聞こえてくるのだと、容易に判断することができた。

 それら二つの声が混ざり合う空間とはいかなるものなのか。暗闇のせいで判然としないが、それは恐るべき忌まわしい想像力をかきたてられるものだった。そして、その恐怖を解消する術がないうちに、男の方がやはり奇怪に反響する声で答える。

「救世主妄想とも呼ばれる感情複合、簡単に言えば、誰かを助けることで自己満足を得るということだ。軽いものであれば、そう珍しくもない心理だと言える。そうした心理を否定する者にすら備わる、ある意味では人間的な活動に必要不可欠ですらあるだろう。しかし彼の場合は少し根深く、またあまりにも実直だ。解決の糸口はわかりやすいが、実際に可能かと言われれば、様々な意味で困難に違いない。幼い分だけ、時間による解決の可能性もあるが、逆に時間によってより深度を増すこともある。環境を考えれば、後者の可能性の方がが大きいだろう。結局のところ私が行うのは、彼自身がその可能性を変動させるための”手助け”だ」

 そうした説明に、女の方が納得したのか否かは判別し辛かった。彼女は曖昧に頷き、言葉の上では納得を見せて、「その手助けが最も重要なんです」と強調した。そしてそのために必要な事柄として、彼女は資料をめくるような紙の音を立てながら、話をすり替えて喋り始めた。

「名前は……失礼、ネームプレートがありましたね。以前に通院されていた、深沢沙織さんの息子さんです。先生は、沙織さんの担当もされていましたよね?」

「彼女の夫にも出会っている。どちらも、他者による自己の正当化を必要としているだけのことだった。現状というより、過去のトラウマについてだろう」

「両親からは酷い扱いを受けていたそうです。全身の怪我で、虐待の疑いが持ち上がったこともあります。その時は喧嘩によるものと判断されましたけどね。そうした家庭環境が影響しているのでは?」

「それについては間違いないだろう。彼を”救う”ことと家庭環境の改善は、同義に近い」

「家庭環境の改善を行うことが、手助けと?」

「そうだとも言えるし、そうでないとも言える。私自身には家庭環境を変えるほどの力はないがね。しかしいずれにせよ、そうした話はそろそろ控えるべきかもしれない。彼は間もなく目を覚ますはずだ」

 その言葉に導かれるように……少年の瞼は、自分の意思を無視していると思えるほどの無意識で開かれた。それも奇妙なほど一瞬で、全くまどろみもないほど、ハッキリと見開かれたのだ。

 目に映ったのは、人知の及ばぬほどおぞましい角度を持った異次元の空間などではなく、一般的な四角い部屋だった。色が赤いと思えたのは、右手側には大きな窓があり、そこから何度も強く意識させられる夕暮れの日差しが入り込んできているためだった。実際には白色なのだろう壁と天井、木目調の床と棚が見える。棚に置かれているのはテレビと電話で、壁にはなんらかの機械めいたアームが取り付けられているようだったが、用途はわからなかった。

 そして首を回して反対を向くと、そこには白衣を着た男女が立っていた。医師と看護婦に違いないと、すぐに判断できる姿である。女の方は丸みを帯びており、男の方は反対に痩せ細っていた。特に、四十代ほどだろうと思える男の色味が薄い肌や突出した頬骨、落ち窪んだ無感情な目、青味掛かった薄い唇を持つ真っ直ぐな口……それら全てが脳内に直接飛び込んできた。特徴的ではあるが、それ以上の意味などないはずの顔が、焼印のように刻み込まれた気がしたのだ。

「大丈夫? 痛いところはない?」

 それに思わずたじろいでいると、女の方が身を屈めて心配そうに話しかけてきた。そこでようやく少年は、自分が病院の個室にいて、ベッドに寝かされているのだと理解した。

「キミ、喧嘩してたでしょ? そこで蹴られたせいで気絶しちゃって、たまたま通りかかった人が喧嘩を止めて、救急車まで呼んでくれたのよ。怪我はそんなに大したものじゃなかったけど、今は安静にして、無理はちゃダメだよ? ご両親にも連絡したから、きっともうすぐ来てくれるはずよ」

 彼女は明らかに安心させようとしてそう言ったに違いない。人の良さそうな微笑みまで浮かべ、頭を撫でることまでしてみせた。

 ただ、少年にとってみればそれは明らかに不愉快なことであったし、身体が軋んで動きにくいのでなければ、振り払っていたことだろう。さらに両親への連絡にも憤ったのは、病院に運び込まれるなどという不幸な姿を知らされてしまったことに他ならず、加えてこの看護婦が、恐らくは連絡からしばらく経っているにも関わらず両親が顔を見せる気配がないために哀れんでいる、ということにも苛立ちを募らせた。

 まして少年は、そもそも両親が来るはずなどないことを知っていた――彼らの息子が不幸であるはずがないし、逆にそうでないのなら、自分が彼らの息子として認められるはずもないのだ。そんなところに、彼らが来るはずもないだろう。

 少なくとも過去、もっと幼い頃のこと。初めて両親の陰口を耳にして落胆しながら帰宅した時、母はその顔を見て「あんたが不幸を気取れる立場にあると思ってるわけ!?」と激昂したことがあった。

 だからこそ即座に、病院を抜け出さなければならなかった。そうでなければ認められないし、またしても自分が不幸だなどという間違った噂で、両親が悪く言われてしまうに違いない。幸福でなければならず、実際に幸福であるというのに、誤解が広まるのは耐え難いことだ。ましてそれによって、自分が彼らの息子と認めらないのであれば、それもまた耐え難い、孤独だった。

「あ、ダメよ! まだ寝ていないと!」

 包帯が巻かれているらしく、軋むのに加えて異常に動きづらい身体をベッドから抜け出させようとすると、女が慌てて止めに入った。まだほんの少しベッドからずれただけの身体ですら強引に押し戻し、仰向けの上にほとんど拘束衣のように布団を掛け、身動きを取れなくさせてくる。今まで以上に抜け出すことを困難にされ、少年は激しい焦燥と憤懣の中で恨みがましく女の方に首を向けた。

 しかしそこでは、女は既に隣の男へと向き直っていた。

「意識が戻ったのなら、もう一度検査をするべきだ。伊勢崎医師を呼んできてくれ」

「え? ですが……」

「私はその間、少し彼と話をしたいんだ。まだ本格的なものではないが、少しでも早い方がいいだろう」

「……わかりました」

 女は頷くと、足早に病室を出て行った。男はそれをしばし見送り、完全に扉が閉じられたことを確認すると、言葉通り少年と会話したがるように向き直った。

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