第39話

 それから数日の間、松原は奇妙にもほとんど放心状態か、一種の洗脳状態とも言えるほど、多くのことを考えることができなくなっていた。暗闇の寝室で直樹に抱き締められて以後、得体の知れない恐怖や焦りが異常なほど増幅したように思え、常になんらかの緊迫感によるストレスを与えられ続けていたのである。

 それはひょっとすれば、過去の自分に起きた幻覚めいた恐ろしい体験の際に感じたものと同じだったかもしれない。松原は自分の身体が何かに絡め取られ、縛り付けられている感覚を抱いていた。

 唯一そこから解放されている心地になれたのは、他ならぬ直樹の側にいる時だった。彼の部屋へ行き、彼に支えられることによって、松原は辛うじて生き延びていたようなものだろう――そう言えてしまうほどに、直樹へ依存する度合いは増していたのだ。

 松原はそれでも辛うじて、自分を急き立ててくる感情の根源となるものについては、頑として話そうとしなかった。それは自分を守るため、正当化するためであると同時に、直樹に見捨てられることを恐れたために他ならず、どれほど察されていると思えても、口にしない限りは現実のものにならないと思い込みたがっていた。

 加えて、それを完全なものとするために携帯電話の電源を切り、他者からの連絡を困難にさせた。さらにアパートを引き払い、直樹の住むマンションの近くに新たな部屋を借りることもした。彼との同棲を望まなかったのは、それが最後の線を超える行為に他ならないと思ったからである――客観的に見れば既に超えているとしても、松原はそれを自覚しようとはしなかったのだ。

 しかしそうした線引きを曖昧とする混乱や葛藤、さらに精神を蝕む様々な苦痛を伴う感情が渦巻く日々が一週間、さらにはそれ以上も続くと一種の恐慌状態にまで陥り、松原は中毒のように自分を支えてくれるはずの存在、つまりは直樹を求めるようになっていった。

 その頃に、とうとう直樹はとある話を持ちかけたのである。

 やはり直樹の住むマンションの、彼の寝室だった。青黒い夜に包まれた部屋は、以前よりも暗く見える。月が雲に覆われているのだろう。ベッドの上に座る松原を残し、直樹は窓際まで行くと薄い白のカーテンを引き開け、黒い光を僅かに強いものにしながら振り返った。不敵で不気味な顔だった。暗がりで表情も見づらいというのに、ハッキリとわかるほど不穏な気配を湛えていた。そして言ってくるのだ。

「この姿をお前の”元彼”が見たらどうするだろうな」

 直樹はやはり全てを見透かしていたに違いなかった。松原はその言葉が投げかけられた瞬間に戦慄し、息を引きつらせ、声も出せなくなるほど恐怖した。自分が彼に対してついている嘘が致命的な悪行であることは明白で、それを見破られればどうなるか、松原は最悪の想像しか持っていなかった。

 だからこそ松原はすぐにベッドから飛び起きると、直樹のもとに駆け寄った。途中で転び、ほとんど跪く形になりながら、足元にすがりついたのだ。震える喉で「待って!」と叫ぶのが精一杯だった。それも掠れていたが。

 直樹はそんな女の姿を見下ろしながら、しかし侮蔑も軽蔑もなく、余裕ある笑みを湛え続けていた。そして女の頭に手を置くと、口調を極端に優しい、今まで聞いたほどがないほど包み込むようなものに変えて、長い黒髪を撫でながら言うのだ。

「わざわざ見せたりはしないさ。だが相手が見ようとしてきたら……例えば俺たちはいくつかの場所に出かけたが、その時に誰にも見られていないと思うか? 今後も見られないと思うか?」

 松原はその言葉を理解して、そしてそこから考えられるある種の反逆や仕返しを、最悪の方向でもって推測してしまった。加えて言葉の奥には、「自分はそれに巻き込まれるつもりはない」という意思と「そうなったら松原を見捨てて逃れる」という意思が篭っているように思えてならなかった。

 そこに、直樹はさらに声をかけてきた。やはり優しい声音である。催眠のように松原の頭に染み込み、蝕んでいく声音だった。

「それを防ぐ方法は簡単だ。同じことを自分が先にやればいい。自分が被害者になれば、誰もお前を責めやしない――お前はそれで救われるんだ」

 そうして見つめられ、松原はその微笑を湛えた暗闇の双眸に意識ごと吸い込まれるような、恐るべき取り返しのつかない心地を抱きながらも、同時に不可解なほどの安堵感を抱いていた。

 それに抗うことができないのは、例えば冬の早朝に布団から抜け出るのを拒むのと同じだろう。ましてや誰かによって惰眠を許可されたとすれば、どうして拒否できるだろう?

 松原の頭の中にはそうした思いが湧き上がり、やがて埋め尽くされていった。

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