そのに。

 五分の休憩を終え、公園を出た僕と亮君は、早朝の街を駆け抜ける。日が昇れば気温は相応に増して、初夏と言うにはもう遅いと思えるような暑さを感じ始めた。けども感じる暑さの理由は、走っているからなだけで、風はひんやりとしているような気もする。そんな爽やかなランニングだった。

 軽やかな足音が二人分、街を行く。僕は前を走る亮君の背を追うのに必死だけど、彼は決して僕が着いていけないペースでは走っていない。僕が一人で走る時に心掛けるものよりほんの僅かに早いペースを維持するのは、それが僕のトレーニングとして最適なペースだからだそうだ。

 僅かな息苦しさと、確かな暑さ。僕の足は止まる気配こそ無いけども、呼吸が荒れてくるにつれて胸の鼓動も激しくなってくる。徐々に辛いと感じ始めるけど、前を走る彼が時折振り返って来る顔付きは涼しげで、負けていられないと活力が溢れてくる。

 亮君は僕と出会うより早くから、このような早朝のランニングをやっていたらしい。強い強いと噂だっていた空手の腕前は確かで、全国大会にも出た事があるそうだ。その為のトレーニングは幼少の頃から欠かさずやっていて、試合こそつい三ヶ月前に起こした傷害事件の所為で自粛中らしいけど、トレーニングと稽古はずっと続けていたんだとか。だからまあ、僕よりもずっと体力があって、僕の面倒を見る余裕もあるようだ。

 距離としては近いのに、延々と追い付けない彼の背中は、正しくそれを物語っていた。


「よお。そろそろ定位置だけどどうする?」


 十数分ハイスピードで走り、亮君は肩越しに振り返って来る。

 定位置とは休憩の事。常々無理をするなとは言われているし、ランニングと言うよりはマラソンになっている現状は、確かに辛い。だけど僕は首を横に振った。


「おっ。今日は気合い入ってんな」


 僕は振り返って来ている彼へ、苦しいながらも笑顔を浮かべて応えて見せた。


――この三ヶ月で、僕はキミを随分と信用してるからね。亮君が暗に『行けるか?』と問うのなら、それは僕でも行けるって思ってくれている証じゃないか。


 決して口に出してそう溢す程の余裕は無い。息は苦しいし、胸や脇腹には痛みを覚えている。一人で走る時は絶対にハイペースにするなと言われているし、これがある程度、荒療治的な走り方なのも身をもって分かっている。だけどそんな事はどうでもいい。別に意地になって亮君に追い付きたいとかは考えちゃいないけど、僕は彼の期待に応えられる限りは応える義務があると思っている。

 だってそうでしょ? 僕が亮君の立場なら、例え日課でも他人のペースに合わせるのなんて退屈だもの。それを笑顔でやってくれる彼には、全身全霊で応えていきたい。そう思うんだ。

 前へ向き直って、ならば定位置をひとつ飛ばそうと提案する亮君に、僕は苦しい呼吸の隙間でうんと声を出して返した。

 一定時間のマラソンを経て、一〇分間の休憩。そして今度はスローペースなランニングを経て、休憩。マラソン。休憩。ランニング。休憩。それらを繰り返す内に、僕達は最寄り駅の地域をぐるりと一周していた。やがて落ち合わせた公園に辿り着き、僕は汗だくになりながら荒い息を整えていく。横でスポーツドリンクを購入する亮君は、やはり涼しげな顔をしていた。


「いや、大分マシになったとは思うぞ? 始めは一キロもマトモに走れなかったのが、三ヶ月でよくここまで走れるようになったと思う」


 亮君はそう言って、キョトンとした顔付きで僕を労う。おそらく言っている事は本音だろう。だけど改めてこうして並んでみれば、僕の体力はまだ凡人に毛が生えた程度だと思えるのだ。僕は首を横に振って、呼吸の切れ目で言葉を返す。


「ううん。まだ、まだ、亮君のペース……遠いよ……」


 別にスポーツマンを目指している訳じゃない。あくまでもダイエットの一環だ。それは心得ているし、無理に亮君の無尽蔵な体力に合わせる必要性は薄い。そうは思うものの、毎朝こうして肩を並べて走っていれば、何時までも彼にペースを合わせて貰っているのは、何となく悔しくもあるのだ。ほんと、何となく……だけどね。

 するとそんな僕の心意気を買ったのか、その後本当に今日からトレーニングメニューを一割増しにするよう言われた。鬼だ。鬼教官だ。誰だよ彼に増やして良いって言った奴。

 溜め息混じりにポケットからスマートフォンを取り出せば、時刻は六時になろうかと言う頃合い。そろそろ帰らないと学校に遅刻してしまう。身体が落ち着きを見せれば、「じゃあまた後で」と言い合って別れ、僕は公園を後にして走り出す。再びイヤホンをつけ、大きな音量でアップテンポな音楽を聞きながら、随分と温まった身体で、行きしなより速いペースで駆けていく。

 流れ行く景色の内、視界の端にチラリと見えた透き通った女の子の影。不意にそんなものが見えれば、僕の胸の鼓動が少しばかり強くなる。自然と進める歩幅が広くなり、駆けるペースもほんの少しだけ上がった。

 朝らしい爽やかな印象を抱かせる風を肌で感じながら、僕は微笑みを浮かべて走っていく。汗でびしょ濡れになったジャージも、蒸れて気持ちが悪い靴の中も、今ばかりは何とも思わない。身体に宿る倦怠感や痛みだって何のその。家に帰ってシャワーと朝食を済ませば学校だ。


――深月さんに会える。


 そう思うだけで僕の胸は高鳴って、ランニングに悲鳴をあげる鼓動は、少しだけ優しげな音に変わっていくんだ。


 早朝のハードメニューを終え、帰宅。二階建てで、広いか狭いかで言われれば広い方だけど、庭や屋上なんて洒落たものは無い家に辿り着く。母さんの趣味でヨーロッパ風のアシンメトリー調だし、柵越しに外から丸見えな車庫には父さんのクラウンが映えているのに、その実洒落っ気は外観だけというなんだか惜しい我が家。

 僕は息を整えながら門扉を抜け、木製の扉を開いた。

 生活感が暴力的に洒落っ気を抑え込んだような雰囲気が、僕を迎えてくれる。


「ただいまー」


 扉を閉める後ろ手を目視しながら、様式美宜しくそう溢した。

 すると、思ってもいない所から返事が来た。


「あ、兄ちゃん。おかえり」


 起き抜けで――というよりは、相手が僕だから、普段より幾らかトーンの低い声。少しばかり高い位置から落ちてきたらしい声に向き直れば、亜弥が正に今起きたといわんばかりな姿で、玄関脇の階段を降りてきていた。

 腰までの長い黒髪は、まだ梳かれてすらいなくてボサボサに寝癖っている。アニマル柄の黄色いパジャマだってはだけていて、ズボンが白い下着をチラ見せするぐらいにまでずり下がっていた。手には制服がしっかりと抱えられていて、おそらく下着はそれにくるまれて見せないようにしてあるのだけど、妹のその姿は随分とずぼらな性格を如実にょじつに語っていると言えるだろう。


「おはよう。服、はだけてるぞ」


 とりあえずそんな妹の朝のだらしない無惨な姿に、僕は挨拶ついでに苦言を呈す。すると亜弥は「んー?」と疑問符を思わせるような声を漏らしてから足を止め、自分の姿を見直した。

 ゆっくりとした動作でズボンを上げて、次いで僕に向けてくる顔は、どこかげんなりした風だった。


「家でくらい別にだらけてて良いじゃん?」

「母さんに叱られて良いならスルーするけど?」

「それはめんどい」


 そう溢して、階段を降りきってくる亜弥。その姿を視線で追っていれば、何してんの? と言う風に、怪訝な表情を向けられる。


「ん。ああ、ごめん」


 亜弥の『早く入れよ』と言う視線に気が付いて、僕は慌てて靴を脱いだ。そしてリビングへ消えていく彼女の背中を見ながら、首を傾げるのだ。

 僕から注意しておいてなんだけども、以前なら『何見てんの。気持ち悪い!』なんて返して来ていただろうに。

 と、思う訳だ。最近よく予想外の反応が帰ってきて、少しばかり呆気に取られる事がある。今だって正しくそれだった。

 まあ、オタクが気持ち悪いって言うのは前と変わらないらしいけど、デブを何とかしようとし始めてから、少しだけ見直されたって事かもしれない。相変わらず口振りは生意気で、反応は腹立たしいくらいに高圧的なんだけどね。


「ただいま。シャワー浴びてくる」


 リビングに一度顔を出してから、二階の自室へ。着替えを取ってから一階の廊下へ戻り、リビングとは別の入り口から洗面所へ。

 我が家は洗面所ここが脱衣所だ。お風呂場と併設している白い壁紙で囲われたこの四角の空間には、洗面所の他に洗濯機だってある。ついでにバスタオルやハンドタオルが入っている棚もここにあるのだから、家族が毎朝身嗜みを整える場所でもある訳だ。

 まあつまり、さっさと風呂に入ってしまわないと、寝惚けたままの亜弥が洗顔や着替えの為に乱入してくるという事。乱入自体は家族だし何とも思わないけど、僕が服を脱いでいる時に思春期真っ只中な彼女が入ってくれば、それはただの『乱入』ではなく、『乱入バトル』に発展する事を意味する。『キャー。何見せてんのよこのヘンターイ』と、色々突っ込みたい事を見事すぎる棒読みで述べながら、蹴りのひとつでもかましてくるだろう。でも僕が妹に手をあげるのは良くないし、そうなればボコられるだけボコられて終いだ。そんなの嬉しくない。僕はドエムでなければ、妹萌えでもない。

 さっさと風呂に入ってしまおう。

 僕は急いでジャージを脱ぎ、洗面所の端っこを陣取っている洗濯機に放り込む。着替えはその投入口の蓋を閉めた上に置き、更に洗面所の脇に立っている棚からバスタオルを一枚取って、それに被せておく。ここまですれば亜弥が不意に見ても『何で朝っぱらから兄ちゃんの汚いパンツ見なくちゃいけないの。サイッテー』等とは罵られないだろう。これで第二のバトルもとい、一方的な暴力のフラグも完全にへし折れた。我ながらバッチリだ。

 確認するなり僕は廊下の方からリビングの引き戸が開く音を聞く。ヤバいと思いつつさっさと風呂場に入り、後ろ手に扉を閉めた。

 ガチャリ。

 洗面所の扉が開く音を聞きながら、間に合ったとホッと胸を撫で下ろす。思春期の妹の扱いとは、本当に大変なものだ。そう思いながら、僕はシャワーのコックを捻った。

 流れる湯でさっさと身体を流す。髪を洗い、身体を洗い、髭を剃り、それらが済めばシャワーを止める。この間、一〇分はあったけど、後ろを振り向けば、曇り加工された引き戸の向こうにはまだ人影があった。


「亜弥ー。そろそろ上がりたいんだけどー」


 そう溢す。


『まだ待って。髪が上手く纏まんないの』


 そう返ってきた。

 仕方ないと思い、亜弥に断りを入れてから、扉を少しだけ開く。言葉通り彼女は制服に着替えが済んだ姿ながらも、いつものポニーテールはまだ出来上がっていない様子だった。洗面台の上に備えられた鏡へ顔を寄せて四苦八苦している。成る丈早くして欲しい旨だけ伝え、僕はバスタオルを取り上げて、下着を隠すように白いTシャツの下に置き直す。バスタオルを風呂場に引き込んで、扉を閉めた。

 はあ。ほんと、面倒臭い。

 溜め息混じりになりつつ、風呂場の中でささっと身体を拭く。その頃には漸く髪を整え終えた亜弥が洗面所から立ち去って行った。その際、僕に掛ける言葉は無いようで。

 ごめんだの、もう終わったよだの、一声ぐらい掛けろよなんて思いつつ、僕は扉を開く。思春期がどうのと言うより、兎に角面倒臭くてかなわない。大体、亜弥のそれは、咄嗟の事に対する抵抗というより、『嫌悪感を抱かせたから処す』と言わんばかりのただの暴力だ。結果、態度は少し柔らかくなったとは思えても、やっぱりあんまり好きになれない奴なのだ。そんな風に思うのは、僕の心が狭いのだろうか?

 まあ、そんな事より……。

 僕は亜弥の事を忘れろと、自らの頬を張る。ぺしぺしと、実に軽快な音が二度鳴った。そして次によしと自ら溢して、洗濯機の横に立て置かれたものを取り上げる。眼前まで持ち上げれば、ごくりと喉を鳴らしてから足許に置いた。

 可動式の目盛りを睨む、針が印字された小窓。それを四角い装いの上部に備え、でかでかと足の型がペイントされている物体。


――我が宿敵『体重計ハートブレイカー』だ。


 今までこいつが示す数値に、何度心を折られそうになったか分からない。あまりに減らない数値に、何度泣かされたか分からない。しかしその理由を知った時、僕はこいつの事を無能だと思う事にした。それでも尚計るのは、ある種のダイエット戦士にかせられた矜持きょうじだろう。

 おそるおそる足を乗せる。ぐりんっと回転する目盛りに怯えながら、もう一本の足をゆっくりと乗せ――。


八二82kg』

「ふぁっ!!」


 とりあえず驚いておいた。

 あまりショックではないけど、毎朝の恒例行事だ。やらなければならない。

 理由は明白。

 『筋肉』は『脂肪』より重い。

 よってぽっちゃり体型になったぐらいじゃあ、さして数値に変わり映えがする訳がない。

 以上だ。

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