INTRODUCTION 3
走る
身体が訴える喉の渇きを抑え込みながら、ジンは夜の
そう、先ほどから喉が渇いている。学舎から逃れてこっち、喉を掻きむしりたくなる渇きが襲いかかっているのだ。
「はあ、はあ…………」
公園を見つけ、備えつけの水飲み場で溺れるように喉を潤す。呼吸もそこそこに飲み続けたのが悪かった。
「げほっげほっ、ぅえっほ! げふっ! ぜえぜえ」
息苦しさと無理な嚥下の代償に、むせ返る。しばし呼吸困難の苦しみを味わうと、水道水と唾液に濡れた口元を袖で拭う。
「はぁはぁ。それにしても――静かすぎやしないか?」
恐怖の源泉から逃れて、人心地もつけば、辺りに立ち込める静寂に気が向くのは自然の流れだろう。余りに不自然に過ぎる静寂なのだ。
「やっぱり、あれが原因か」
公園の中央に設けられた時計に目を向ける。先ほど逃げ出した教室の時計と同じように、通常の実に一二倍もの速度で以って逆しまに回る時計針は、あの時計が異常であったわけでも夢幻や錯覚でもなかった証拠だ。この不可解な現象が起こった瞬間、世界から音が失せたのだ。あたかも、逆時計が
「そんなわけ、ないよな」
きっと、夜が更けたから人通りが少なくなっただけだ。指定都市とはいえベッドタウンなのだ。深夜においてもひっきりなしに人通りが絶えないような、大都市ではないのだ。だからだ。
そう自分に言い聞かせて、ジンは駅前へと向かった。
だが。
もはや逆効果にしかなっていないであろう、通行の邪魔になる位置にまで出された看板をつんのめながら押しのけ、ジンは北口駅周辺まで辿り着いた。
「嘘だろ……?」
思わず口をついたつぶやきは、他に夜気を震わせるものが無いため、自分の思っていた以上に鼓膜を刺激した。
しかし、それもジンが目撃したものを鑑みれば無理からぬことかな。
なにせ、彼の視界には人々が力なく倒れ伏している姿だったのだ。確かに途中の路上で一人二人眠りこけているものはいたが、どうせ酔っぱらいの類だろうと捨て置いていた。だが、一人や二人では酔漢が場所もわきまえず寝ているのだろうと決めつけられるが、眼にした人全員が倒れているという状況は異常怪奇に過ぎる。
怪異なる
不可思議極まる光景に半ば萎えかけた膝を、生存本能が内圧をかけて奮い立たせる。そう。依然として、彼を付け狙う猟師のちらつく瘴気は消えていないのだ。
――いるッ! 近くに迫っている!
学舎よりこっち、姿を見せなくなった追跡者だったが、追われる者特有の被害妄想じみた鋭敏な感触が彼らがすぐ側に在る追跡者の愉悦の臭いを感じ取った。
「うっ、うわぁあああ!」
そうとなると、もはや、目的地を定めて逃げ出すことなどできない。がむしゃらに、駅北側昇降口の手前に位置する、北口公園へと駆け出す。私鉄駅前、それも舗装された歩行者用道路も兼ねていることもあって、零時を越えても人通りは絶えない公園が今は閑散とした暗鬱に身を任せている。
終電を逃した客を捕まえようと、公園を回るロータリー構造の道路を回遊していたであろうタクシーも、アイドリングしたまま停車している。中の運転手は揃いも揃ってハンドルに頭をうずめる恰好で寝入っている。
公園も先ほどと同じく、黒死病に街が屍体で溢れたとされる中世ヨーロッパを想起させる有り様だ。魂魄は肉体に留まったままとはいえ、まさに死んだように眠っている。
「おい! 起きて下さい! ねえ! 起きろって!」
適当な人間を揺り動かして起こそうとするも、筋肉の張力を喪った身体は
それならば、せめて車を奪って逃走――とも考えたのだが、ジンは当然ながら自動車の運転などしたことがない。せいぜいゲームセンターでレースゲームをやった、昔に遊園地でゴーカートに乗った、この程度でしかなかった。
そもそもにおいて、生態情報と脳内チップによる
昇降口に足を踏み入れる。エスカレーターの静かな音だけが夜気をかき乱している他は、動くものは皆無だ。居酒屋の客引きも、仕事帰りのサラリーマンも、まだまだ酸いも甘いも噛み分けていない大学生らしい若者も、総てが地面の堅さを身をもって確かめている。
物音を立てぬよう、そろそろとエスカレーター横の階段を昇り、改札口へと向かう。
「!」
階段を昇りきると突如視界の端をよぎった黒い人影に、反射的にエスカレーターと階段を隔てる腰壁の影に隠れる。
薄いが確実に人が『在る』気配。尤も、ヒト型であって『ヒトでは無い』何者か、である可能性の方が高いが。
「はあはあはあ…………」
思考が拒否する反動で呼吸が荒い。身体も拒絶しようと抵抗を見せる。だが、本能は自らの危機をはっきりと縁取り明白にしようと、腰壁から不吉な陰を覗き見る。
はたせるかな、影の正体はジンを追い詰めている三人ではない、しかし同じく
追跡者と同様の、血の失せた青白い顔色が黒衣から浮かび上がって見える。
逆さに撫で上げられた黒い髪から一房落ちたくせ毛が艶かしい、端正な顔立ちには血色に灯る眼光が宿っていた。
彼は倒れた女性を抱きかかえ、その首筋を注視している。堅く瞼を閉じている彼女も多分に漏れず、意識を失っているのは明白だ。血色の瞳が見つめる先……あのすらりとか細い首筋の血管を流れる暖かく甘く濃厚な――。
――…………待て。今、俺は何を考えていた?
ふと頭によぎった感情。否、欲情と言うべきか。じわりじわりと心中から湧いてくる
遮蔽物の陰でうずくまり、理性で衝動に蓋をしながらも女性の首筋から目が離せない。
眼前では、笑うように口を開いた男が女性の首筋へ喰らいつこうとしていた。彼の口からずるりと覗いた剣歯が先ほどよりも長く、滴る唾液で駅構内に灯る蛍光灯の光をてらてらと照り返している。
そして、剣歯は針の鋭さで女の首の血管へ正確に打ち込まれた。
びくびくと痙攣する女性を、しかと抱きしめて首筋に顔をうずめる男は、ともすれば求愛の抱きしめに見えるかもしれない。だが、これは捕食だ。例えるなら、巣にかかった獲物を捕食する蜘蛛のそれ。獲物を長い尾で締め付けて丸呑みにする蛇のそれだ。
あの、首筋を伝う一筋の血の雫の、鮮烈なルージュの色のなんと美しい事か。経験はないが、それでも
喉が
二本の牙歯が焦燥に似た衝動に疼く感覚に抗い、ジンの眼前で黒衣の男が女性の首から顔を上げた。毛細管現象で口唇の皺に入り込んだ赤血が、ルージュを引いたように男を彩っていた。青白い顔色もあいまって、氷原に咲いた真っ赤な薔薇を思わせる。
そして――。
不意に背後に感じる、薄いが確実に人がいる気配。尤も、ヒト型であってヒトでは無い何者か、である可能性の方が高いが。
「はあはあはあ…………」
思考が拒否する反動で呼吸が荒い。身体も拒絶しようと抵抗を見せる。だが、本能は自らの危機をはっきりと縁取って明白にしようと、首を巡らせる。
「――――――ッ」
背後の階段下、北口公園の街灯が差し込み、眠る人々を優しく照らしている。何者も、いない。
「いない……。気のせいか」
明々白々となった事実を自分に言い聞かせながら、ジンは無意識に顎を伝っていた汗を拭う。
しかし、彼は思い当たらなかった。
恐怖とは、それから逃れたと認識した無防備な、脆い瞬間が最も香り立つのだ。それを狩人は知っている。本能的に理解している。最大の恐怖に味付けられた獲物こそ至高の味わいだという事実に。
到底ヒトには到達できぬ領域の膂力は、昇降口の天井に蜘蛛めいた恰好ではりつき、己の存在に気づかぬ哀れな血袋をそっと見つめている。長い剣歯から滴った唾液が、重力に抵抗するように糸を引きつつ床面へと落下する。
ひたり。蜘蛛の糸じみた唾液が地に堕ちた刹那、狩猟者は己に宿る猛獣性を解放させた。ケモノは戒めより解き放たれた
「……ッ」
頭上からの気配に見上げる形となったジンの視界に、鋭い剣歯が閃いた。
理性が希釈されていたからなのか、己に牙歯を突き立てられるまでの僅かな間、ジンは反射的に階段の踏面を蹴った。はたして、ジンは階段のほぼ頂上から落下したが、宙空より猛禽の勢いで強襲した怪物の呀から逃れることに成功した。
階段から転がり落ちる獲物を血色に染まった瞳が追いかける。
打ち身の痛みに呻きながらも、ジンは落下の勢いをそのままに階下の昇降口へと転がった。立ち上がり、再び逃走劇が始ま――ることはなかった。
ちょうど北口公園の真ん中辺りに差しかかった頃、公園の向こうから二つの影が見えた。一つは長身、一つは短身。背後から、階段を一段一段丁寧に降りる
「あ……あ、ああっ」
ジンの口からこぼれ落ちた声はなんら意味を成さずに、静寂に沈んだ夜をごくささやかに震わせた。
がちがちがちがちがちがちがち、がちがちがちがちがちがちがちがち。
青白い顔をした短身の追跡者が鳴らす門歯の律動が聞こえる。
一歩一歩確実に迫る死の絶望に、身体を動かすという、普段から当然であったであろう行為が今は遠い過去のように感じる。実際、ジンは自身の心からにじみ溢れだす畏怖に、その身を縛鎖されていた。
ふわり。
視界の隅に白いものがちらついた。正体は、くるりくるりと回る白い傘だ。誰もが眠りの病に冒された尋常ならざる街で動くものがあるとするならば、追跡者と同じ怪物か理外の人外に他ならぬだろう。
そして、ジンが白い傘で思いつく人物など一人しかいない。
不自然なほど均整の取れた美形の少女の紅に染まった瞳は、狼狽を見せるジンに固定されている。
「恐れないで、ジン。あなたは、ただ血を吸われるだけの食料じゃない。この閉じた世界を壊す、明けを告げる鳥なのだから」
りんと鳴る鈴の音にも似た彼女の声は、染み渡るようにジンの精神を落ち着かせた。
そして――。
「起きなさい、ゼクスヴァン」
彼女が、姿の見えぬ従者に命じたのを契機に、夜景が
色は星のない夜空の黒。形は立てられた
――モノリス。
その姿に、ジンは有名な映画の最初のシーン――ヒトザルが道具を扱い、人間に進化したきっかけを与えた巨石を想起させられた。
「ゼクスヴァン、
美琴の声に応えたのか、柩の正面上部に血を思わせる色で『XEXVAM』の文字が現れると、側面に光の描線が赤く走り、音もなく蓋が開かれる。
音がなかったのにも関わらず、何故かジンの耳はぎぎぎ……と軋んだ幻聴を捉えた。それは、ジンの記憶の残滓が見せた、条件反射であったのだろうか。あたかも、屍者が眠っているはずの柩が自ら開かれる時には、かくいったものであろうという――。
はたして、紅色の
おお、見よ!
超常の存在、常夜を総べる十三の闇の王、
「ゼクスヴァン!」
三人の亡霊の一人が叫ぶ。
ゼクスヴァン――その名が呼び水となったのか、刃金の屍人は胸に突き刺さった
人で例えるならちょうど心臓に突き立てられた銀杙を、金属同士が擦れ合う喘ぎと共に抜き放てば、銀杙に穿たれていた胸部から血管を思わせる鋼線が覗いた。それらは意志をもっているかのようにジンへと殺到した。紅い蔦となった鋼線が手足に絡みつき、胸にぽっかり開いた空虚へとジンごと戻っていく。
「!」
驚愕の声を漏らす間もない、
柩の蓋が閉ざされ、世界が眼前の丸窓に限定される。
「
続けざま、鋭い痛みが首の頚動脈辺りに存在を訴えかけてきた。同時に、
「これは……?」
思わず、
装甲は羽毛型の
一歩前に出る。脳が命じた、身体動作の指令はゼクスヴァンに正しく伝わり、機械の半人半鴉となったジンは窮屈な柩から開放された。
「ゼクスヴァン……」
凍った雑踏のさなかで白い傘を回す少女は謳う。か細い声はゼクスヴァンの産声でかき消されてしまうはずが、不思議とゼクスヴァン/ジンの受音機/鼓膜を震わせた。
「あなたは世界の救世主。あなたは暁を告げる霊鳥。灰は灰に、塵は塵に。眠らぬ亡者に鎮魂の唄を。墓の亡者を狩る、黒い銀杙。宵闇を照らす、新世界の
「お、おのれ……」
三人の内、駅昇降口から出てきた黒い亡霊――天井に蜘蛛の如く貼りついていた男だ――が、歯ぎしりと共に片手を振り上げる。
同時、それをみとめた残り二人が、
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