十一話 娘の想い

 食器棚に背を預けたまま、実加子さんは身動きしない。華子からぶつけられた言葉にたじろいでいる。


「私? 私のせいだっていうの?」

「そうでしょ! いっつもいっつも、私に酷いことして! そのせいで、私はあんな男にすがろうとしてしまったんじゃない!」

「いや……いつものあれは……母娘のコミュニケーションじゃん。あんただってやり返してくるし……」

「あんなのイヤなの! 私、毎回不安になる! お母さんはホントに私のことを愛してくれてるの? って!」


 実加子さんが顔を強ばらす。

 まったく思いも寄らないことを言われた。そういう表情に見える。


「なに言ってんの? いつものあれが……愛情表現でしょ?」

「お母さんはそういうつもりなんだろうけど、私はイヤなのっ!」


 いつの間にか華子は泣いていた。きつくきつく母親を見つめながら、涙を流し続ける。


「……イヤってなに? まさか……私を……母親を、拒絶するっていうの?」

「ただ拒めたら! ただ嫌えたら! どんなに楽かって思ってる! 若い男と結婚する? ふーん、好きにすれば? どうせすぐに裏切られるでしょうけどね。そう思えたらどんなに楽か!」

「……え、どういうこと?」


 実加子さんは顔を引きつらせている。元々は整った目鼻立ちのはずなのに、今では酷く歪んでしまっていた。

 華子が荒々しくテーブルを回り込む。食器棚に貼り付いている実加子さんの胸倉を両手で掴んだ。

 背は華子の方がずっと高い。華子は持ち上げるようにして母親を自分の手元に引き寄せる。


「心配してるのっ! お母さんは酷い奴だけど、それでも私は心配してるのっ! また男に裏切られるんじゃないかって! また傷付くんじゃないかって!」

「心配……? へっ、あんたなんかに心配されなくても……」

「なんでそうなの、お母さんって! 私、こんなに言ってるのに! 恥も意地も捨てて言ってるのに! なんで受け取ってくれないのっ!」


 娘は泣きながら何度も母親を揺さぶる。痛々しいまでに正面から自分の想いを伝えようとしていた。

 実加子さんは目に見えて動揺している。

 でも口にするのは――


「……う、受け取るってなにさ? あんたなんかの言うことなんて……いちいち聞いてらんないよ……」

「だから、なんでそうなのっ! お母さんは私の母親でしょ? 私はお母さんの子供でしょ? 一回くらいっ! ちょっとの間くらいっ! なんでっ!」


 華子はついに揺さぶるのをやめる。歯を食いしばり、苦しそうに泣いていた。

 ……実加子さんはだいぶん弱っているように見える。それでもまだ、華子の言うことをまともに聞こうとしない。

 なんであの母親は娘の想いを受け止めてくれないんだ? 華子はあんなにも頑張って胸の内をさらけ出してるのに。

 俺はもう我慢できなかった。

 自分の中にあるムカムカをどうしても吐き出したい。

 立って母娘の側まで行く。そして目の前にいる分からず屋のババァに言った。


「俺って童貞なんです、実加子さん」

「それは見てすぐ分かった……え、なに?」

「童貞が女子を評価する時は、なによりも見た目を重視するんですよ。性格が酷くても、見た目が美少女なら躊躇ちゅうちょなく妄想の餌食にするんです」

「……う、うん?」


 実加子さんは怪訝な顔をしている。俺は構わず話を進めた。


「実加子さんは華子の母親だけあって、すごく顔立ちが整ってます。若々しくって兄貴と並んでいても全く違和感がありません。客観的に見て、実加子さんはとても美人だと思います」

「それは、どうも……?」


 俺はムカムカのままに続ける。


「でも、娘をこんなふうに泣かす実加子さんは、童貞の俺ですらちっとも魅力を感じないんですよね」

「ほう、魅力を、感じない……?」


 実加子さんの視線が一気に氷点下を下回った。それでも俺は思ったままを言う。


「ええ、正直、萎えます」


 実加子さんはなにも言い返してこなかった。

 華子に胸倉を掴まれたまま、じーっと俺を見つめ続ける。

 ……俺、なんてことを口走った? 今になってじわじわと恐怖が胸の中に広がっていく。

 い、いや……俺は思ったことを言っただけ。後悔なんてしてはいけない。

 ……けど、マズい。

 実加子さんがボソリと言う。


「童貞ごときに、面と向かって『萎える』なんて言われるとはね」


 マズい? マジギレされた?

 死ぬ? 俺、死ぬの?


「いやその……なんというか……」

「あんたさ、空気読みなよ。こちとら必死こいて正面のストレートをかわしてるのに、後ろからいきなり膝かっくんはないでしょ?」

「膝かっくん?」


 首を傾げる俺に向かって実加子さんがまくし立てる。


「あのね、私はすっごいモテるの。幼稚園の頃から今日までずっと、ひたすらモテ続けてる。仕事でいろんなオフィスを回ってるけど、今でも口説かれるなんてしょっちゅうなんだよ。そんな私に向かって、『萎える』だって?」


 ここまで話を聞いた俺は思ったままを言った。


「モテた数を自慢してるんですか? なんか、安いビッチみたいですね?」

「安いビッチ!」


 実加子さんの視線が極北みたいに冷たくなる。し、しまった、なんとか弁解して生き延びねば。


「い、いえ……別に実加子さんが安いビッチとは思ってませんから。確かに目に染みてくるくらい香水臭いですけど……」

「香水臭い!」


 え? え? また実加子さんの機嫌が悪くなった?

 なんでだかさっぱり分からない。


「いや……あの……俺の考えがうまく伝わってないような……気が?」

「ほう、快人君の考え? 言ってみなよ」


 よかった、言うチャンスを与えてくれた。

 いつも俺は率直な童貞らしくよけいなことを言って相手を怒らせる。ちゃんと言いたいことだけシンプルに伝えるべきなんだ。

 大きく息を吸ってから俺は心からの本心を告げる。


「今の実加子さんは見てるだけで萎えるんです! とにかく萎えるんです! どうしようもなく萎えるんです! なんでかって……」

「分かった、分かったから!」


 実加子さんが不機嫌そうに俺の言葉を遮った。

 華子の手を掴んで襟から離させる。


「お母さん?」


 華子が不安げに様子をうかがう。

 実加子さんがそんな娘をしっかりと見た。華子も見つめ返す。

 二人とも、敵に向けるような厳しい視線ではない。目を逸らさずにただ見つめ合う。

 やがて母親が口を開いた。


「私は自分が悪いとはこれっぽっちも思ってない」


 華子は悲しそうな顔で母を見つめる。実加子さんが続けて言う。


「でも、これ以上そこの童貞にムカつくことを言われるのは勘弁だ。『萎える』だって? 人がフラフラになってる時になんてこと言いやがる」

「いや……その……」


 俺が言い訳しようとすると実加子さんは手を向けて遮ってきた。

 ヤバい、まだキレてる。俺の命はここで終わり?

 華子が静かな声で実加子さんに語る。


「あいつは思ってることをそのまま言うの。ホントのことを暴き立ててくるのよ」

「ホントなもんか。とにかくそこのムカつく童貞を黙らせな。華子の話は聞いてやるからさ」

「うん……」


 華子がほっとしたような笑顔を見せた。そして俺に向かって言う。


「快人、あんたはもう帰れ」


 ええ? そんな言い方?

 実加子さんがふらふらとキッチンへ行く。途中でくるりと振り返った。


「アイスコーヒーでいい?」


 すぐに華子が答える。


「オレンジ」

「いちいち手間かけさせるよね」


 ぶつくさ言いながらも、アイスコーヒーとオレンジジュースを持ってくる。

 華子と実加子さんが元の席に収まった。もう二人とも俺の方を見ようともしない。


「じゃあ、華子のターンからな。こうなりゃなんでもこい」

「私の鬱憤うっぷんはとんでもないから覚悟してよね?」


 そして俺は見送りなしで実加子さんの家を出た。

 あれ? 俺の扱い?

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