十話 機嫌を損ねる

 翌朝。

 学校の最寄り駅にたどり着いた俺は大きなあくびをする。

 あんまり眠れていない。

 あのタチの悪い母娘の問題に夜通し頭を悩ませていた?

 いいや。

 昨夜の俺は、それ以上に深刻な問題に直面していた。

 ……俺って、自分で思ってたよりすごい奴だよ。

 いきなり後ろから肩を叩かれる。


「おはよ、快人。眠そうね」


 俺の横に並んだのは華子。にこにこと笑いかけてくる。

 昨夜の勝利のご褒美だと俺は思った。

 今日の華子はおさげを一本後ろに垂らしている。頭の上の方から編み込んでいて、地味な印象は受けない。

 とにかく朝のあいさつだ。


「おはよう、華子。今日は一段と美しく見えるよ」

「またそういうこと真顔で言うでしょ? そう簡単には口説かれてあげないから」


 つれないセリフだけど、首を傾げて笑顔だったり。

 やっぱ俺に惚れてるでしょ、この子。

 そうだ、ちょうどいい。昼休みに渡そうと思ってたんだけど……。

 カバンの中をがさごそして大事な紙袋を引っ張り出す。

 それを華子に差し出した。


「はいこれ」

「ん? プレゼント? 童貞のくせになに頑張っちゃってるのよ」


 うれしそうな顔で受け取る華子。そんな喜ぶようなものではないんだけど。


「見ていい?」

「うん、一応確認してよ」


 華子が紙袋の口を開けて中をのぞき込む。


「……ん? え? これって?」

「大丈夫、一回も使わなかったから」


 昨夜の自分を褒めてあげたい。


「え? いやいやいや」


 華子が慌てたみたいに紙袋の中に手を突っ込んだ。そして中のものを引っ張り出す。


「おいおい、こんなとこで出すなよ」


 周りには同じ学校の奴らが大勢いるのに。


「ええ? やっぱりそうよね? これ、私のよね?」


 華子は驚いた顔で自分が掴んでいる赤い布を見つめる。


「大丈夫、一回も使わなかったから」

「この……」


 華子が自分のブラとパンツを紙袋の中に叩き込む。

 そして空いた右手を思いっきり振りかぶった。


「ドヘンタイがっ!」


 華子、必殺のビンタ。


「へびゅうっ!」


 半回転して地面にぶっ倒れる俺。


「なんであんたがこんなの持ってんのよ!」

「だ、大丈夫……一回も使わなかったから……」

「そんなの関係ないわよ!」


 華子がサッカーボールを蹴るみたいにして俺の腹を蹴飛ばす。


「げひゅうっ!」


 ええ?

 俺、すごい葛藤の末、結局一回も使わなかったんだよ?


「言いなさいっ! どうやって手に入れた!」


 華子の両目には烈火が宿っていた。

 正直な童貞たる俺は地面に寝転がったまま言う。


「実加子さんが……実加子さんがくれたんだよ……でも俺、一回も……」

「母? 母に会ったの?」


 華子が毒矢で射るみたいな視線を向けてくる。

 こんな有様なのに勃起だけはしっかりする俺。


「う、うん……俺、華子らの仲を取り持とうって……そう思って……」

「勝手に会ったのね?」


 毒矢の毒成分がいっそうキツくなった。

 俺はありのままの事実を言う。


「う、うん……会って話して……あの人ってホント、ロクで……」

「裏切ったのね!」


 華子の目尻が釣り上がる。

 今までの華子はどんなにキツい顔をしてもあくまで美人だった。

 でも今の引きつった顔はただただ恐ろしいだけ。

 俺は初めて美しくない華子を見た。


「え? どういうこと?」

「やっぱり男は裏切るんだ! あんたは違うと思ったのにっ!」


 また思いっきり腹を蹴ってくる。

 そしていつも以上の早足で俺の前から去ってしまった。




 自分の席についた俺は思いっきりうなだれる。

 なんで? なんでこんな目に? 俺、頑張ったのに……。頑張って我慢したのに……。

 そこへ男子が声をかけてくる。


「おい聞いたぞ、浜口」

「神在先輩に足蹴にされたんだって?」

「大層なご馳走だけど、おまえらは付き合ってるんだよな?」

「そういうプレイなのか?」


 童貞同盟の面々。毎日顔を合わせているのに懐かしく思えてしまう。


「華子の奴、おかしいんだよ……。俺は、一回も使ってないのに……」

「なにを使わなかったんだ?」

「パンツ……」

「パンティ?」

「華子のパンツが手に入ったんだ」


 どよめく童貞同盟。

 当然の反応である。


「ま、まだ持ってるか?」

「触れなくてもいい、せめて撮影させてくれ!」

「……あいつに返したよ」

「もったいない!」

「正気か、浜口?」


 一人が俺の肩を激しく揺する。

 当然そう思うよな。


「正気……正気なんだろうか、俺は……」

「おかしいって、浜口。せっかく極上の女のパンティがあるのに、それを使わないばかりか返すなんて……」

「あり得ない……」

「額に入れて飾るだろ、普通……」

「なんで俺は使わなかったんだろ?」


 机に突っ伏し頭をかきむしる俺。

 本当になんでなんだろう。

 昨日の夜、俺は華子のパンツとブラをベッドの上に並べ、その前に正座した。

 でも、それ以上はしてはいけない気がした。

 ホントは使いたいけど。

 童貞としてはあり得ないご馳走が目の前にあるのだ。使いたいに決まっている。

 でも、俺は我慢した。

 手近な紙袋に赤い下着を突っ込んで、ベッドから離れたところへ隠した。

 それでも寝ようとすると脳内に下着の像が浮かび上がる。

 使いたかった……。

 でも俺は、ついに使わずに朝を迎えることに成功した。

 俺は勝利したのだ!

 晴れがましい気分で華子と会えると思った。

 でも、俺がパンツとブラを持っていただけで華子は激怒した。心が狭すぎるよ、あいつ。

 同志たちが俺に言い聞かせてくる。


「確かに童貞にパンツは荷が重すぎたのかもしれない」

「でも神在先輩は童貞を捧げさせてくれないんだろ?」

「だったらせめてパンティくらいは使わないと」

「なんとかもう一度手に入れることはできないのか?」


 うるわしき友情。

 童貞同盟の面々は本気で俺を心配してくれていた。

 抜け駆けして童貞を捧げようとしてる俺なのに。本当なら、度し難い裏切り者のはずなんだ。

 ……裏切り?

 裏切り……だ。


「俺、華子のところへ行かないと……」


 俺はようやく気付けた。

 ゆらりと席を立つ。

 同志の一人がつぶやく。


「また……行っちまうのか、浜口」


 みんな寂しそうな顔をしている。


「ああ、俺は行かないと。悪いな……」

「いいや……いいんだ、気にするな」

「おまえはおまえの道をけばいい」

「でも、忘れないでくれよ」

「俺達の友情が、不滅だってことをな!」


 童貞同盟の面々が、にかっと笑ってみせる。

 やっぱりこいつらは最高だ。

 そして俺は教室を飛び出した。

 俺は裏切っていない。

 そう、華子に分かってもらわないと。

 あの子を傷付けたままにしてはいけない。

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