久しぶりの再会
『何処へ向かわれていると思えば、随分と寂しい場所に来られましたな』
あたしについてきていた左狐が、辺りを見回して言った。左狐は寂しいと言うけれど、野原の先にあるこの場所は、何に遮られることもなく初夏の日差しが空からまっすぐ降り注いでいてとても明るい。
『彼岸参りの時期はとうに過ぎておりますし、盆にも随分早いと思いますが?』
「いいの。別にお墓参りはいつしたっていいでしょう」
そう答えながら、早乙女家のお墓がある場所に向かっていく。
ここは豊海村の中心区からはかなり離れたところにある墓地だった。四方を野原に囲まれているけれど、手入れが行き届いていて雑草が生えっぱなしということもなく、墓地の敷地内に荒れた様子はない。すこし遠方を仰げば豊海の山々も見える緑の景色がうつくしい場所だ。ここにはだいすきなおじいちゃんとおばあちゃんが眠っていた。
「あった。………こんにちは、おじいちゃん、おばあちゃん。ちょっと久しぶりになってごめんね」
お墓の前に来ると、あたしは墓石越しに今は豊海の海の彼方にあるあちらの国にいるであろうふたりに話し掛けた。それからその場に屈みこんでそっと手を合わせる。
(引っ越してきた日以来だね……月に一回くらいはお参りしようと思っていたのに、ゴブサタでごめんなさい。いきなり心配させちゃうようなこと言ってすみません。でもお父さんとお母さんには絶対言えないからおじいちゃんたちに聞いてもらうね。………あたしね、今お腹に赤ちゃんがいるんだって)
目を閉じたまま、ふたりがすぐ傍にいるような気持ちのまま、心の中で話し掛け続ける。
(そっちにいるおじいちゃんたちには、見えるのかな?……あたしのお腹、蒼く光ってちょっぴり膨らんでるでしょ?ここにね、ちっちゃい命が入っているんだって。しかも海来様の子供なんだよ。……ほんとにびっくりだよね、あたしついこの間まで中学生だったのに、いつのまにかお腹に赤ちゃんがいたの。
ねえおじいちゃん、おばあちゃん。あたし、どうすればいいのかな?どうしたいのかな?……自分でもわからないの……。お腹の子、堕ろすなんて怖すぎるけど、そんなひどいことなんてしたくないけど……でも産むことだって怖すぎる。ねえ、あたし、怖いの。おじいちゃんたちに会いたいよ……)
不安が押し寄せてきて、また目の奥からじわじわと涙が滲んできた。
『………ののか様。お参りを終えられましたら貝楼閣へ戻りましょう』
「戻るよ………でももう少しくらい、おじいちゃんたちと一緒にいたっていいでしょ」
生前どんなときでもあたしの味方でいてくれたおじちゃんおばあちゃんたちにまだ甘えていたかったから、あたしは涙で濡れた目できっと睨み付ける。と、急に左狐は目を見開き、何かを察したようにピンッと背筋を伸ばした。
『………ののか様。どうやらここへ人が来るようです』
左狐はある墓地の先にある小道をじっと見つめて言う。
『霊感のない者には今の私の姿は見えないだろうが、万一のことがあれば面倒だ』
左狐はそう言うと、急にぴょんと高く飛び上がって宙でくるりと体を一回転させる。彼が地面に着地すると、いつの間にか人の形であったはずの体が、狐の体躯に変化していた。
『誠に勝手ながら、ののか様失礼致します』
「え?………ちょっと、左狐っ」
『お静かに。間もなく人がやってきますよ』
見る間に左狐はするすると小さくなっていって子ネズミほどの大きさになる。するとぴょんとあたしの肩に飛び乗って首の裏側に隠れてしまった。あたしは今髪を下しているから、そこにいれば見つからないはずだ。
「………ちゃんと大人しくしていてね」
『御意』
「もう、服の中には入らないで!しっかり襟のところにつかまっててよ」
小声でそう話し掛けながらさっき左狐が見ていた方向へ視線を向けると、草をかき分けるザザッという音が聞こえてくる。両脇が背の高い草で囲まれた小道から男の人が現れた。
「…………あれ、ののか?」
「お、お父さんっ!?」
あまりに突然の再会に、顔を見合わせたままあたしたち親子は固まってしまった。貝楼閣に住み込んでいる間、一度だけお母さんが様子を見に来てくれたことがあったけれど、お父さんと会うのは『神婚』の儀式をした日以来だ。
久々に見るお父さんは工房で彫金の作業をしていたのか、目の下には濃いクマが出来ていた。同じ芸術家でありながらあくまで規則正しい生活の中で作品作りに取り組むお母さんとは対照的に、作品作りに没頭していると時間を忘れて作業に夢中になってしまうのがお父さんだった。
「お父さん、徹夜明け?なんかすごい顔色してるけど」
「……ああ、まあそんなところだよ。昨日の夜は妙に気分が乗ってね」
お父さんは顔色こそ悪いけれど、その表情にはどこか充実感が現れていた。どうやら昨晩の作品づくりはなかなか満足のいくものになったようだ。
「ののかはこんな時間にどうしたんだ?………学校は?」
聞かれてあたしは今日が平日であることを思い出す。お昼過ぎくらいの時間で、世の高校生はこれから午後の授業に臨もうという時間帯だ。そんな時刻に私服姿でこんな場所をうろついているなんて、言い訳のしようもない。お父さんだって聞くまでもなくあたしが学校を休んでしまったことは察しているはずだ。あたしは叱られることを覚悟して自分の足元をじっと見つめたまま黙っていると、お父さんは急に手に持っていたものを差し出してきた。
「折角墓参りに来てくれたんだ。ちょっと手伝ってもらえるかい」
渡されたのは、お供え用の白百合の花束だった。
「父さんは水を汲んでくるから、先にこの
そういってもう片方の手に持っていたちいさな箒とちり取りのセットをあたしに手渡してくる。
「うん、わかった。………あの、お父さん。ごめんなさい、あたし今日は学校を、」
「いいよ。ののかはむやみに学校をずる休みするような
後ろめたさでいっぱいだったあたしの言葉を遮って、お父さんは気にするなと言うように笑った。そういえばうちのお父さんって、神経質なようでいてあたしに対しては甘いというか、鷹揚な態度を取る人だったなと思い出す。
「ただしな、母さんにはヒミツだ。母さんはあんな繊細な作品を作るくせに思春期の繊細な心なんてまるで理解しようとしない人だからな。まあ、あのさばけた豪快さが母さんのいいところでもあるんだけどね。……とりあえずサボったのがバレてぶっ飛ばされないように気を付けるんだぞ」
それだけ言うと、お父さんは墓地の水場へと歩いて行った。
『ほう。なかなかに理解のあるよき父君ではございませんか』
首の後ろ側から出てきてあたしの肩に乗った左狐が、感心したような声で言う。
『しかし鈍感なあなた様とは違い、あの父君はやや常人より感覚の鋭い方やもしれませぬ』
「え、お父さんが?……そんな話、聞いたことないけど」
『まあ霊感と呼べるほどの力ではございません。……ですが万一私の存在を悟られては面倒なので大人しく隠れていましょう』
そういってするりと再び左狐があたしの首の裏側に隠れたところで、墓地の共用の水桶と柄杓を持ったお父さんが戻ってきた。
お墓を掃除して、お花やお線香を供えて手を合わせた後、あたしは一輪だけ避けておいた百合の花を持って立ち上がった。
「ねえお父さん。向こうにもお供えしてこよう」
「ああ、そうだね」
ふたりで歩いていった先にあるのは、共用の水場の傍に建てられたちいさなお社。中に祀られているのは、眠っている赤ちゃんのようにかわいらしく目を閉じているお地蔵さまだ。そのお社の前には『水子地蔵尊』と掘られた石が置かれている。水子というのは早世した子供やこの世に生まれてくることが出来なかった赤ちゃんたちのことで、このお地蔵様は村の水子たちを供養するために建てられたものだ。あたしがそう教えられたのは小学生のときだった。
「…………早いものだな。あの子が天国に行ってからもう六年も経っていたんだね」
お父さんの言葉に、あたしはすこしちいさな声で「うん」と頷いた。実はあたしには、妹か弟がいるはずだった。あたしが十歳になったとき、お母さんが赤ちゃんを授かったのだ。お母さんは生まれつき子宮の機能が弱く、あたしを授かったことも『奇跡だった』とよく言っていた。そんなお母さんだからこそ、ふたりめの妊娠がわかったときそれはもうとても喜んでいた。
『まさかこの歳になってもう一度赤ちゃんを授かれるとは思っていなかった』
そう言ってはしゃぐお母さんの笑顔を見て、あたしもお父さんもお腹の子が無事生まれてくる日を心の底から楽しみにしていた。けれどその日はついにやってくることはなかった。
「…………そういえばお母さん、今とっても元気だね」
当時のことを思い出しながら、あたしはお地蔵様の前でぎゅっと手を合わせる。
「あたし、ずっとお礼を言うの忘れてたけど……お母さんが元気なお母さんに戻ったのも、きっとちっちゃんが見守っててくれてたおかげだよね?……………ありがとう、ちっちゃん」
『ちっちゃん』というのは、お母さんのお腹にいた子に付けたニックネームだ。お母さんに見せてもらったエコー写真のその子がとってもちっちゃくてかわいくて、“ちっちゃい”から“ちっちゃん”と呼ぶようになっていた。そのちっちゃんが天国に呼ばれてしまったのは、お母さんが妊娠六ヶ月めに入ったばかりの日だった。
お母さんの妊娠は本人も驚くほどに順調で、大きなトラブルに見舞われることもなく無事に安定期に入っていた。その日もいつものように家族で近所にあるスーパーで買い物をしていたら、急にお母さんが腹痛を訴えて、いくらも経たないうちに突然異常出血が始まった。すぐに救急車で病院に運び込まれたけれど、入院から三日目にちっちゃんはお母さんのお腹から天国へと旅立ってしまった。
……流産だった。
お医者さんはお母さんが悪いわけではなく、誰にもどうすることも出来ないこの子の運命だったと言っていた。その日はあたしもお父さんもいっぱいいっぱい泣いた。いちばんつらい思いをしているお母さんの前では涙を堪える代わりに、家ではぎゅっとふたりでしがみつき合って、わんわん泣いた。
けれどお母さんは泣くことすら出来ずに、心が壊れてしまったかのように病院のベッドで何日も無表情でぼおっと天井を眺めていた。退院してからもずっとそんな感じで、ごはんも食べなくなってしまって、不眠にもなって、お母さんはみるみる痩せていってしまった。
「……あの頃父さんは、正直もう家族で笑い合うことなんて出来なくなるんじゃないかって思っていたよ」
当時の痛々しいお母さんの姿を思い出して、あたしもちいさく頷く。その頃のお母さんはぼんやりしてるかと思えば突然半狂乱で泣き出したり、「あの子がひとりで寂しがってる」だなんて物騒なことを口走ったり。お母さんはすごく明るくて朗らかな人だったのに、突然赤ちゃんを失ったショックで心が不安定な状態になってしまっていた。
「でも、母さんはちゃんと立ち直ったな」
「………うん。お母さんだけじゃなくてお父さんもあたしも、家族みんなね」
あたしの言葉に、お父さんは感慨深そうに言葉を詰まらせた後、静かに頷いた。
「ああ、そうだな。だから父さんからもお礼を言わないといけなかったね。ちっちゃん、ありがとう。………それにののかもありがとう」
「え、あたし?……あたしはあの頃、お父さんにもお母さんにも何もしてあげられなかったよ……」
あたしの言葉に、お父さんは目を細める。
「……あの子がいなくなって一年目のお盆に、豊海に来ただろう?そのときみんなで蛍を見に行ったことを覚えているかい?」
「うん、それは覚えてる」
おじいちゃんおばあちゃんとちっちゃんの供養のために豊海村に帰省した日。塞ぎ込むことが多かったお母さんの気分転換になればと思い、あたしとお父さんは夜の豊海にお母さんを連れ出して、田んぼや土手にたくさん生息している蛍を見に行った。けれど慰みになるどころか、お母さんは蛍を見るなり『ごめんなさい。でもなんだかこのちいさな蛍たちがあの子に重なって見えてしまって』と言って顔を覆って泣き出してしまった。わが子が流れてしまったということはお母さんにとってとても受け入れ難く辛いことで、ほんとうに長い間、お母さんは自分を責め続けて苦しみ、情緒不安定になっていたのだ。
「あたし、お母さんが蛍見ただけで泣き出しちゃったときは正直びっくりした。……こんなことなら気乗りしてなかったお母さんを無理やり連れ出すんじゃなかったって、あのとき後悔したんだっけ……」
「うん、でもあの日のことが母さんが立ち直るきっかけになったんだよ。なあ、ののか。あの日ののかは母さんになんて言ったか覚えてる?」
あたしは首を左右に振る。あの頃お母さんは流産したこともそうだけど、子宮を摘出してもう二度と赤ちゃんを産めなくなってしまったことにもかなりのショックを受けていた。その夜もちいさく儚い蛍たちを見つめながら、『いつかまたもう一度ちゃんと産み直してあげたいけれど、もう私にはちっちゃんを産んであげることが出来ない』と嘆いてばかりだった。
「あたしはお母さんが泣いてたことしか覚えてないよ」
「そうか。……父さんはただ泣いてる母さんを宥める言葉しか言えなかった。けれどののかはね、あのとき母さんを叱りつけたんだよ。『お母さんはわがままだ』って言ってね」
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