日高くんの鱗
ひとりで入るにはあまりに大きすぎる露天風呂に感激しつつも、出来るだけ急いで入浴を済ませてパジャマに着替えると、あたしは衝立の向こうを覗き込んだ。
「日高くんっ!お待たせしました、お風呂終わりましたっ」
衝立に背を預けるようにして座り文庫本を読んでいた日高くんは、あたしを見上げると大きく目を見開いた。
「どうかしたの?」
「……………いや、」
なぜか日高くんは目のやり場に困ったかのように、視線を右に左にさまよわせる。
「日高くんもお風呂、入るよね?ひとりで本館に戻るのも怖いから、あたしここの洗面台でドライヤー使って待っててもいい?……あっ、大丈夫。絶対見たりしないから!!」
「………そんなことは心配してないから、別にいいんだけど」
「そう?だったらお次どうぞ。あたしは洗面台お借りするね」
あたしはお風呂場へ続くガラス戸が視界に入らないように背を向けつつ、洗面台の前の椅子に座る。ドライヤーを使う前にまずは持参したヘアクリームを毛先に揉み込んでいると、すこし離れた場所から日高くんが話し掛けてきた。
「早乙女は、やっぱウサギが好きなんだな」
「え?……ああ、うん。好きだよ?」
突然の話題にちょっと驚いたけど、たぶんあたしが今着ているパジャマのせいだ。着脱が楽ちんなワンピース型のパジャマで、パステルピンクの地に白いウサギがデザインされた柄だった。子供っぽいって言われることもあるけど、ちいさい頃からふわっふわなウサギが大好きで、ウサギの雑貨とかウサギ柄のファブリックとかを収集するのが趣味だったりする。
「動物全般なんでも好きだけど、ウサギはあたしの中で別格かな?小学校のときも学校のウサギ小屋のお世話係り、六年間ずぅっとやってたんだ」
「じゃあ今度は
まるでペットにする子をお店に見に行こうとでもいうような口調で言うから、あたしはおかしくなってしまう。
「探すって、使役ってそんな簡単に見つかるようなものなの?」
「運の問題かな?豊海には野ウサギが棲む山も結構あるから、その気になれば精霊化したヤツを一匹くらい見付けられるかも。ただし本物のウサギの方を間違って捕まえてしまう場合もあると思うけど」
「じゃあもし普通のウサギの方を捕まえちゃったら、そのコ、このお家で飼う?ほら、ニンジンとか野菜の端切れあげてさ、もしゃもしゃ食べてもらうの。すっごくかわいくて癒されると思うよ?あたしと日高くんで一緒にお世話するの」
「ああ。……いいかもな、そういうのも」
半分冗談くらいのつもりで言ったことなのに日高くんが共感を示してくれたから、なんだかすごくくすぐったくてうれしかった。
「あっ、でもそんなことしたら日高くんの使役の狐さんたちがヤキモチ焼いちゃうかな?」
「ヤキモチではないだろうけど、本物のウサギであろうと使役のウサギであろうと、よからぬことはしそうだな、あいつら」
「うぅ、じゃあダメだね。いじめられたらかわいそうだし……」
ちょっぴりがっかりしつつ大人しくタオルで濡れ髪を拭っていると、少し離れたところから布が擦れる音がする。日高くんが服を脱ぎ始めたのだ。制服のワイシャツを腕から抜いたのか、シュルッという音が立つ。続いて首から肌着を抜くときの音。靴下を引っ張りながら脱いでゴムを弾く音。実際に日高くんが脱いでいる姿を目で見ているわけじゃないんだけど、衣擦れの音を聞いていると日高くんが体から次々と衣服を剥ぎ取っている姿をイヤでも想像してしまい、なんだかとてもいたたまれない気分になってくる。
目で見る以上に音で想像を掻きたてられてしまう方が生々しくて、日高くんの裸体を盗み見てやろうだとかそんな不埒なことを考えたわけでもないのになんだか罪悪感めいた気持ちが湧いてどきどきしてくる。
(………そっか。だからさっき、日高くんあんなにイライラしてたのかな……)
あたしが女子であることを無理矢理意識させるようなことを、あたしは日高くんにしてしまっていたんだ。そんな自分の恥じらいのなさにようやく気が付いてたまらない気持ちになってきた。
(好きでもない相手のお着替えしてるときの音とか聞こえても、不快以外なんでもないよね。……あたしって、ほんと鈍感バカだな……っ)
そう思ったらどんどん申し訳なくなってくる。きゅっとパジャマの膝を握り締めて恥ずかしさを堪えようとすると、ふと気付くことがあった。
「あのっ。そういえば日高くん、着替えって……………」
持ってきてあるの?と聞こうとして思わず日高くんの方を振り向いてしまうと、あたしの視界に日高くんの肌色が入り込む。途端に動揺のあまり洗面台に置いてあったドライヤーを取り落とした。
「早乙女?どうしたんだ?」
ドライヤーが床に落ちた音に反応してこっちに顔だけ振り向いた日高くんと、そこでモロに目が合ってしまった。日高くんは上半身裸であとは制服のズボンを残すのみで、今丁度ベルトを緩めて脱ごうとしているところだった。びっくりしすぎてあたしは目を逸らすことも出来ない。
「ご、ごごごごめんなさいぃっ!!決して覗くつもりは、」
「だからべつに謝らなくていいよ。男だし、別に堂々と見せるつもりもないけど隠すほどのものでもないし」
「うう、でもごめんなさい!ただ日高くん、着替え、用意してあるのかなって思って」
「着替えはいつもタオルや手拭いと一緒に梅や手伝いに入る『社人』の女中役が籠の中に用意してくれてあるから大丈夫」
「そっか。ならよかった…………あれ、日高くん、それは何……?」
「それって?」
「日高くんの体の………鱗みたいな………?」
朝のお布団で見たとき、日高くんの体は意外に逞しいという以外特に変わったところはないように見えていた。けど今見てみると、日高くんの腕の外側や背中にはガラスのように透き通ったきれいな鱗がびっしりと生えていた。
「そうか。さっき早乙女の目を開いたから、今は早乙女にもこれが見えているのか」
そんなことをいいつつ、日高くんは上半身裸のままあたしに歩み寄ってくる。目前に迫ってくる日高くんに、思わずあたしは後ずさる。
「………怖いか?」
あたしは首を左右に振る。怖いんじゃなくて、半裸状態の男子に近寄ってこられるっていうシチュエーションのありえなさにびびっていた。
「怖く、ないよ」
「でもこういうの見ると、改めて俺が普通の人間じゃないってわかるだろ?体が竜の鱗に覆われてるなんて、早乙女が昨日の夜見た異形の神々と変わらないと思うし」
「でもほんとに怖くなんかないよ?………だって日高くん、すごくきれいなんだもん」
鱗はひとつひとつがきらきらしていて、まるで蒼真珠みたいなきれいな蒼色をしていた。
「あの、ちょっとだけ、触ってみてもいい?」
「…………どうぞ」
日高くんが右腕を差し出してくれたから、あたしはちょっとどきどきしながら指を伸ばしてみるけれど。
「……あれ?」
たしかに日高くんの皮膚の上を覆っている鱗に触れているはずなのに、指先には滑らかであたたかな肌の感触しかしない。いくら指に力を込めてみても、逆にそおっと触れてみても、指先に鱗の固い感触を感じることができない。あたしは何度も何度も触れてみようとするけれど、先に日高くんの方が音を上げた。
「早乙女、くすぐったい。もう勘弁してくれ」
「…………あたし、見えてるのに。どうして触ることが出来ないの?」
「視力を開いただけだからな。触れるには視覚以外の感覚を『開く』神呪を使わないとダメみたいだ」
「そうなんだ………」
ちょっとがっかりしながら言うと、日高くんは笑った。
「神力に免疫のない早乙女が一日にいくつも神呪をかけられるのは負担になるから今日はやらないけど。こんなものでよければいつでも好きに触っていいよ」
「うん。日高くんがイヤじゃなかったら、どんな感じなのか今度触ってみたいな。だってほんとにすごいきれいなんだもん。鱗っていうより、なんか宝石とかガラス細工みたい」
「………早乙女は変わってるな。普通は気味悪がったり怖がったりするものだと思うのに」
「ねえ、この鱗も日高くんが『海来様』である証なの?」
「証というか。……初代の竜主神は、その名の通り竜の姿をした神だと言われているから、皆礼の家の者にも身体に竜の名残のような特徴が現れるんだろうな。といってもこの鱗は、よほど霊感の強い人間にじゃないと触れるどころか見ることすら出来ないらしいけど」
「……………それってたとえば響ちゃんとか?」
日高くんはちょっと驚いた顔をする。
「よく知ってるな。響から聞いたのか?」
「ううん。違うけど……」
「斎賀の家だと、今は宮司の爺と響くらいみたいだな。見て触れることも出来るのは」
「ふーん。……響ちゃんも触ったことあるの?日高くんの鱗に」
「え?」
日高くんにすこし驚いたような顔をされて、今あたしは何を聞こうとしたんだとはずかしくなってくる。
「ううん、なんでもないっ…………ごめんね、引き止めて。冷えちゃうから、どうぞお風呂入ってきて!って。あれ日高くん、これどうしたの?」
日高くんの鱗で覆われた背中には、一カ所親指くらいの大きさの傷があった。まるで鱗ごと皮膚を無理やり剥ぎ取ったかのように赤くなっていて、古傷のようだけど見ているだけでもいかにも痛々しい。
「ここだけ鱗が欠けてるけど、怪我したの?」
思わず指先を伸ばすと、触れた途端日高くんの背がぴくりと震えた。
「ごめん。痛かった?」
「………いや、そこの鱗が欠けたのはだいぶ前のことだから、さすがにもう痛みはしないけど……」
「もう痛まないってことは、前はすごく痛かったってこと?」
「ああ。これは自分で剥いだから自業自得なんだけど、その結果痛みのあまり三日三晩寝込んで母親にも斎賀の爺にも滅茶苦茶叱られた」
どういう経緯で自分で自分の鱗を剥いでしまったのかわからないけど、たぶん生爪を剥ぐようなのたうち回るくらいの痛みなんだろうと思うと、想像しただけで鳥肌が立ってくる。
「なんでそんなことしたの?痛いって分かっててやったの?」
あたしの質問に、日高くんは意味ありげに口の端を吊り上げた。
「ああ。馬鹿みたいだろ?……でもいいんだ。どうしても渡しておきたかったから」
どうやら日高くんはガラス細工のようにきれいなこの鱗を、
「そんな大事なもの、誰にあげたの?」
「それは秘密。………あげたときは名前も知らなかったけど、きっとその子が自分の大事な人になるってそんな予感があったんだ」
日高くんがあまりにやさしい顔して呟くからあたしは『その子』が日高くんの好きな人なんだってことに気付いてしまう。あたしの頭の中では名前も知らないはずの『その子』と響ちゃんの顔とが重なっていく。
(……べつに日高くんが誰を好きだって、あたしには関係ないことじゃん)
あたしはただの『役』で、ニセモノのオクサンなわけだし。でもやっぱりなにかモヤモヤしてしまう。
(同居初日でこんな気分になっちゃうなんて、先が思いやられるなあ……)
そんなことを憂鬱に思いつつ、あたしはふたたび洗面台の前へと座り直した。
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