第五話:篩

 由基は、無念さと、無力さとを抱きかかえるようにうずくまった。

 既に戦況は、彼女を差し置いて、いつの間にか好転している。彼女らが原因で生み出された敗色は、村忠の、いや環の一手で塗り替えられた。


 颯爽と己の横を通り過ぎる環の姿を見た瞬間、由基の腹がカッと熱くなった。


 ――お前はオレ達を隠れ蓑にしたのか!?


 と。

 環の行動は明らかに、由基らの失敗を見越してのものだった。

でなければ、あれほどの迅速さは出すことができない。こうもなめらかに、事の運ぶものか。

「お前なら勝てる」

 そう言って、送り出しておきながら。


 ――どこまでオレたちをバカにすれば気が済むんだ!? ここまで蔑ろにする権利が、お前にはあるってのか!?


 たぎる激情が、環に一身に向けられたこの瞬間、この戦巫女は外に対してまったくの無防備となった。

 すでに敗退した己に危害を加える者などいない、そう油断した。


 そしてその一瞬の心気の偏りが、飛び来たる槍の接近を許した。


 最初それは、点のように見えた。

 黄色がかった白色のその点が、瞬く間もなく円と呼べる程度に大きくなって、次第に大きく、いや接近してくるそれが投げ槍だと気づいた時には、もう目と鼻の先に迫っていた。


 ――あ……


 不意を突かれた彼女の心は、虚だった。

 ただ矢も精も根も尽き果てた己に、それを除ける術はなく、顔は一瞬後に潰されるだろうと予感した。


 だが、その一瞬後。

 彼女の身体は大きな何かにくるまれて、宙へと浮いた。


 ――何故?


 という疑問が始めに突いて出た。

 それは、叫びたくなるほどの衝撃だった。


 ――何故?


 と、自らの体躯を抱く男の腕に、繰り返し問う。


 ――何故ッ!

 あと一歩、もう一押しで勝利が得られるというのに、鐘山環はその馬首を返し、飛び込むようにして己をかばうのか?


「ぐぅっ!?」


 由基を抱きすくめた環は、そのまま地を転がる。背に指した大将旗は彼の身を離れた。


「いったたた……」

 ぶつけたらしい後頭部を撫でさすりながら、由基ごと起き上がった主将。その周りを、大人数が囲った。

「……あ」

 言われずとも、それは戦場に急ぎ戻ってきた、羽黒軍の兵であった。

 皆が皆、恐ろしい形相で、今にもタコ殴りにするかのように殺気立っていた。


 その囲いの中から圭馬がツイと抜き出て、環の旗竿を拾い上げた。


「犬槍、死人に鞭打ち。いずれも俺の忌避するところなのですが」


 苦々しさと安堵が融合した面持ちで、普段よりもいくぶんか砕けた調子で、


「ま、これでお互い様ということで」


 と言って旗を手折り、周囲の殺意を緩和せしめた。

 それから圭馬は、


「軍目付」


 忘我し、突っ立つ男に、己の役割を思い出すよう、声をかけて暗に促す。

 ハッとした目付役は、反り返りような大音声で


「そっれまでェ! 勝者、羽黒方ァァ!」


 と、試合終了と勝者を周囲に知らしめる。


~~~


 場は、にわかに沸き立った。

 歓声が場外より聞こえ、喊声が場内、主に羽黒方より聞こえる。


 そんな勝者の喜びを前にした敗者ほど惨めな者はない。

 地に伏したまま、痛みと疲労と苦悶とで動けぬ者の、なんと多いことか。


 だが、対して、

 敗軍の将たる鐘山環、最も己の責任と無力さを痛感しなければならないはずのこの男は、ケロリとした様子で立ち上がると、転がり落ちた帽子を拾い上げて、自らの黒髪の上に戴いた。


 それから由基の下へと立ち戻り、

「ほら」

 と手を差し出す。


 苦い思いと共にその手を払いのけ、由基はその勢いを駆ったままに環の襟口に食いかかった。


「……なんでお前、オレを助けた?」


 環は弁明をしなかった。

 帽子を目深にかぶり直し、表情を押し隠す。そんな態度に、由基の怒りはますます積み重なっていく。


「『大切な仲間だからだ』とか冗談でも言えるぐらいならまだ可愛げもあったんだがな。それだけじゃねーだろ、お前」


 環はぐっと唇を噛み締めた。

 貝のように閉ざした口が、ややあって開かれる。


「あぁ。…………それだけじゃ、ない」

 辛そうに絞り出した、その言葉と共に。


 由基は鼻を鳴らして旧友を突き飛ばした。

 彼女は歩き始め、彼は立ち止まる。

 そのすれ違いざま、幡豆由基は


「もうお前のことが、分からない」


 率直で、残酷な言葉を、鐘山環に吐き捨てた。


~~~


 勝川舞鶴は、幡豆由基が離れた頃合を見計らい、主に接近した。


「お疲れ様です。殿。ご敗北、執着至極に存じます」

 そんな風にからかうと殿は決まって忌々しげに渋面を作る。

 そんな暴言を面と向かって放たれれば、誰だって良い顔をしないのは当たり前だが、主のそれはどこか愛嬌というか、構わずにはいられない、いじらしさがある。

 それがなんだかたまらなくて、舞鶴はついわざと、そんな言い回しをしてしまうのだった。


「お前、今の見てたのか」

「幡豆殿との痴話喧嘩ですか? はいそれはもう、バッチリと」

「だったら止めろよな。……いや良い。口を挟んだら挟んだでややこしいことになりそうだ」

 と言って唇を尖らせる公子。舞鶴はくすくすと笑い声を転がした。


「まぁそれはそれとして、殿」

「ん?」

「もう少し気の利いた答え方はできなかったのですか? ご経験豊かな殿のこと、そんな手はいくらでも考え得たでしょうに。例え考えつかずとも、あくまで『お前のためだ』と言い続けていれば良かったのです。本人も内心そんな言葉を期待してたんじゃありません?」


 そしてそれが悟れないほど、察しの悪い君主でもあるまいに。


 だが環は、


「本人が望むことと、本人にとって必要なことは、違う」


 そう言っただけで、再び口を閉ざしてしまう。

 舞鶴は苦笑し、環の手を取った。

 鏡のように澄んで美しい少年の双眸を覗き込む。


「なんとも不器用なことですねぇ。折角の名誉の負傷が、台無しじゃありませんか」


 そう言って、血の滴る傷口、破れた皮膚に手ぬぐいを当てる。

 由基を庇った際、手を擦り切ったらしい。べろりと剥かれた肌は、見るも痛ましい。


「別に誰彼のための傷を負ったから、偉いってわけじゃないだろ」


 どこか拗ねたように悪態をつく環だったが、舞鶴の手当てに対しては、まるで幼子のように従順だった。


 舞鶴には、己の主君の虫の居所が分かっている。


 あれは真実、友人を守るための行動だったのだろう。

 そのために己の身体を顧みず、勝敗も忘れ、救おうとしたのだろう。


 だが実際に行動に移そうとする前か、あるいはその後にか。


 ふと、打算が頭を過ぎった。

「負けるには、よい潮ではないか」

 と。


「ある程度の結果を見せたうえで、あえて敗北してみせる」という方針でいた、彼にとっては。


 つまり彼の行動は、情と打算、両面のきっかけを持っている。


 しかしその、友人さえ利用してしまおうという打算こそが、環自身にとって堪え難いほどおぞましいものであったのだろう。


 それ故の、苦渋の表情であった。自らが悪いと感じるからこその、無返答であった。


 割合短い付き合いの舞鶴でさえわかるのである。

 由基とて、それが分からないはずはないのだが……


 ――ほんとうに、不器用な方々であること。


 だが、


 ――故にこそ、殿は、鐘山環は


「なんだよ? ニコニコ笑って」

「いえいえ。ただ殿は世慣れている割に、時折妙に意固地と言いますか。子供っぽいというか、童貞くさい反応を見せるものだなーって」

「やかましいっ!」


~~~


「兄者、造作をおかけしました」

 蓮花城内の一室。

 深々と頭を下げる弟の正面で、圭輔はじっと黙って腕組みしていた。


 義兄が次に行う言動を、あれこれ予想しては戦々恐々とする圭馬だが、こうして沈黙が続いても、それはそれで緊張感がある。


「圭馬」

「はい」

「見事な勝利でした」


 え、と。

 耳慣れぬ賛辞に、思わず圭馬は顔を上げた。

 正面には、圭輔らしからぬにこやかな笑顔があり、さらに圭馬の虚を突いた。


「ただ眼前の敵を討とうとする一本気。相手の先鋒との一騎打ちに最後まで応じる律儀さ。この兄の危機に全兵引き連れて急行する思い切りの良さ。どれをとっても一級のもののふと呼べましょう」

「兄者……っ!」


 ゆったりとした兄の語調が、圭馬の心に春を呼び込んだ。

 内においては鬼よ、外を向いては蛇よと沙汰される兄が、今自分を、褒めてくれている。

そのことに圭馬の胸は震え、思わず涙ぐみそうになった。


「いやぁ! 兄者にそこまで評価されるとは、拙者も粉骨砕身、頑張った甲斐が」


 と、無邪気に示した喜びを、




 何言ってんだオメー、と

 イヤミに決まってんだろオウコラ、と




 ……一転して不機嫌さを露わにした圭輔の、無言の非難がその表情ごと凍りつかせた。


「かっ……」


 そろそろと、ぬか喜びを少しずつ退かせ、両手で三角を作ると、


「数々の不手際、申し訳ございませんでしたアッ!」


 畳に額を叩きつけるように、深々と頭を下げた。

 それに毒気を抜かれた兄は、頭を垂れてため息をつき、首を振る。


「まぁそれは良い。お前に一切を任せた僕にも責はあります。しかし」

 と、圭輔が懐から取り出した帳面には、人の名が記されていた。

 促されるまま圭馬はそれを一読し、列挙されているのはこの度の試し合戦で、鐘山方として参加した一部の羽黒家臣である。


「この者らが、どうかなさいましたか」

「処罰なさい」


 ずいぶんと、あっさり言ってくれたものである。

 兄の真意を図りかねて、不興を買う覚悟で、圭馬は逆に問い返した。


「それはこの者らが、鐘山方として参加した故ですか?」


 さにあらず、と圭輔は首を振った。

「この者らはあの戦いの際、自ら求めて崩れたように見えました。それが結果、幡豆由基の手勢の死期を早めた。賢しい真似には相応の報いをくれてやらねばなりません」

「ですが、それは主家弓引くをためらったゆえでしょう。むしろ、その忠心は評価に値するのでは」

「僕が彼らに命じたのは公平な戦いとなるよう目前の戦いに最善を尽くすこと。その命を曲げて行う忠誠など、不要です。ゆえに」

「譴責で済ませます」

「なに?」

「譴責で済ませるべきです、兄者。証拠もないことですし、勝つには勝ちました。その勝ちをもって、彼らの減罪を求めます」


 極寒を想起させる男の険しい視線を、圭馬は真正面から受け止めた。

 いや、受けて立たなければいけなかったというべきか。

 ここで目をそらせば兄は己に失望するのではないか、あるいはこの帳面上の者たちごと、処断されるのではないか。そんな直感が彼の中にあった。


 無論、それでも兄の金銀両眼に、何も動じないというわけにもいかない。

 夏場だというのに氷塊を置かれたように、腹から下はひとりでに震え、逆に顔は火照り、知らず汗が玉と浮かぶ。


 どれほど見合っていただろうか。

 とにかく長い体感時間の後、圭輔が嘆息し、


「圭馬の良きように」


 その答えが、羽黒圭馬をようやく呪縛から解放した。


 ホッと胸を撫で下ろす傍ら、圭馬は兄のことを考える。


 ――恐らくは兄者とて、ご自分の処罰が厳に過ぎる、八つ当たり同然とは感じられていたのだろう。


 いつに増して不機嫌な義兄の様子を見て、彼の発した厳令が、形となる前に正せて良かったとも思う。


 一方で、兄の心をそこまで害している物とは何か、考える。


 いや、問うまでもない。

 既にそれは、隣室で取り沙汰されていた。



「だからっ! あれは事実上鐘山殿の勝利だったのだ! もしあの者を庇わなければ旗竿を折られているのは圭馬殿の方だ!」

「故にこそ、鐘山環は大将の器量ではないと言っている! 目前の勝利を捨てるがごとき軽挙妄動、実戦では許されるものではないっ!」

「いやいや、それこそ環公子の篤実さを示すものであろうよ。あのような方こそ、存外天下に覇を唱える大身となるのだ」

「にしても、彼自身は己の家臣団にさえ軽んじられるというぞ」

「いや、そうして見る目のない家臣を持ったのは、鐘山殿の不幸であろうよ」

「否、わずか十代にして圭馬殿と渡り合うとは見事なものではないか」

「笑止な! 弓取りとは武勇のみによるものではないわっ」

「それに圭馬殿が世評ほどには大した御仁ではなかっただけやもしれぬ」

「ははは、では、お主が圭馬殿の槍なり、幡豆の弓なりを受けてみるかね?」

「話は逸れたが、結局鐘山環に才ありか、なきか?」

「だからっ」

「それはっ!」



 ……等と、隣室に当事者たちが控えていることにも気づかず、白熱している議論に、圭馬は苦笑を漏らして、眉間にしわ寄せる兄を宥めすかす。


「賛否両論だが、大した人気ですな。環公子殿」

「お前は先ほど、あの試し合戦を『勝ち』と称しましたが」


 だが兄が反応を示し、発した言葉は、既に締めくくられた話題。

 ――何故、そこに転じるのか。

 訝しむ圭馬に、圭輔は薄く目を開いて、


「あれは、正確には『勝ちを譲ってもらった』というのですよ。他ならぬ、鐘山環の手引きによって」

 と言った。


「……冗談でしょう?」

 圭馬は、自らの顔の半分が歪んでいることを自覚していた。

「一体何をもって、そのような……」

「お前、戦っていて何か感じるものはありませんでしたか?」

「それはっ」


 確かに、と圭馬は心の隅で思い当たる。

 あの槍を由基に投じ、そして彼女を環が庇った瞬間、何かしら引っかかるものがあった。違和感が、胸にしこりとして残っている。


 それは例えようもない疑問だが、ありのままの言葉で表現してみると、


「大事な場面で、転ぶ必要のないものが、わざと落馬し、地面を転がってみせた」

「身体から離れるはずのない旗を、あっさり手放した」


 肩すかしをくらったような、奇妙な虚脱感。


「他にも例えば、あの亥改大州がこの兄を人質にとったらどうします?」

「……まかり間違って身の丈九尺の鬼がやってきても、それはありえないと思いますが」

「…………たとえば、の話です」


 この羽黒圭輔が虜にされる。

 確かに万一そんなことが起これば、そんな存在がいれば、


 ――手出しができないな。いろんな意味で


 圭馬は苦笑し、両手を挙げる。

「だが、大州はそれをしなかった。何故ですか?」

「さぁ。兄者に勝てないと感じて作戦を変更したとか」

「お前たちが戦場を離脱した瞬間から、環は動き始めていた。機転が利くといっても、事を運ぶには滑らかすぎます」


 兄の淡々とした口調が、まるで周囲から温熱を奪うが如く、圭馬の耳には隣の雑音が聞こえなくなっていく。

 身を引き締め、背筋を伸ばし、息を殺す。


「……環殿がそう仕向けたとします。ですが、なんのために? 何故そんな小芝居を、自分たちの価値が示せるかどうかの瀬戸際に?」

「勝てば、どうなりますか?」

「え?」

「鐘山環が勝利するには、ああいう議論を呼ぶやり方しか残されてはいなかった。ですが、そういった方法で勝ったら、どうなります?」

「……」


 兄に促されるまま、圭馬は想像する。

 鐘山環が勝った場合のことを。


 環が勝てばそれは、そのまま彼らの武名に繋がる?

 そのために順門府侵攻と決議される?


 ……否、そうではないだろう。


 武でもって鳴る羽黒家中では、それを卑怯と見なす者もいるだろう。

 己とて、現在ほどに平静でいられるかどうか、怪しいものである。

 同時に明らかに力量が下の相手に敗北すれば、羽黒家の武名は地に堕ちただろう。


 ――そして一度でも、それらに対する不満が爆発すれば……


 鐘山家が圭輔の指示や制止を待たず暗殺される可能性だってある。


「だが負かした相手にもう一度刀を振り下ろすことは、できない。矜持を持つ真っ当な武士であればあるほど、そんなことはできない」


 その兄の言葉に、圭馬は沈みかけた顔をハッと持ち上げた。


「そして持て余した怒りの感情は、土壇場で失敗した鐘山環への嘲笑という形へ変化し、拡散される。加え、こうして議論が二つに割れることで、自らの扱いを困らせるように仕向けた。知恵者や知識人というものは、相手の理解の及ばぬ所に、己の見識を開けかすことが好みですからね。なまじ完勝するより、そうして考察の余地を残した方が、よっぽど激するでしょうし」

「ですが、幡豆由基を狙ったのは兄者の指図です。それさえも、予測していたと?」


 ……この言い方は、まるでその命令が不服だったように聞こえるだろうか?

 それとなく義兄の顔色を窺いながら、圭馬はつとめて平静に振る舞う。


「予測はしていなかった、いや、どのみち負ける気だったのですから、何が来ようとその足を止めたことでしょう。我々としても、敵が通過するのを手をこまねいて見ていられるはずがないのですから、選択の余地はすでにあの時喪われていた。何も来なければ、石にけつまずいてでも転べば良い。……演習の中、環は馬を持て余して何度か落馬したそうですが、あれは『どんくさい人物』と、故意に周囲に印象づけるものではなかったのか」


 続けば続くほど、圭輔の言葉は弟にではなく、彼自身に向けられるものへと移り変わっていく。

 その傍らに控えながらも圭馬は、背筋に寒いものが過ぎるのを感じていた。


 ――環殿も、兄者も、俺よりはるか上の場所で戦っている……


 それを、今さらにして痛感し、かつ己の不見識を恥じた。

 膝の上で固める両の拳にも、つい力が入った。


 その悔しさも手伝ってか。

 圭馬は自ら膝を進ませ、再び兄を正視した。


「ですが、そんなことをあの幡豆殿が承伏していたとも思えません。ともすれば、主従の間の信義が失われるおそれもありますし、直後に何やら諍いをしていたとも聞き及んでおります。……環殿は、それさえも考慮しておられると」

「あるいは、それが本命かもしれません」

「…………は?」


 圭輔が何を言わんとしているのか、もはや圭馬には理解できなかった。

 ただでさえ少ない味方を、さらに自分から引きはがすことが、環が本当に望んだことだと、この兄は言うのか?

 枯れ草色の前髪をかきあげるようにしながら、圭輔は夏の日に目を向けた。

 その横顔は、涼やかな微笑を孕ませていた。


「鐘山環は、臣下を篩いにかけている」

「ふるい?」

「勝川舞鶴、亥改大州、良吉、そして新たに加わりし響庭村忠。この者らは鐘山環の近くにあって、その器量を認め、己の立つべき場所を自覚しています。……だが、他の者は? かつて彼を下に置いていたという流天組は? 今回のことは、取り残された者たちに、去就を迫っています。すなわち、主の力量を認めて頭を垂れるか。その手段に反発し離脱するか……あるいは……」


 反発した先にある行動は、口にすることさえためらわれる。

 ――鐘山環は、それをあえて待っている、と?


 決めるのはお前らだ。好きに選ぶが良い。俺はそれを尊重する。


 表面上とは裏腹に自信に満ちた公子の言葉が、兄の一言一言の合間から、風が囁くが如くに、漏れ聞こえてくる。


「……僕自身、環の正体は掴みかねていた。しかし今は、はっきりと分かる。鐘山環、大器の持ち主です。それも、この桜尾家を覆しかねないほどに、危うい才気を持っている。まったく、困ったものです」

「ははっ、まさか……そこまでは言い過ぎでは。……っ!?」


 羽黒圭馬は瞬間的に全身を凍てつかせた。

「困ったものだ」

 そう口の中で呟いた羽黒圭輔は、笑みを浮かべている。

 両目には燃えるような光輝を宿し、明らかな憎悪を住まわせて、なお口の端には隠しても隠しきれぬという、えも言われぬ歓喜が華やいでいる。


 圭馬とて初めて目にする、兄の表情であった。

 だがその胸中は、不思議と直感として納得し、共感できる部分があった。


 ――兄者は、敵手を得られたのだ……


 桜尾本家の実兄らなどさして脅威ともなり得ない。

 器所実氏は信ずるに足る後援者であるし、幼少時より幾度となく苦悩させられていた風祭康徒も、もう亡い。

 その後継の風祭親永には敗北したことなく、武徒には戦場において度々苦しめられるが、彼は圭馬と同じく、戦場の外を見ることができない質の人間である。


 世に聞こえる鐘山銀夜、水樹陶次は、矛と交わさぬ限りは未知数だ。


 ――つまり俺の知る限りで、兄にこんな貌をさせられるのは、あの御仁のみということか。


 自分では、到底させられない。

「……悔しいな……」

 そのこと自体が。

 反面、安堵している、己が。


「何か言いましたか?」

 聞こえぬよう、ぽつりと呟いたつもりだったが、圭輔は耳ざとくそれを拾い上げた。

 圭馬は慨嘆しつつ「いいえ何も」と首を振る。


「それより、せっかく蓮花に戻られたのです。お父上に、大殿にお会いになるべきでしょう」

「そうですね。近頃はご体調も良いといいますし」


 そうして兄弟並んで立ち上がる。

 弟が先を譲り、兄は遠慮することなく前を進む。


 羽黒圭馬は、その羽黒圭輔の背を追って、先へと進む。



 その五日後、

 午の月の七日。

 桃李府公、桜尾典種、回復す。

 局面は、新たな方向へと転じつつあった。

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