ローズフォース
DA☆
Initialize(プロローグ) ラヴィ アン ローズ
0-01
三月八日 二二時二三分
暴走でつぶすな青春落とすな命・目に余る騒音はすぐ警察へ。
峠のドライブイン。そんな看板に一発ケリを入れてから、みずきは愛機に跨った。
あたしの命じゃないか。あたしの勝手だろ。
走り屋たちの理論はいつも単純だ。ただ、風になりたい。あるいは、誰よりも速く走りたい。その欲求とスリルの前にして、死と隣り合わせになることなど怖れない。……もちろん、死んでからこの理論をぶち挙げる者はふつういない。
みずきはひどく不機嫌だった。―――誰もあんたなんぞに惚れてないっつーの。目が合っただけで、やけになれなれしい馬鹿男。彼女は、走るときはひとりと決めていた。彼女にとってバイクは、孤独にひたる場所だった。その疾走する孤独だけが、自分に似合っているような気がしていた。
跳ね上がるクセのある前髪を、ヘルメットで押さえつける。誰からもキツいと言われる吊り目を、これから始まる真剣勝負に向けて、さらに吊り上げる。ヘッドライトの向こうの、暗闇を見つめる。
右手を何度かひねる―――いい音。
「みずきぃ、ムチャすんなよオメー。なんかさ、ここさ、見た目よりヤバいんだってさァ」
また、さっきの男が近づいてきた。名前を教えるんじゃなかった―――てめぇなんぞに呼び捨てにされるいわれもオマエ呼ばわりされるいわれもない。みずきは舌を打った。
「激マジなハナシ、今年ンなってもゥ三人死んでるって、ダチが言ってたんだよねー」
「るせぇっての」
「でもさぁ」
男がみずきの手をつかもうとした。大きく腕を振って払いのける。「触んな―――消えろ!」
男に排気ガスを叩きつけて、みずきは峠の闇へと突っ込んでいった。
この春めでたく二浪を決めた。今は大学に行かなけりゃろくな働き口はないぞ、そう言ったのは親の方だったから、彼らはぐちぐちと説教を垂れた後に、結局二年目の予備校の費用を出すことを約束した。
大学に行ったって、やりたいことなんか何もなかったけれど、口からでまかせの『将来のこと』が、いつの間にか既成事実になっていた。その『いつの間にかの将来』が作り出したふわふわしたちぎれ雲が、すなわち綾瀬みずきの本体なのだと、周囲の誰もがそう信じているように思えてならなかった。彼女自身、それが自分なのかもしれないと勘違いしそうになることがよくあったが、そういう嘘を、車上の孤独は振り払ってくれる。
路面のコンディションはとてもいい。第一のコーナー───ここはブレーキングすらいらない。アウトインアウトでラインを取れば間違いない。その間違いないラインを、ライトの向こう側に一瞬の判断で見つけ、解明し、怖れを振り払い、勇気をもって通り抜ける。自分の真の力を発揮できたという快感がそこにある。見えない限界線を超えて、一段上の存在になったという確信が生まれる。
―――どこが? ほんとうは───ほんとうは、過去のタイヤ跡が、物理学の必然を伝えてくれるに過ぎないことに気づいていても、彼女には麻薬だった。
そうさ。もし麻薬を教えてくれるような友達がいれば、たぶんあたしは麻薬におぼれる。猫を殺していたら今頃は人殺しに成長していたのだろう。その前に、バイクに出会った。もしかしたら、麻薬中毒で毀(こわ)れていた方が、意味のある人生だったかもしれないのに。でも、あたしは走るのが好きで、この風が教えてくれる、孤独と、快感に、おぼれたい。
次はS字になる。最初の小さなコーナーはコース取りで……次の大きなカーブは一気に体を倒し、立ち上がりで思い切りよくスロットルを開ける。空気が絡みついて生まれる、独特の高揚感。速度計の針は一二〇の数字を超えたままだった。
おまえは何がしたいんだ、夢とか希望とか持ち合わせないのか、そういう質問に、答えられなかった。小学生の頃の、自分の将来というタイトルの作文には、本気の夢を書いていたはずだ……センセェは目を三角にして書き直しを命じたけれども。あのとき───あたし、何を書いたんだっけ?
なんでこんなことを思い出すんだろう。脳みそのはしっこが、ちりちり音を立てて、集中力が切れそうなぎりぎりのところで耐えていた。
集中力が切れたら、転ぶ。転んだら、きっと、死ぬんだ。死ぬんだ。生キテイタッテショウガナイケド。
まだだ、───いらいらするのは、さっきのなれなれしい男のせいだ! よけいなことを、考えるな!
そうやって都合の悪いことは他人のせいにして、都合のいいことだけ自分のてがらにする。そうやって他人をへこませ自分をふくらませなければ、ただでさえちっぽけな自分が消えてしまいそうだった。だからこそ自分は、誰かの近くにいてはいけない。誰かといっしょに行動してはいけない。自分の押しつける何かの犠牲になってしまう。自分はちっぽけなままで、消えていきそうなままで、そのままでいいのだと、
―――よけいなことを考えるな。集中しろ!
いくつのカーブを切り抜けてきたろう、坂は緩くなり、いよいよ最後のカーブが近づいていた。半径の緩いカーブだったものが突然急に折れ曲がる、複合カーブ。大丈夫、インのぎりぎりをついて、ひとつのカーブにしてしまえば、行ける! 「死亡事故多発」「スピード落とせ」の看板がライトに映るのを見ながら、突っ込んでいった。それは背景であって意味をなすものではなかった。むしろライトを無意味に反射する邪魔者だった。本来危険を示すべきカーブミラーには何も映っていない。行く先に、危険はなかった。
膝をつくほどに体を倒し、体重を完全に車体と遠心力とに預ける。自分と、バイクとが、一体になった、そう感じた瞬間に。
一体であるはずのカラダを鋭く違和感が駆け上がった。車輪が何かを踏みつけたのだ、路面との摩擦力を失わせる何かを。
みずきはその瞬間、なぜ看板が立てられているのかを悟った。必要だから立てられていたのだ。カーブの出口。マシンが立ち上がるところ。そこに、地図にはない、来るときには気づかなかった、オフロードへの入り口があった。そこから運ばれた、砂か、泥か、小石か、タイヤを、浮かせて、……結論も証明も正解も、今さら不要だった。
神経を駆け上がった電撃が重心移動の動きを止めた。カーブの立ち上がり、車体が起きなかった。予定されたライン、カーブしていくはずの円弧が崩れた。起きない車体は、遠心力に負けて、カーブの外へと流れていく。進むべき道路もまた、横滑りしながら視界から消えていく。
みずきの中で、思考が止まった。
しょせんあたしが得る現実は、こんなものなんだ。はじめから決まっていたんだ。
もう、どうでもいいや、と思った。
ブレーキからも、アクセルからも、手が離れた。
悟りを開いた僧のように目を細めながら、遠心力のままにガードレールへ激突する。自分の前の犠牲者に捧げられた、枯れかけた花束が宙に飛ぶ。そのまま、崖下へ投げ出された。
首の骨が折れる音を、最後に聞いたような気がした。
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