DATE-Ⅰ
いつか、向日葵が咲いたような微笑みを振り撒いていた璃々亜さんが純玲ちゃんに言っていたように……と脳内で語り出したのだが、現実の季節感と真逆の修飾語を用いる拙さに自嘲してから話を続けたい。
新宿での遊びを純玲ちゃんへ誘っていた過去の璃々亜さんは、仲間と自己の性質を変えて実現した。数年前、大々的に整備されたバスターミナルから少し離れた駅東口で、同じく誰かを待ち合わせているであろう人々の列に加わった。見上げれば曇天に蓋をされる夕空。見下げれば吐き捨てられたガムの跡と散らばった煙草の吸殻。対を為す風景に、僕は都会への抵抗を感受した。
普段はこうした都市より鈍行列車で一時間程要する都内の西側で暮らしている僕は、都民ではなく田舎者であった。木津さんとの打ち合わせでくらいしか山手線内のエリアには用が無く、別にそれでいいと思っていた。例のパーリ―ピーポー殺しのSではないが、陽気な人と人との喧騒に反撥する意志は否定しかねる。
したがって、友人や恋人との逢着に胸躍る周囲の人々と僕の間には不可視なる壁があり、僕は<雑人>として疎外されているのだ。とある女流作家様の言葉を借りてしまい甚だ恐縮であるが、僕にとっての<雑人>は目先の幸福に酔い痴れているこの街の人々であり、皆が撲滅されてしまえと願っているのは悪計に偏った僕の半身である。
「オ待タセシマシタ。遅レテスミマセン」
厭世観に傾倒することで、僕は言語世界を創造的に攪拌可能となる。本当に他存在の幸せを憎んでいるかどうかは関係が無いのだ。
「モシカシテ、怒ッテイマス? ゴメンナサイ。菅野サントノデートニ気合ヲ入レタ結果、髪ノセットニ時間ヲ費ヤシテシマイマシタ」
「――え?」
思惟のスイッチを切り替えるまで、僕もまた時間を要した。最初、僕に対して言われているなど推測すらしなかったから。自分の名前を耳にして初めて、視線を上げた。
「璃々亜さん……か?」
「エエ。増井璃々亜デスヨ。オカシナ菅野サン。ワタシノ顔、忘レチャッタノネ」
反応が鈍い僕をくすくすと笑って見る璃々亜さんは、確かに璃々亜さんだった。いつもより洒落た恰好をしている。ロングブーツの色と合わせたネイビーのチェスターコートに、細い脚を蔽うワインレッドのタイツ。地味なセーターを着ているばかりであった彼女は、余所行きのコーデに注力していた。髪型もウェーブアイロンをしっかりあててきたようなボリュームが宿っている。
「ソンナニマジマジト見ナイデヨ。恥ヅカシイワ」
そして、彼女は婀娜っぽい声音で僕を誘惑している、はずだった。
「ご、ごめんなさい。璃々亜さん……やっぱりまた、性格が変わっています」
「ドコガ? ワタシハワタシ。菅野サンノタメニ科学ト言語ノシンギュラリティヲ追求シテイル研究者ナノネ」
変わっていないのは研究者としての立場であって、内実は変わった……換言すれば、感性を奪われているのだ!
声帯を動かして発せられる彼女の言葉は、無機質の響きを伴っている。感情が……無いに等しい。スマートフォンに内蔵されている人工知能が質問に答えてくれるような……或いは日本語をやっとの思いでワンセンテンス言えるようになった外国人のような……平板なイントネーションが酷く目立つのだ。
ラディカルなSモードの璃々亜さんから転調されたが、これでは純玲ちゃんも……良い顔はしない。
「第五話のオートリライト、したのですね」
「試シニネ。デハ、デートヲ楽シミナガラ、菅野サンノ小説ヲ次々ト更新シテイキマショウカ」
璃々亜さんはボストンバッグより、小さめのノートパソコンと脳波測定器を取り出して見せた。未知なる実験に飛び込む期待にワクワクしている表情には喜怒相悪が約束されているのに、言語は気持ち悪い程にフラットなのだ。
そんな馬鹿な。オートリライト作品に留まらず、『続・三位一体なる冥園』の登場人物にまで精神分裂をリンクさせたことになるじゃあないか。文字に書き起こすと妙に片仮名の割合が増えるような語調は、<MEI-EN>のやり口であった。
だが、分岐された疑惑も結句、共通の問題点に収斂されていると理解したのは、第五話のオートリライトを読んだ時だった。
<SCTE-ND:81.4>
<Remake Transcription-Ⅰ>
タイトル:さらば恋情の光
遅い懺悔かもしれませんが、せめて<誰か>に告白させていただきたく思います。
切望していた魔法が実現したとしても、残されたものは犠牲になるのですから、私はより多くのものを失うことになると悟ったのは、最後の<フローリア・ドロップ>を飲み終わった時でした。
刹那的現実の裡で仮借なき稲妻に撃たれたことを自覚し、甘い夢から覚めた私に待っていたのは闇の夢でありました。
「キミハ血ヲ流シテ戦ッタ。ダカラ死ニタイ時ニ死ネバイイ」
別人格のIも憤死を促してくれています。それで正しいと私も思います。
寛容赦宥の言葉など、望みません。
堕ちる処まで堕ちた私は、救いようのない存在者。まさしく無へと誘う魔法の杖に殴打され、己が影と同一化される時をただ待つのみ。
絶望を呼んだのは、私なのです。
けだし、これは悲劇でも何でもなく、必然的命運。
そう自分に言い聞かせていたのでありますが、私は生への執着にへばり附かれたままでした。
「キミハ生キルコトモ選ベル。断鎖ハ二通リダ」
私の生死はIの遊戯にされております。矢張り、あの時――――に帰着すれば
</SCTE-ND>
</Remake Transcription-Ⅰ>
意味を持たない罫線と中途半端な一文を最後に、通常よりも短い被転写体は締めのタグを附記していた。
僕が暗々裡で羨望していたIに投企したのは、皮肉にも璃々亜さんだった。あろうことか、オートリライトの作風に不条理な純文学を高純度にて採用していた。
「璃々亜さん……これでは逆にやり過ぎです。殆ど僕自身の作品で、到底木津さんの了承を得られません」
ノートパソコンを片手で抱える僕は、雑貨屋にてウィンドウショッピングを満喫している彼女を指摘した。彼女に連れられて、待ち合わせ場所の近くにあった百貨店……伊勢丹に来ていたのだ。
「尤モデス。デハ、現実デライトノベルノストーリーラインヲ補完シマスネ」
無感情の声に誘われ、店内を散策する。ランジェリーショップのエリアが左傍に現れると、璃々亜さんは僕の腕を強引に取り、下着姿のマネキンを見て昂奮した。
「ワタシ、コウイッタ大人ノ黒イブラジャートパンティ、欲シカッタノデス。ネエ、菅野サン。ワタシノ試着姿ヲ見テモラッテクレマセンカ」
「出来る訳がないでしょう。買うのはいいですけど、女性の店員さんに確認してもらって下さいよ」
潤った瞳で懇願する彼女の媚態は本来であれば強烈であるのに、死んだ声の音色が結果、僕の動揺を回避させてくれている。外見と声音の癖が凄いのだ。演技力に長けたハリウッド女優の吹き替えを素人がやっているようなものだ。
「ラブコメニ
「璃々亜さんの意見はよく解っていますけど、声の調子がおかし過ぎて……僕の気持ちが載り切れていないのですが」
「菅野サンノ声ハ至ッテ正常デスヨ」
悉く自認を欠落しているのは一貫していた。彼女はずっと巫山戯けているのか? 僕は壮重なコントに巻き込まれているのか?
「スミマセン、店員サン。ワタシト彼ガ気ニ入ルヨウナ下着ヲ選ンデイタダケマスカ」
僕の逡巡は無視されて、近くにいたスーツ姿の女性店員に璃々亜さんは話かけた。もしかしたら店員さんも彼女の声に強い平坦を覚えているかもしれないが、サービス業に相応しい営業スマイルで柔和に応じた。
何やかんやあって(この何やかんやには、店員さん御勧めの黒下着を持って来てくれた処から、嬉し気に試着室へと入って行った璃々亜さんが「絶対ニ覗イテハダメデスヨ」とフリにも捉えられるような制止を口にし乍ら、カーテンの向こう側で衣服を落とす音をわざと大きくさせた処迄の状況を含んでいる)僕は具合を悪くして試着室の前で待機していた。ランジェリー売場で孤立する男はこういう時、何を考えているのだろう。ダブル不倫などお手の物で恋愛テクニックに長けたモテ男に訊けば、理想的な回答が返って来るようなものなのか。
「お兄さんって、女の子の彼氏さんですかあ?」
同じく彼女の着替えを待っていた店員さんが気を利かせて、世間話の切っ掛けを作ってくれた。無言でいるより気は紛れる。
「いえ、仕事仲間です」
「あら、そうでしたか」「冷タイ菅野サン。ワタシトノ関係ハソノ程度ダッタノネ」
店員さんの合いの手に被さるように、悪意のある容喙が僕等を気まずくさせた。機械音声は時と場合に依り、受け手側に意図を補足させる効果がある。
「……すみません。彼女は冗談を言うことを生業にしているような性向なので」
仕方なく、僕は冗句を冗句で上塗りする。
「ふふっ、面白い女の子ですねえ」「異性ノ恋慕ヲナイガシロにスル男ハ、罪デスヨ」
クックック、と如何にもB級映画の悪者がやりそうな棒読みの笑いを聞いて、僕の悪戯心が萌芽した。
「店員さん、バルサンってその辺で売っていたりします?」
「ソレヲ何処ノ密室ニ投ゲ込モウトシテイルノデスカ! ワタシハ害虫デハナイデス!」
「ごめんなさい、燻煙剤はちょっと……」
「真面目ニ答エナクテイイデス!」
天然っぽい店員さんの応答もあり、SモードからIモード(昔の携帯ではないが)に転じた璃々亜さんを上手く扱えた。然れども彼女の無感情なる無邪気は積極的であり、僕と店員さんがその後五分は待ちぼうけになっていた頃。
「早ク菅野サン、覗イテ下サイヨ。ライトノベルノ展開ッテ、ソウイウモノデショウ?」
「……七面倒な人だな」
喜劇的な顛末に、店員さんは手で口を隠して笑いを堪えていた。決して恣意的に笑いを取っているのではなく、シンプルに笑われているのだ。
飲食のフロアへと移動した僕等は、ディナーではなくティータイムを選んだ。価格層がわりかし上がる百貨店でも、一杯三〇〇円程度で収まるようなチェーン店は用意されていた。
僕はブレンドコーヒー、璃々亜さんはシトラスティーを注文して、深々と座れる一人掛けのソファーに埋もれた。
「こういうカフェで高級感のある椅子を用意してくれるのって、意外ですね」
「経済的ニ芳シクナイ学生ハ、パイプ椅子デモ単価ノ安サを優先スルカラデショウカ」
璃々亜さんの足元には試着したばかりの下着が入った紙袋が置かれてあった。無論、僕は試着室のカーテンを開けていない。
「価格帯に見合った理由もありますけど、客の回転率を上げるのであれば、一度座ったらゆっくりできるような椅子は置かないものです」
「菅野サン、経済学部生ラシイマーケティングヲゴ存ジデスネ。ヨク勉強サレテイルヨウデ」
褒められて恐縮だが、大学の講義とは無関連の知識だった。ワイドショーは一般市民に難しい話を嚙み砕いて教えてくれる。
「カフェデペダンチックナ対話モ、若者ノ特権デスネ。モット菅野サンノ思惟ヲ拝聴シタイトコロデスガ……此処デ<SCTE>ノ実験デス」
二客のカップ&ソーサーの間にノートパソコンを布置し、接続した脳波測定器を自らの頭に取り附けた。奇妙な璃々亜さんの姿に他人の視線が集まりそうだが、本人は意に介さず自分の世界を順守している。
「今、此処でするのか……」
まさか、と僕は<SCTE>の起動を経て、リアルタイムで璃々亜さんの性格が変更される過程を予期した。確証の段階に入ったのだ。
「菅野サントノショッピングデ、ワタシノ感性ハ揺動シマシタ。脳波ニモ屹度、変化ガ出テイルハズデスノデ……第五話ノ書キ換エハ前ト違ウ結果ニナルデショウネ」
彼女の指に鋭く弾かれたキーボードは、次なる架空世界の記録を既に始め、終わっていた。
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