4冊目 涙の貯金箱

涙の貯金箱 ①

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 わたしたちは大金を手に入れたものの、それをすぐに使ったりはしなかった。


 それはコトラの流した涙そのものだったからだ。

 だがそれ以上に、わたしたちにはその有効な使い道が考え付かなかった。


 だからわたしたちは以前と同じように働き続けた。

 生活は相変わらずきつかったけれど、質屋に電子レンジを運ぶ必要はなくなった。それだけでも大きな前進だった。


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 そして二ヶ月が過ぎた頃、またもや三人でポーカーを楽しんでいたとき、ケンが突然妙な事を言い出した。


「あのさ、レンジ、あのお金でコトラを学校に行かせたらどうかな?」

 そう言いながら、ケンは慣れた手つきで手早くカードを配った。


「学校か……それはいいアイデアかもしれないな」

 わたしはそう答えた。そっと手札をみる。

 ツーペア! 悪くない。でもここはそのままのポーカーフェイス。


 コトラはもう七歳だった。この頃にはすでに義務教育が崩壊していたが、本来なら学校へ行くべき年頃だった。それにあのコウジが学校に通えて、コトラが行けないというのはなんだか悔しいことでもあった。すると、


「僕は行きたくないよ。一枚チェンジ」

 コトラはすばやく反論した。そしてチェンジのカードをそろそろと引き、顔をしかめた。


 でも要注意! コトラのポーカーフェイスはかなり上達しているからだ。


「僕は将来コックになるからさ、勉強なんてしなくても平気だよ。もう計算も出来るし、字も読める。それだけ出来ればじゅうぶんだよ」


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 コトラからコックになりたい、という夢を聞いたのはこれが初めてのことだった。


 かわいい弟が夢を持っていて、そのために頑張っていると聞くのは、わたしとケンにとってなんとも誇らしいことだった。


 あの小さかったムニャムニャが、いつの間にかこんなにも成長していたのだ。


「じゃあレンジ、お前はどうだ? なにか夢があるのか? 夢じゃなくても、なにかやりたいこととかあるか?」


 ケンはチェンジの札を三枚引き、そしてにやりと笑った。

 ここも要注意。ケンのポーカーフェイスは年季が違う。

 笑顔を浮かべながら、ブタの手でも吹っ掛けてくるのだ。


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 それはさておき。そんなことを聞かれてわたしはハタと困ってしまった。


 

 これまでは生きていくこと、この世の中で生き延びることだけを考えてきたから、そういうものがあることも忘れてしまっていた。


「そういうケンはどうなんだ? 僕は一枚チェンジ」

「オレは学校なんて嫌いだもん。勉強なんてたえられねぇよ。それによ、オレはおまえたちが幸せになるのを見ていたいんだよ。それが俺の夢なんだよ」


 その言葉を聞いてわたしの目から不意に涙が零れ落ちてしまった。ケンのそういう思いが、わたしの胸を熱く満たしたのだ。


「ケン、急にそんなこと言わないでくれよ……」

「おいおいレンジ、泣くなよ。お前が泣いたって、カネにならないんだから」


 ケンはそう言ってウインクし、私にカードを一枚よこした。


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 全くその通りだな。わたしは思わず笑った。


「……まったくその通りだよ」


 ちなみにあれからコトラに金の涙は流れなかった。理由は簡単。コトラが泣くということがなかったからだ。


 だが別に困ることはなかった。最初のお金ですら、結局まだ一円も使っていなかったからだ。


「ケン兄ちゃんの言うとおりだよ。さ、自信はないけど、ここまで来たら勝負っ!」


 コトラが最後の掛け金を積んで、カードを披露した。フルハウス。私はツーペアのまま、ケンはストレートだった。つまりコトラの一人勝ちだった。


 そういえば最近はコトラが勝つことが多くなった。ムニャムニャめ!


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「レンジ兄ちゃんが学校に行ったらいいと思うよ。頭もいいし、計算も速いし、本を読むのも好きだし」

 コトラは山のようなナットとワッシャーを両手で囲い込んで引き寄せた。


「そんな事言ったってなぁ」

 わたしが入るとすれば小学校の一年生からやり直しだ。しかも学校へ行くにはべらぼうにカネがかかるのだ。


「兄ちゃん、お金は僕が何とかするよ。だから学校へ行きなよ。そして偉くなって、お金をいっぱい稼いだら、今度は僕たちを助けてよ」

「そうだよ、レンジ。そうでもしないと、俺たちずっとこのまま同じになっちまうぜ」


「でもさ……」二人の気持ちはうれしかったが、わたしはためらっていた。


「だからお金のことなら大丈夫だって。僕、いっぱい泣くからさ!」


 コトラはにっこりと笑ってそういった。


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 かくして唐突にわたしの受験勉強が始まった。


 ヒダカ老人に頼み、コウジが捨てた教科書や参考書をもらってきた。

 わたしは掃除をしながら、それらを片っ端から頭に叩き込んだ。家に帰ると、コウジのお古のドリルを片っ端から埋めていった(コウジのドリルはほとんど真っ白だった)。国語・算数・理科・社会・英語に歴史と、どんどん知識を溜め込んだ。


 わたしの頭はそれまで使っていなかったせいか、それらをぐんぐんと吸い込んだ。不思議なことに勉強は楽しい感じがした。

 知らないことが、疑問に思っていたことが、どんどん明らかになっていくのが楽しかったのだ。


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 学校へ行くにはお金がいる。今のわたしにはその理由がよく分かる。


 知識というのはタダでは手に入らないのだ。

 海で魚を釣るのとは訳が違う。


 ここを自覚するのは結構大事なことだ。知識というのは誰かが発見し、現代まで受け継いできたものだ。それは人類の財産なのだ。それが財産である以上、誰かがタダで分けてくれるものではないのだ。


 そう、教育にはお金がかかる。その知識が希少であればあるほど、高い値段がついている。それは金と同じだ。珍しいから高いのだ。


 また脇道にそれつつあるようだ。悪い癖なのかもしれない。だが頭に浮かんだムニャムニャをすっきりしないことには、どうも先へ進めないのだ。

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