進化論と旅立ち ④

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 ちなみに、わたしがケンに思い出して欲しかったのは、近所のスーパーで出会ったときのことだった。


 その日、わたしは弟の牛乳と自分のお弁当を買いにきていた。

 そしてケンはお弁当を眺めに来ていた(後で聞いたのだが、ケンはスーパーで食べ物を眺めるのが趣味だったという)。


 ところが店員のおばさんがケンをつまみだした。


「邪魔だよ、買いもしないのに来るんじゃないよ!」


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 おばさんは店員でもありオーナーでもあった。たいていの人には愛想がよかったが、ケンのような貧乏な子供にはめっぽう冷たかった。そして持っていたモップで掃くようにしてケンを店から追い出した。


「なんだよ、見るぐらいいいだろ?」とケン。

「迷惑だよ、買わないなら店に入るんじゃないよ」


 ケンはしぶしぶあきらめた。そして両手をポケットに深く突っ込むと、長い髪を揺らし、とぼとぼと歩き去った。


 わたしはその背中を見送ってから、彼の眺めていたものを見た。

 それはカツ丼の弁当だった。


(あいつコレを食べたかったんだな……)


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 とにかく子供たちの間でケンは有名人だった。誰からの干渉も受けない自由のヒーローだった。わたしも彼にあこがれていたが、この時ばかりは彼に同情を感じた。


「おばさん、これひとつください」


 気がつくとわたしはその弁当をおばさんに渡していた。それはわたしの夕食になるはずだったが、その時はそんな事を考えもしなかった。そして弁当を袋に入れてもらうと、ケンのあとを走って追いかけた。


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 ケンは公園でブランコを漕いでいた。とくに寂しそうな表情や、悲しそうなそぶりはなかった。そしてわたしは彼の前に立ち、そのカツ丼を袋から取り出した。


「なんだよ?」とケン。不思議そうにわたしを見上げている。

「これ、あげるよ」とわたし。


「どうして?」

「君が見てたから」


「いいのか? 高いんだぜ」

「うん。あのさ、あのおばさんは、ヤな人だけど、店のお弁当だけはおいしいんだ」


「そうなのか? そうか、そんな気がしてたんだよ!」


 夕日に照らされたケンはなんだかとってもかっこよく、わたしは何だか照れてしまった。それでカツ丼を隣のブランコの板の上に乗せ、走り去ってしまった。するとすぐに後ろからケンの声が聞こえてきた。


「ありがとな! なんか困ったことがあったら!」


 そういわれたのがなんとも嬉しく、わたしはさらに加速をつけて走り去った。


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 それがケンのゴーストマンションの扉をたたく二ヶ月ほど前のことだった。


 その言葉でわたしはケンをすっかりアテにしていたと言うわけだった。


「そっかぁ、俺すっかり忘れたよ、じつはまだ思い出せないんだけどね」


 とは後にこの話を聞いたケンの感想である。


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 さて、それからわたしたちは三人家族になった。ケンが父親、わたしが母親、そしてツバサが子供という役回りだった。


 ケンはいろんな店で雑用のような仕事をしており、そこの大人たちからずいぶんと気に入られていた。それで店の残り物だとか、捨てるものだとかをよくもらってきた。それが僕らの食料だった。


 さらにケンは弟のために牛乳も貰ってきてくれた。それらはいつも賞味期限が切れていたけれど、食べられないわけではなかった。それどころかどれもおいしかった。たぶん三人で一緒に食べていたからだと思う。


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「レンジ、今日のかせぎだぜ」

「ありがとう、ケンちゃん」


 ケンはありがとうと言われるといつも顔を赤くした。当時のわたしには分からないことだったが、たぶん人から感謝されるということがなかったせいだろう。


「いいんだって、ツバサはもう寝たのか?」

「うん、赤ちゃんは大体この時間は寝てるんだ」


 弟が眠るとわたしたちはよくトランプをして遊んだ。ケンちゃんはじつに多くの遊び方を知っていて、それを次々とわたしに教えてくれた。七並べ・ババ抜き・神経衰弱、しばらくするとブラックジャックやポーカーなんかもやるようになった。


 なかでもわたしたちのお気に入りはブラックジャックだった。チップは近所の工場に落ちていたナットやワッシャーだった。それはたいそうたっぷりあったので、大勝負の時はそれを山のように積んだものだった。


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 本当に懐かしい思い出だ。


 そしてわたしがポーカーフェイスを習得できるようになった頃、たぶんケンちゃんと暮らして一年ほどたったときのことだったと思う、弟に新しい名前をつけることになった。


 もちろんわたしは理由を尋ねた。

「だって『ツバサ』って名前がもうあるんだよ?」

「知ってるさ、でもな、ここじゃそういう名前は良くないんだよ。ほら、金持ちっぽい響きがするだろ?」


「そうなの?」

「そうさ。最近はさ、このマンションにもやばい連中が入り込んでんだよ。浮浪者のおっさんならまだいいけど、チンピラみたいな若いやつが増えてんだ」


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 それはわたしも気づいていた。本当なら働いているような二十歳くらいの若い連中が五・六人も集まって暮らしていたのだ。そのくせ彼らはいい身なりをしており、夜になってもガンガンと騒音みたいな音楽をかけていた。


「あいつら何をするかわかんないんだ。ああいう奴らはさ、集団になるととたんに凶悪になるんだよ。気が大きくなるのさ、普段一人でいることが多いからな」

「誘拐とかだね」


「そうだ。ツバサはまだしゃべれないから自分の名前も分からないはずだろ。変えるなら今がいいと思うんだ」


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 もっともな話だった。

 ツバサはまだ「ダァ」とか「バブゥ」とか「キャハ」としかしゃべっていなかった。名前を呼んでも返事することはなかったし、わたしのことをお兄ちゃんと呼んだこともなかった。


「そうだね、でも何て名前がいい?」

「コトラってのはどうかな? 小さいトラでコトラ。かっこいいだろ?」


「コトラ……呼んでみようか?」

 わたしは試しにツバサをコトラと呼んでみた。するとツバサは実に嬉しそうな悲鳴みたいな声を上げてわらった。これだけ喜んでくれたのならもう決定だった。


「うん、コトラにしよう」

 こうしてツバサはコトラになった。


「でもさ、僕の名前は大丈夫?」

「ああ、お前はレンジで大丈夫。だって電子レンジのレンジなんだろ?」

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