0章の1
2014年3月11日、「今日のメールテーマは、東日本大震災から3年。記憶を風化させないためには、なにが必要だと思いますか?」との問い掛けが、カーラジオから不意に聞こえてきた。その瞬間から、家路へと向かっていた正平の頭の中には、3年前の千夏の後ろ姿が風船のように膨らんでいき、あの揺れとその後の日常の生活の混乱を重ねて思い出しながら、節電や災害への食料品や防災品の備蓄などをなにもしなくなった今の日常にも思い当り、あの震災を忘れつつある自分がいることを目の前に突き付けられた衝撃で、後ろの車にクラクションを鳴らされるまで青信号に変わったことに気がつかないぐらいに心と記憶とが揺れていた。あの頃、絶対に忘れるわけがないと思っていたことだけは鮮明に記憶しているけど、それ以外はたったの3年で忘れ始めて生活している自分がいて、それに気が付き始めている自分もいて、なにかをしないといけないと焦る自分の中に、誰かのために役立つことはなにもできないからとなにもしないでいる自分がいて、萎むばかりの記憶の風船の中で自分の不甲斐なさだけがバタバタと暴れまわる、そんな日々がしばらく続いていった。
ただ、正平も3年前を思い出した日から何もしていないわけではなかった。自分ができそうなボランティアのことだったり、そのためになにかを学ぶ必要があるかだったりを、暇があれば自宅のパソコンで思いつくままに調べてはいた。その影響だろうか、画面の一画に突然と資格受験講座の広告サイトが現れると、今後の自分の人生への不安な気持ちも手伝ってついクリックしてしまい、そこの勧誘サイトの動画で講師が言っていた「人がなにかをやろうとする時は、意外とできない理由ばかりを探して諦めていることが多いものです。でも、できない理由を探しても、あまり意味はないと思います。その時間に一つでも二つでも自分なりにやってみて、それでダメと感じたら諦めて別の道を探す方が有意義だと思いませんか?」と言ったその言葉が、妙に正平の心に響いてきた。なるほど、上手く勧誘するものだと思いつつも、言われてみればその通りかもしれないと感じた時、記憶の風船がパンッと音を立てて消えた。「なんでもいいからやってみたらいい。それがダメなら、そこからまた考えればいい。とにかくなにかを始めてみよう。まずは、そこからだ」という答えが正平の目の前に積み上げられていった。半年ぐらい、いや3年と半年ぐらい苦しんでいた問題の答えは、見つかってみればあっけないほどに単純すぎるものだった。
そして、自分自身が東日本大震災を忘れないようにすることを目的に、毎月11日前後の休みの日に、可能な限り海の近くを走って行けるところまで行ってみる、そんな旅を思いついた。単純だと言われればその通りとしか言うことができないし、それがなんのためになるのかと聞かれれば知らないと答えるしかないし、なにを考えているのかと怒られれば謝るしかないし、バカみたいと笑われたらひたすら笑い返すしかできないけれど、旅をしている間は自分があの震災を忘れないという目的だけは達成できる気がするし、終わっても忘れられないような印象的な旅になる可能性もなくはないし、なにもしなければなにも起きないけど、やればなにかが起きるかもしれないし。できない理由を探すことはやめることにしたのだから、思いついたらやってみるしかない。そう決めた正平は、旅にいくことを前提にしたリスクを考え始めた。近所を週1~2回5キロぐらいジョギングすることと、最長で20キロぐらいを2~3回走った経験しかない正平には、なにがリスクなのかもわからなったけど、とりあえずなんとかなるだろうと思い込むことにして、休みの日の天気予報と大まかなルート設定のための地図のチェックに取り掛かった。マラソンが42.195キロだから、最長で40キロを目安としたルート設定をして、あとはなるようになるだろうと高を括って旅のことを考えている時間は、いい方向の期待ばかりが膨らむ楽しい時間でもあった。
それと、万が一の時のリスクも可能な限りは回避しようと医療保険とランナー保険の見直しをして、ランナー保険の方はランクを上げた商品に加入し直した。そうなると、怪我の後遺症から仕事ができなくなり解雇されるという状況も想定できたので、そのリスク回避のために資格受験予備校の行政書士受験講座にも申し込んだ。法律の勉強でもしていたら、新しい就職先を探す時に有利そうだし、もしかしたら旅先で人の役に立てるかもしれないし、そんな法律関係の資格の中で一番取っつきやすそうだったのが行政書士だったという若干単純すぎる理由だったけど、「できない理由を探さない」を座右の銘にすることにした正平は、なんでもやるだけはやってみようという気力にだけは満ちていた。ちなみに、座右の銘にした言葉を教えてくれた講師のところではない学校を、金額だけを理由に選ぶあたりは、なんとも正平らしいところではあった。
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