第32話 彼にとって一番大切なもの

 昼前に東京の自宅に戻って来た私は、いろいろ考えた末、一条さんにちゃんと梨香子さんのことを聞いてみることにした。彼を信じたいと思う自分の気持ちに従ってみようと思ったから。


「あ。もしもし、一条さん?」

「何……」

「今、お家?」

「あぁ」


 だけど、何だか彼の態度がそっけない気がして、あっという間に決心が揺らぐ。


「あの……今から会えないかなって……」

「別にいいけど」

「えっと、じゃぁ、そっち行ってもいい?」

「あぁ」


 もしかして寝ていた? そう聞こうとしたのに、その暇さえ与えず、電話は切れてしまった。

 なんだろう……気のせいだろうか。一気に不安が込み上げて、慌てて彼の家に向かう。けれど、出迎えた一条さんは私を見るなり、「寝不足だから、昼寝するけどいい?」と言ってさっさと部屋に戻ってしまった。


 疲れているだけ、だよね……。

 彼の態度の冷たさが私への愛情が冷めたせいなのではないかと感じて、苦しくなる。


「お邪魔……します」


 部屋に入ると一条さんはソファにゴロンと横になった。

 腕で顔を覆うようにしているから、彼の表情が分からない。


「あの、何かあったの? すごく、疲れているみたい」


 堪らずそう聞いてみると、彼はチラッと私を見て、再び視線を逸らした。


「……お前、俺に対して何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「え?」

「あるなら言えよ。お前が何考えてんのか、ちっとも分かんねぇ……」


 ため息交じりにつぶやいた彼に動揺する。

 何……それ。どうして、そんなこと言うの。


「私だって……一条さんが何考えているのか、全然分からない」


 いろいろ溜まっていたものが、ポロリと口をついて出た。

 彼の表情が硬くなったのを見ながら、私は自分の言ってしまった言葉を後悔したけど、もう遅い。


「立花となら分かり合えるって?」

「なんで……そんなこと……」

「昨日、お前、あいつと一緒だったんだろ? 夜、お前の家に行ったんだよ……。いないから、ジムに戻ったら、随分前に立花がお前の事送って行ったって」


 見据えるように彼が私を見た。


「……携帯の電源切って、何していたの?」

「違っ……。いろいろあって、私の実家まで送ってもらって。携帯は充電器持って行っていなかったから、途中で電池が切れただけで……」

「いろいろって? どうして、俺に何も言ってくれなかったんだよ。なんでお前の実家に立花が一緒に行くわけ」

「……言えるような状況じゃなかったじゃない。一条さんは、他のことに頭がいっぱいで、私のことなんか何も考えていなかったくせに、こういう時だけ気にかけているようなこと言わないでよ!」


 あぁダメだ。違うのに、こんなこと言いたいわけじゃないのに。

 胸の中に広がった苦い思いに息が苦しくなる。


「何だよ、それ。俺が、ナナのところに行っていたからか?」

「違うっ! 私はそんなことを言っているんじゃないっ」

「だったら、何が気に食わないんだよっ。お前はいつも何も言わないから、言ってくれなくちゃ分からねぇよっ!」

「亮ちゃんは言わなくたって分かってくれる!」


 それは、言ってはいけない言葉だったけれど……。

 もう私の中に広がった不安や寂しさは抑えることなど不可能で、酷い言葉となって零れ落ちてしまった。


 驚いたように目を見開いて、強張った顔のまま私を見つめていた一条さんは、ふっと顔を背けてため息をついた。


「もういい。シャワー浴びて来る」


 怒りを抑えた低い声。

 彼は私を避けるように、部屋から出て行ってしまった。


 何やっているんだろう、私。あんなこと、言いたかったわけじゃないのに……。

 ひとり残された部屋で、ポロポロと涙が零れ落ちる。

 胸が苦しくて、これ以上、彼といたらもっと傷つける言葉を言ってしまいそうで、私は『ごめんなさい』と書置きを残して、その場から逃げ出した。


 マンションの前の駐車場を歩きながら、涙は止まらないどころか余計に溢れてきて……。

 ひっくひっくとしゃくりあげて泣いていたら、

「花!」

 と一条さんの怒鳴り声が聞こえた。


 振り返った私の前で、まだ髪が濡れたままの彼が息を切らして立っている。


「勝手に……書置きなんか残して、いなくなるなっ!!」


 悲壮とさえ言えるほどの表情で叫ぶように言った彼は、

「……俺を……置いて一人でいくな……」

 と弱々しくつぶやき、目を覆ってうつむいた。


「一条さん……」


 尋常じゃない彼の様子に、どうしたらよいのか分からない。


「大丈……夫?」


 彼に近寄り顔を覗き込むと、一条さんは私のことをギュッと抱きしめて、

「また大切な人を……失ったかと思ったじゃないか……」

 と震える声でつぶやいた。


「泣いて……いるの?」


 私を抱きしめたまま、彼は苦しそうに息を吐いた。


「妹……」

「え?」

「最後、あいつ、自殺したんだ……」


 ポツリと彼はつぶやいた。


「迷惑かけてごめんなさいって置手紙してあった」


 あぁ……。

 彼の心の傷を抉ってしまった。


「一条さん、部屋に戻ろう。髪濡れたままじゃ、風邪ひいちゃう」


 そう言うと、彼は黙ったままうなずいて、再び折れるほどにきつく私を抱きしめた。


◇◆◇


「何か温かいものでも入れようか?」

「いや、大丈夫だ……」


 部屋に戻った後、しばらく黙っていた一条さんは、「悪かった」と開口一番謝った。


「俺は、立花みたいに、お前の気持ちを全然分かってやれない。だけど、お前のことを大切だって気持ちはあいつに負けないつもりなんだ」

「一条……さん」

「だから、思っていることがあるなら何でも言ってほしい」


 切実な表情で言った彼に、知らずと涙が溢れ出した。


「私……不安なんです。一条さん、梨香子さんに会った時、彼女の左手に目を奪われたでしょ。指輪を確認したんだって思ったから、二人の過去に何があったんだろうって、もしかしたら、一条さんにとって彼女は特別な人なのかもしれないって、すごく不安で、心配で……」

「花……」


 一条さんは眉を寄せて、私を抱き寄せた。


「そんな風に思わせていたなんて気付かなかった。本当にごめん……」


 苦しげにつぶやく。


「指輪がないことに目を奪われたのは事実だ。だけど、それは、お前が思っている理由とはちょっと違う……俺のせいかもしれないって責任を感じたから」

「俺のせい?」

「あぁ。彼女は結婚していたんだ」

「それって……」


 彼は一度視線を落とした後、私の両頬を手で挟んで目を合わせた。


「今からちゃんと、本当のことを話すから、お前も聞きたいことがあれば全て聞いてほしい」

「……うん」

「梨香子さんは妹の主治医で、すごく世話になっていたけど、その時すでに彼女は結婚していたし、俺たちは医者と患者の家族という関係でしかなかった」


 話し始めた彼は、少しだけ苦しそうに吐息をついた。


「だけど、妹が自殺して、俺がボロボロの時、彼女が支えてくれて……それで、俺にとって梨香子さんは特別な人になった」


 あぁ、やっぱり、一条さんと梨香子さんは、特別な関係だったんだ。

 胸が苦しくなって思わずうつむいた私に、一条さんは気遣うように、一度言葉を止めた。


「いいよ。続けて。その後、どう、なったの……」

「俺たちはプラトニックな関係だったけど、彼女の旦那に二人の関係を疑われて、もう二度と会わないと約束した。それきりだ」

「まだ……彼女に特別な感情を……持っている?」


 涙声になってしまった私の前で、彼は静かに首を振った。


「でも、梨香子さんが現れた時……一条さんすごく動揺していたでしょ」

「あの時は、妹のことも含めて、昔の出来事が一気にフラッシュバックしたから、冷静じゃいられなかった。だけど、それは過去の感情だ」

「一番つらかった時、支えてくれた人だよ。そんなに簡単に割り切れるものじゃないと思う」

「あぁ、確かに彼女は俺にとっての恩人だし、特別な人だった。でも、これだけははっきり言える。俺にとって、今、一番大切なのはお前だから」


 切なげに眉を寄せて一条さんは私をじっと見つめた。


「さっき、お前がいなくなった時、全てを犠牲にしても、お前のことだけは失いたくないって思った。だから、もうお前を不安にさせるようなことは絶対にしない」

「一条さん……」

「明日、ナナにはっきり言うから。梨香子さんとも、もう会うことはない」


 きっぱりと、宣言する様に彼は言った。


「本当? 本当に私のことが一番大切?」

「あぁ、誰よりも何よりも大切だ」

「本当に私のことが好き?」

「この世でたった一人だけ。お前のことが好きだ」


 彼はそう言った後、私を胸に抱きしめて、愛していると囁いた。

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