(6)ー1

欧州――第13地区。13日目。



「そんでさー、もぅ、その人が無愛想だのなんのって! 電話越しでも、むすっとした顔が思い浮かぶくらいなんだぜ!」

 やれやれと大きく頭を振ってから、ジョージ・ハラルド少尉は肩をすくめた。デュカスはそれを、パンをちぎりながら聞いている。

「こっちが、「お元気でしたか」とか尋ねても、返事もしない! いや、きっと受話器の向こうでは無言で頷いてるんだろうけど、でもさぁ! そんなの、オレには見えないっての! 隊長に言われたとおり、宿の名前と電話番号を伝えたけど、返事もしないし復唱もしてくれないから、ちゃんと聞いてるのかどうか分かんないんだよ。いや、きっと黙々とメモを取ってたんだろうけど!」

 ぶちぶちと言う割には、相手のことをよく理解しているようだ。デュカスは口の中に放り込んだパンを飲み込むと、先日から気になっていたことを聞いてみる。

「ハラルド少尉は、その人と仲が悪いのか?」

 それに対し、ハラルドは複雑な顔になった。

「仲が悪い……わけじゃないんだけど、いいわけでもないかな。まぁ、オレにとっては昔の上官でさ。向こうはこっちのことを覚えてるかどうかすら、怪しいけど」

 フォークを握り締め、キャベツの酢漬けをつまらなそうな顔でつつき回す。

 二人は今、首都カストヴァールの旧市街にある、小さな食堂にいた。少しだけ路地裏を入ったところにある、地元の人間しか知らないようなこじんまりとした店だ。

 そこでデュカスは、この地域の名物料理である、野菜入りの煮込みスープを注文した。ハラルドがいち押ししたからだ。少し香辛料の癖はあるものの、彼の言うとおり、長時間煮込んだ野菜がスープの中に溶け込んでいるのが絶妙の味だった。

二人は、ハルトが役所での用事を終えて帰ってくるのを、仲良く待っているところである。

 今のデュカスには、難民申請とやらの手続きが必要だとかで、ハルトは連日、デュカスに代わって役所通いをしているのだ。ナンミン。いったい何のことやら、デュカスにはさっぱり分からないのだけれども。

 ハルトの口から第三十八地区の爆撃について語られてから、既に三日が過ぎた。その間もハラルドは、軍務の合間を縫って、こまめにデュカスの様子を見に来てくれている。日に二度も三度も顔を出すこともあった。ある時は手土産を携えて、ある時は今のように、食事に連れ出してくれて。

「オレが電話した相手――ロウ・ゲイラー大尉っていうんだけど、その人、かなりの変わり者でね。あの人とまともに意思疎通ができるのは、オレが知ってる限りでは、隊長ぐらいなんじゃないかな」

「へぇ」

 ハルトの部下には、そんな変な奴もいるのか。デュカスは妙に感心してしまう。

食事をしながらも、ハラルドは相変わらず一人でよく喋った。

「オレが隊長と出会ったのは、十九の時だったかな。えぇと、今から三年前か」

 そう言って、ハルトに関する思い出話を始める。

「オレは当時、陸軍の訓練学校を出たばっかでさ、言ってみれば新米中の新米だったわけよ。どんないかつい上官の下に就かされるのだろうってオレなりに緊張してたんだけど、いざ回されたのが、あの人んとこの部隊だ。正直、拍子抜けしたね。だってほら、隊長って、見た目だけで言えば優男だろ。目つき悪いけど。そんな、自分とさほど歳の変わらない優男が部隊長だって言われてもさ、なんかピンとこなくてね。今だから言えるけど、最初のうちはかなり舐めてかかってた。こんなやわそうな奴が上官で、ほんとに大丈夫なのかよ、ってな」

 あはははと、ハラルドは八重歯を覗かせて笑う。

「けど、部隊での訓練が始まってからは、そんな気持ちは一気に消し飛んだね。あの人の指揮する訓練ってのがさ、もぅ厳しいのなんのって。足腰立たなくなるまで走り込みをしたり、泥水の中に蹴り落とされたり、匍匐ほふく前進してたら後ろからケツを蹴られたり。あの人、足蹴りが多いんだよな。色々な意味で容赦ないし。オレなんて、何度泣き言を漏らしたことか」

 肩をすくめるハラルドに対し、デュカスは密かに同調する。デュカス自身が昔ハルトに剣術を指南してもらった時も、およそ子どもに対するとは思えないほどの仕打ちを受けたものだ。

「でも不思議とさ、オレも同じ部隊の奴らも、あの人のことを嫌いにはならなかったんだ」

 ハラルドの言葉に、デュカスは軽く目を見張る。あんなにも意地の悪い人間を、嫌いにならなかったのか。自分は、今でもあいつのことなど大嫌いだというのに。

デュカスの複雑な心には気付かず、ハラルドは続ける。

「訓練の時の厳しさとは打って変わって、普段の隊長はすげー気さくな人だったんだよ。まぁ、オレたちの部隊ってのが、ちょっとワケありでさ。隊長を始め、若い人間ばっかだったんで、訓練の時以外はみんな、部隊長とその部下っていうよりも、ダチ同士って感じだったかな。オレ、隊長の煙草にしょっちゅうイタズラしてたもん。色々な手を使ったぞ。一番傑作だったのが、シガレットチョコ事件! 知ってる、シガレットチョコ? 煙草と同じ形をしたチョコレートなんだけどさ、それをこっそり、隊長の煙草ケースの中に入れておいたんだよ。他の煙草に紛れ込ませてね。そしたら隊長、それがチョコレートだってことに気付かず、いつも通り火をつけちゃったんだよ! 当然、チョコレートは溶けるし、その溶けたチョコが服に垂れるしで、隊長も大慌てでさ。あの時の顔は傑作だったな。そのチョコを口にくわえたときに、匂いで気付けっての。なぁ?」

 同意を求められたので、デュカスは慌てて頷く。

「まぁでも、隊長はそういう冗談の通じる人だからさ、怒るよりもむしろ大爆笑してたよ。よくこんなイタズラ思いついたなって、オレ、肩を叩かれたもん」

 ハルトが大爆笑。あいつのそんな姿、想像もできない。デュカスの怪訝そうな表情からその考えを察したのか、ハラルドが苦笑する。

「あの人、今では陸軍の中でもちょっとした有名人でね。とにかく厳しいってことで、下の奴らからは怖がられてるくらいなんだけどさ。オレたちと――いや、正確にはとつるんでた頃の隊長は、もうちょっと人当たりもよかった気がするな」

 最後は独白のように、ぽつりと呟いた。そして顔を上げ、陽気な表情に戻る。デュカスに、食後のデザートはいらないかと尋ねてくれた。デュカスが首を横に振ると、ハラルドは話を続ける。

「当時のオレたちの部隊には、隊長の昔なじみの人たちがいたんだ。一人は、さっき話したロウ・ゲイラーって人で。もう一人は、そのゲイラーさんよりも前から、隊長とつるんでた人で。この二人と隊長と、三人揃った時のやり取りが、はたから見てたらほんと面白いのな。一見すると、会話が噛み合ってないようでちぐはぐなんだけど、なんか妙に息が合ってるっていうか」

 当時を思い出したのか、ハラルドは小さく笑みを漏らす。

「その人――ゲイラーさんじゃない方の人な、オレたちの部隊の衛生兵だったんだ。あ、衛生兵って分かるか? まぁ、言ってみれば、戦場でのお医者さんだ。前線に出た時、怪我した奴の手当てとかしてくれるんだよ。で、その衛生兵の人が、ほんと、度が過ぎるくらいに穏やかっていうか、優しすぎるっていうか。なんでこんな人が軍隊にいるんだよってなくらい、前線の殺伐とした空気とは無縁の人だった。それなりに軍歴を積んでるはずだし、腕も確かなのに、少しも偉そうなところがなくて。先輩風を吹かしたりせず、むしろ自分よりも下の奴らにまで細かく気を配るような、でもそのくせ、後から自分が神経性の胃炎になっちまうような。まさに、隊長とは正反対の雰囲気を持った人だったよ」

 目を細め、懐かしむようにハラルドは語る。

「だからかな、隊長もよくその人に絡んでいって、ちょっかいかけてた。隊長の八つ当たりの対象も、たいがいがその人でね。付き合いが長い分、気兼ねがなかったんだろうな。反対に、その人も隊長からの乱暴な振る舞いには慣れてるみたいで、時々、隊長に説教垂れてたくらいだ。煙草は体に悪いからやめろとか、部下にイライラをぶつけるのはやめろとか。あの隊長に説教するんだぜ? ある意味、最強だと思わないか? まぁ、何だかんだ言いながらも、隊長がその人のことをすっげー頼りにしてるってのは、いくら鈍感なオレでも分かった。それくらい、隊長にとっては大切な人だったんだ。けど――」

 そこでハラルドは言いよどむ。デュカスにも、彼が何を言おうとしているのかは、何となく予測できた。ハラルドの顔を見るのが気まずくて、思わず視線をテーブルの上、空になった料理皿の方へと落とす。

「けど、その人、死んじゃったんだよ」

 何気なさを装って発されたハラルドの声は、デュカスの胸を鋭く刺した。と同時に、姉の穏やかな笑顔が、脳裏を掠める。近しい人間を亡くす痛み。それは、生々しいくらいに理解できるもので。

「前線に出た時にな、ちょっとした事故があって。オレも、その場に居合わせてた。でも、オレにはその人を助けることができなかった」

 ちょっとした事故。ハラルドはそう言うが、本当は違うのだろう。「ちょっとした事故」で、人はそう簡単に死んだりはしない。彼の淡々とした口調に込められているのは、自責の念なのかもしれない。

 先日、ハラルドとハルトが車中で話していたのは、その人物のことだろうか。デュカスは顔を上げた。やや躊躇いがちに、訊いてみる。

「ハラルド少尉が、墓に花を供えた人って……その人のことなのか?」

 デュカスからの問いに、ハラルドは一瞬だけ、驚いた顔をする。しかしすぐに破顔した。

「ああ、あの時の話か。よく覚えてたなぁ。そうそう、その人のことだ」

 それから僅かに苦笑を混ぜると、目を伏せる。

「あの人はきっと、戦場に向いてなかったんだろうな」

 寂しそうに、ぽつりと呟いた。その表情は、先日、車の中でハルトとその人物の話をしていた時のそれと同じだった。

 戦場、という言葉は、デュカスにとっては少しも馴染みのないものである。しかしハラルドやハルトにとっては、非常に重きを置く空間だったのだろう。その中で、大切な人が命を散らしてしまうほどに。

「あれは……そう、二年くらい前のことだ。早いよなぁ、もう二年も経っちまった」

 二年前。ちょうど、ハルトからの連絡がぱたりと途絶えた頃であることに、デュカスは気付く。と同時に、姉の小さな後ろ姿が思い出される。届かぬ便りをずっと待ち続ける、姉の寂しげな後ろ姿が。

『戦況も厳しくなってきたし、手紙を書いたり読んだりしてる暇なんてないのよ、きっと』

 そう言って、無理やりに笑顔を浮かべる姉。ハルト本人からの連絡が絶え、彼の戦死通知に怯える毎日の中、姉はただただ、一縷の希望に縋っていた。

『ほら、〝便りがないのはよい便り〟って言うし』

 希望――否、姉は信じていたのだ。ハルトが必ず戻ってくることを。そしてデュカスは、そんな姉をずっと傍で見ていた。

 あいつさえ。ハルトさえ、帰って来れば。

 幾度となくそう思った。ハルトが帰って来さえすれば、姉があんなにも悲しい顔をしなくて済むのだ。それは分かっていた。痛いほどによく分かっていた。だからこそデュカスは、連絡の一つも寄越さない自分勝手なハルトに対して、強い憤りを覚えていた。

 しかし。

 デュカスは再び顔を上げ、目の前のハラルドを見やる。

 ハルトには、デュカスや恋人のカヤが知らないところで、様々な時間が刻まれていたのだ。

 だから連絡が途絶えていたのも、彼なりの理由があるのかも、しれない。漠然とだが、そんなことを思った。

 デュカスの考えを察知したかのように、ハラルドがくしゃりと笑う。よくできました、そう言われているような気がした。

「隊長って、口は悪いし、ものすごく言葉足らずなとこもあるけど、でも、そんな隊長を慕ってる奴はたくさんいるんだ。隊長にとってだって、大切なダチや仲間がたくさんいるんだ」

 デュカスはこくりと頷く。不思議と、ハラルドの言葉を素直に飲み込めた。

 そうだ、あいつが言葉足らずなのは、何も今に始まったことではないじゃないか。昔からあいつは、肝心なことはおろか、自分自身のことさえも、自ら進んで話すような奴ではなかったじゃないか。

 そして、ふと思う。

 再会してからのことにしても、ハルトの考えや意図について、彼が教えてくれないのではなく、もしかしたら、デュカスが聞こうとしていないだけなのかもしれない。

 ハラルドとは、食堂を出たところで別れた。一人で宿に戻り、そしてほどなくして、ハルトも部屋に帰って来た。相変わらず、彼との間に会話は生まれなかったが、そのハルトの姿をみとめた時、今までとは少しだけ違った認識でもって彼を眺めていることに、デュカスは自分でも気付かなかった。

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