(5)ー6
石造りの洒落た店舗が立ち並ぶ中、埃にまみれた深緑色の無骨な車体は、周囲に溶け込むことなく存在が際立っていた。
陸軍のものをちょっと拝借してきたというその車は、片方のサイドミラーは折れて傾いているし、もう片方のサイドミラーには銃弾がめり込んで、まったく使い物にならなくなっている。しかしハラルドは、そのようなことなど気にもせずに、軽快にハンドルを切る。
「ああそうだ、隊長。エディ……じゃない、コネリーの奴はどうでした? ちゃんと隊長のお役に立ちましたか?」
「お前なぁ……。仮にもあいつは、お前の上官だろうが。階級くらいつけて呼べ」
呆れたように呟くハルトに、ハラルドはハンドルを握りながらも肩をすくめて見せる。
「あいつとは学生時代からの腐れ縁ッスもん。軍務外ではいつも、こんな感じッスよ」
エドワード・コネリー中尉。
デュカスは、例の柔和な軍人を思い浮かべる。軍人なのに、えらく低姿勢で、朗らかな空気をその身に纏った青年。彼のおかげでデュカスたちは、テト村が襲撃されるに至った経緯について知ることができた。コネリーをデュカスたちの元へと派遣したのは、この八重歯男だったのか。
ハルトからの咎めに対しても、全く反省する素振りを見せないハラルドに、ハルトも諦めたのか、それ以上の追随を避ける。
「コネリー中尉な。あいつには世話になった。お前にあんな品のいい旧友がいたなんて、驚いたけどな」
「えー、どういう意味ッスか、それー? ひでぇや」
車の進行方向から目を逸らさぬまま、ハラルドは憮然とした表情をして見せる。そこでちょうど、前方の信号が赤になった。やや乱暴にブレーキが踏まれ、車は停車する。後部座席のデュカスは思わず前のめりになるが、前の二人は慣れているようで、落ち着いて座っている。
ハラルドがハンドルに上体を預けた姿勢で、右側の助手席に座るハルトの方を向いた。
「それよか隊長ぉー、
お決まりの、八重歯を覗かせて笑う。ハルトはそれに対し、すぐには答えなかった。ハラルドが怪訝そうに首を傾げたところで、ゆっくりと口を開く。
「悪いが……その期待には添えられない。オレはもう、軍を抜けた身だからな」
「へっ!?」
素っ頓狂な声が、辺りに響き渡った。その直後、後続車両からクラクションが鳴らされる。信号は既に青になっていた。
慌ててギアを変えて発進をしながらも、ハラルドは横目でハルトを見やる。
「軍を抜けたって……い、いつ!? いつッスか!?」
「正式に退役届を出したのは、二週間ほど前だ」
「えっ、いや、ちょっと待ってくださいよ。隊長が軍を抜けた? 鬼のシュタイナーと呼ばれた、この隊長が? 何でまた?」
納得がいかない様子のハラルドに、ハルトは苦笑を返した。
「お前と同じだよ。内勤の退屈さに嫌気がさしたんでな。前線ばかりってのもかなり気が滅入るが、毎日書類と睨みあうよりはマシかもしれねぇな」
その言葉に、ハラルドはげんなりした表情で同意する。
「……確かに。終戦からこっち、中での仕事しか回ってこないんッスよね。表に出る仕事って言ったら、オレは一回だけ、戦場からの引揚げ部隊の引率を任されたくらいかな。あとはひたすら、紙との格闘! それから会議! いい加減、飽きてきますよね」
「戦争そのものはもう終わったからな。前線に出る理由もない。あとに残るのは、事後処理ばかりだ。階級が上に上がるほど、内勤の割合が多くなるぞ。覚えておけ」
意地の悪い笑みを浮かべるハルトを見て、ハラルドはますますげんなりした顔になった。軽く嘆息する。
「変な話だけど、前線にいた頃の方が、自分の居場所がはっきり見えてた気がするッス。命のやり取りはあるけど、その分、やるべきことが分かりやすかったし。何だかんだで、オレや隊長みたいな人間には、前線の方が向いてるのかもしれませんね」
「違いねぇ」
言って、二人は顔を見合わせた。そしてくつくつと笑い出す。
そんな二人を、デュカスは後部座席から眺めていた。
ハルトが――笑っている。
あいつでも、こんな風に笑うことがあるのか。
当たり前のことなのだが、何だか不思議な気分になった。デュカスが彼と再会してから見た表情はといえば、眉間に皺の寄ったものばかりだ。あるいは、苦い笑みか。
先日、コネリー中尉とハルトの会話を見ていても思ったことなのだが、軍の人間と話している時のハルトは、デュカスにはまるで知らない人間のようにさえ見える。
そのように思われているとは気付きもせず、ハルトは懐から煙草を取り出し、火をつけた。その一連の動作をデュカスは目で追う。自分にとって、ハルトが煙草を吸う姿というのは馴染みのないものだ。少なくとも八年前、戦場へと赴く前のハルトに、喫煙の習慣はなかったはずだ。
そして――と、デュカスは斜め後ろからハルトの額を見やる。
村で再会した時には気付かなかったが、彼の額には、横一文字に走る傷跡があった。古いもののようだし、普段は前髪に隠れていて見えにくいが、その長さは五センチほどもある。これも、八年前にはなかったものだ。
自分の知らない、空白の八年間。彼の恋人である姉でさえも知らない、八年間分のハルトが、今、目の前にいる。姉がどれだけ待ち望んでいても会うことのできなかった男が、今、自分の目の前にいるのだ。
デュカスの視線に気付いたのか、ハルトが片眉を上げた。後部座席を振り返ると、
「お前も吸うか?」
デュカスは即座に首を真横に振る。
「ふん、お子ちゃまなところは変わってねぇな」
紫煙を吐き出しながら、こちらを見下ろすような角度でハルトがデュカスに視線を定めてくる。
その口の端には、何が楽しいのか分からないが、微かに笑みが浮かんでいる。先ほどハラルドに見せていたのとは、全く違う種類の笑みだ。
ああ、この顔の角度。これには非常に見覚えがある。かつて幼い頃、嫌というほどこの角度で見下ろされ、そしてこの表情に罵られた。
ハルトのその表情に、そして彼の発言そのものにむっとしたデュカスは、自分なりの精一杯の反撃に出る。きっ、と目の前の男を睨み据えながら、できるだけ低音で呟いてやった。
「煙草は、体に悪いんだぞ」
しかしそれでハルトを言い負かすことなど、できるはずもない。
「知ってる」
しれっと呟いたハルトは、横を向いてから煙を吐き出すと、車窓から煙草の灰を落とす。その慣れた手つきは、彼が今までにもう何度もその仕草を繰り返してきたことを物語っていた。ハルトにとって、煙草を吸うということは、日常的な習慣となっているのだろう。
デュカスのささやかな反撃に、運転席のハラルドは遠慮のない笑い声を響かせた。
「あははは、久々に見たなぁ、隊長が煙草のことで叱られてる姿。隊長に意見できる人間なんて、なかなかいないもん」
自分のことを棚に上げて、そんなことを言う。ハルトも少しだけ苦笑を浮かべると、進行方向に座り直し、それから遠くを見るような目で窓の外へと視線を移す。
「……昔は、逐一口うるさい奴がいたんだけどな」
何気なく呟いたハルトのその一言で、ハラルドの顔からふと笑顔が消えた。
てっきりまた軽口を返すものと思っていたら、彼は僅かに顔を歪め、そして口をつぐんでしまった。余計なことを言った、と悔いているように見えた。ハルトも窓の外を見やったまま、それきり何も言わない。
そして流れる、奇妙な沈黙。
その意味が分からず、デュカスは前に座る大人二人を交互に見た。彼らの間に、やや気まずさを孕んだ空気が生まれたのが、何となく分かった。
ジープのエンジンが唸る音だけが、三人の間をすり抜けてゆく。
その空気を振り払おうと再び口を開いたのは、やはりハラルドの方だった。まるで天気の話でもするかのように、明るく、のんびりとした口調で。
「隊長、オレ……ついこの間ね、あの人の墓に花を供えてきましたよ」
ハルトの背中がぴくりと動いたのが、後部座席に座るデュカスには分かった。
「ようやくッス。戦争が終わってようやく、挨拶しに行ってきました。行くまでに、二年もかかっちゃったけど」
ハルトは黙って聞いている。誰の――話なのだろう。
ハラルドは元上官の横顔をちらりと見やると、言葉を続ける。
「隊長は、行ってあげないんッスか? きっと寂しがってますよ、あの人。隊長の顔見たら、喜ぶんじゃないかな」
穏やかに話す元部下に、ハルトは微かに苦笑を向けた。空を振り仰ぐ。
「そうだな。そのうち、あいつの嫌いなピクルスの酢漬けでも持って、顔を見せに行くのもいいかもな」
「えぇっ! 隊長、それってすっげー嫌がらせ!」
そして二人して笑う。
ハラルドの言うところの「あの人」というのは、一体誰のことだろう。どうやらもうこの世にいない人間なのだろうということだけは、デュカスにも分かった。
しかし今、その人物について二人に尋ねる気にはならなかった。容易に踏み込んではいけない気がした。これもまた、自分の知らない八年分のハルトの一部、なのだろうから。
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