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 ラウルが女と遭遇する、その三十分ほど前のこと。



 欧州陸軍エリヤ・フォスター軍曹(二十六歳)がその騒動に巻き込まれたのは、まさに不運としか言いようがなかった。

 そもそも、その日は朝からついていなかった。

 目覚まし時計が壊れていたせいで、十五分ほど寝坊した。寝癖のついた髪の毛もそのままに、慌てて身支度をして練兵場へと直行したのはよかったのだが、朝食を抜いてまで訓練に間に合わせたというのに、同じ小隊の阿呆が一人、堂々と遅刻してきた。連帯責任として、フォスターの小隊はグラウンドを十周走らされた。戦時中ならば、三十周は走らされていただろう。結果的に走らなければならないのなら、自分も遅刻してやればよかったと、走りながら思った。そうすれば、朝飯くらいは食えただろうに。

 朝飯を食いはぐれた分、昼飯を腹いっぱいに収めてやろうと思ったのに、その期待は外れた。いつもながら、食堂の献立と量の極寒ぶりには、涙が出そうになる。

 おまけに、食堂でたまたま相席した男がスープに塩を入れるという暴挙に出たため、そいつに塩を手渡した張本人であるフォスターは、同じテーブルについていた全員から非難を食らった。あろうことかその塩スープを真似た奴がいたのだが、そいつが、「そもそもどうしてあの男に塩を渡したんだ」などと、フォスターに詰め寄ったためだ。なんたる理不尽。なんたる濡れ衣。塩スープなど、美味いわけがあるはずない。分かりきったことだ。それをわざわざ真似する奴が阿呆なのだ。文句があるにしても、塩スープを美味いとのたまった本人に言えばいいではないか。自分が非難を浴びる謂れはない、そう訴えたのだが、多勢に無勢とやらで、フォスターの意見は黙殺された。

 午後の訓練が終わった後は、朝に遅刻してきた奴と、やはり同じ小隊の人間全員が練兵場に残され、整備班の仕事を手伝うようにと言われた。なんでも、フォスターたちの部隊をまとめる大尉殿が、整備班の某と賭けをし、賭けに負けた代償として戦車の燃料補給を手伝う約束をしたというのだ。

「なぁに、これも立派な訓練のうちだ」

 そう言ってがはははと笑っていた大尉自身は、訓練が終わるや、さっさと帰宅してしまった。いわく、「かわいい娘が待ってるからなぁ」ということだった。

 そういうわけなので、独り者の若いフォスターたちは、油にまみれて悪戦苦闘する羽目になったのである。しかも、延々五時間も。間に夕食を挟んだとは言え、耐えがたい残業労働だった。整備班の奴ら、この日のために補給業務を怠っていたとしか思えない。戦車三十台分とは、よくもそこまで放置していたものだ。戦時中ならば、怠惰で済まされる問題ではないだろう。

 途中、整備班の連中との間にちょっとしたいさかいもあったものの、先ほどようやく、無事に全ての作業を終えたところである。

 まったく、朝から散々な一日だった。せっかく洗濯したばかりの野戦用ジャケットも、既に泥だらけの油まみれだ。こんな日は、酒を飲んで寝るに限る。部屋に戻ったら、同室の男に一杯付き合ってもらうか。

 朝方よりもさらにぼさぼさになった赤毛を掻き回しながら、盛大な欠伸あくび をしつつ、フォスターは兵舎への道を急ぐ。しかし。

 突如、暗がりから複数の人間が走り来るのが見え、ぎょっとなって思わず立ち止まった。

 必死の形相でこちらへとやって来るその集団は、皆、自分と同じ陸軍支給のカーキ色ジャケットを着ている。その肩口に縫い付けられた階級徽章きしょうは「少尉」のもの。全員がまだ若いとは言え、軍曹であるフォスターから見れば、上官に当たる。フォスターは慌てて欠伸を噛み殺し、彼らに道をあけようと飛びすさった。

 先に声をかけてきたのは、少尉集団の方からだった。

「おい、お前! そのまま動くな!」

 厳しい命令口調で言われ、反射的に体がぴんと強張る。直立姿勢のまま、言われた通り、微動だにせぬよう努める。

「所属と名前は?」

 フォスターに近付いてきた、隊長格と思われる少尉殿は、呼吸も乱さずにそう尋ねてきた。そのことに半ば本気で敬意を表しつつ、フォスターは敬礼をとって答える。

「第七歩兵師団所属、エリヤ・フォスター軍曹であります」

「中隊長の名は?」

「ガイ・マッキンリー大尉であります」

「マッキンリー大尉か……。お前、偽者じゃないだろうな」

 探るような視線を投げかけられた。偽者。決して友好的ではないその言葉の響きに、フォスターは僅かに眉をひそめる。

「何か――」

 あったのですか、と尋ねようとしたその刹那、頭上から、けたたましいくらいの勢いでスピーカー音が振ってきた。耳をつんざくような高音で、夜の大気を震わせる。緊急警報だ。続いて、陸軍敷地内の随所に設置された非常用照明が、次々と点灯してゆく。十秒も経たないうちに、辺りは昼間の如き明るさを呈した。

 フォスターが呆気にとられて頭上を仰いでいると、目の前の少尉殿は、明るくなった周囲に厳しい視線を配りながらも口を開く。

「侵入者が出た」

「えっ」

「研究所の地下に潜んでいたらしい。現在も逃走中だ。まだそう遠くへは逃げていないはずなのだが……」

 言いながら、ちらりとフォスターの方を見やる。なんだか嫌な予感がした。おいおいまさかな、まさかとは思うが、まさかな。フォスターは祈るような気持ちで、少尉殿の次の言葉を待つ。しかし悲しいかな、嫌な予感ほどよく当たるものである。

「フォスター軍曹、お前にも捜索の応援を頼む」

 ああやっぱり。フォスターは、内心がっくりと肩を落とした。

 欧州陸軍では、少尉以上の人間を「軍人」と呼び、少尉のその下、曹長以下の人間を「兵士」と呼んで区別する。両者を隔てる壁は、かなり厚い。ちなみにフォスターは後者であり、フォスターのことを呼び止めたこの男達は前者に当たる。

 「軍人」階級である目の前のこの集団が、特権層の象徴である軍服ではなく、普段着の野戦用ジャケットを羽織っているということは、彼らもまた、就寝前のところを無理やりに駆り出されたといったところだろう。

 半ば同情を覚える反面、だからっておれまで巻き込まないでくれよという切実なる思いを抱きながらも、フォスターは神妙な顔を作っておとなしく頷いておいた。侵入者が出たとなれば、事態は急を要する。第一、兵士階級のフォスターにとって、軍人階級からの命令など断れるはずもない。

 そっと腕時計を見やる。とっくに日付変更線は越えていた。「仕事の後の一杯」は諦めるしかないようだ。心の涙を流すフォスターには気付かず、少尉殿は早口で先を続ける。

「目撃されている侵入者は、今のところ一人。若い男だ。髪の色は黒に近い茶、中肉中背で、紛らわしいことに陸軍のジャケットを着ているらしい。階級は、伍長の袖章で」

 言って、自分のジャケットの肩口をつまんで見せる。

 とび色の髪、欧州陸軍のジャケット、伍長階級。一瞬だけ、フォスターの中で何かが引っかかった。しかし別段気にも留めず、話に耳を傾ける。

「我々と同じジャケットを着てはいるが、陸軍内部の者かどうかはまだ不明だ。あと、これはかなり大きな特徴なのだが、その男、右腕がないらしい。隻腕ということだな。研究所の職員が相手と接触した際、右腕だけ手ごたえがなかったそうなんだ。……まったく、接触したならその場ですぐに捕らえてくれればいいのに」

 これだから研究畑の人間は…と、少尉殿は軽く毒づく。予想だにしない事態に巻き込まれ、彼自身も混乱しているのだろう。

 少尉殿のぼやきはさらりと聞き流しつつ、フォスターは今伝えられた情報から、自分なりの「侵入者像」を思い描いてみようとした。そして。

「あ」

 思わず小さく呟く。

 鳶色の髪、欧州陸軍のジャケット、伍長階級、そして隻腕。引っかかるのも無理はない。その人物とは、よもや――。

 背中を、嫌な汗が流れる。

「どうした?」

 目の前の少尉殿が、怪訝そうな顔でフォスターを覗き込む。フォスターは慌てて首を横に振り、何でもありませんと答えた。答えたが、彼の脳裏には既に、一人の男の顔が浮かんでいた。

 鳶色の髪、欧州陸軍のジャケット、伍長階級、隻腕。今日の昼間。食堂。突然に会話に入ってきた男。右腕から三角巾を吊るして。そう、スープに塩を振りかけていて。人好きのする、しかしどこか掴めないあの男。あの男に塩を手渡したのは、他でもない自分で。

 芋づる式に、様々なことを思い出す。あの伍長の名前や所属は、確か――。

「侵入者は複数の可能性もある。武装しているかもしれないので、くれぐれも注意するように」

 少尉の言葉で、フォスターは我に返る。

「承知しました」

 再び敬礼を取ると、それを認めた少尉殿は頷き、背後の同僚にいくつかの指示を出した後、走り去っていった。

 その背を見ながら、まさかな、と小さく呟く。そうだ、まさか、あのへらへらした男が「侵入者」のはずはない。しかし。

 しかしあの男の素性は、結局、あの場にいた誰にも分からなかったのだ。

 フォスターは人知れず苦い笑みを浮かべる。

 ちらりと視線を上げると、警報の鳴り響く中、照明に照らされた陸軍の敷地内を、軍人や兵士が右往左往する姿が目に入った。先ほどよりも、人員が増えている。まさに人海戦術だ。

 そうだ、これだけの大人数で探しているのだから、万が一あいつが犯人だったとしても、すぐに見つかって捕らえられるだろう。フォスターはそう思うことにした。

 そうだ、まさか、この騒ぎの只中で報告できるはずもない。自分はその「侵入者」と、本日の昼日中に接触していた、などとは。

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