避暑

-本編が始まる約1年前の話-




 自分としては、無理難題を強いてきたつもりもない。そこに任務があった、だからやれと命じた。任務を達成するためには最善で効率的な手を尽くしてきた。ただそれだけのことだ。

 その過程で不服を唱えて子どもじみた反発をする者がいれば、文字通り蹴り飛ばした。あるいはついて来なくていいと命じた。非協力的な人間がいればいるほど、任務の成功率は格段に下がる。それは即ち、他の部隊員の生死をも左右する。総勢五十名前後の中隊を預かる中隊長として、その分水嶺は守らねばという自負くらいはある。

 しかしこちらの気負いなど、第三者の知るところではない。陸軍内での自分の評価が様々あることは聞き知っている。「鬼のシュタイナー」――、そんな不穏な二つ名が囁かれるようになってから、はや幾年。恋人を村に残して軍籍に入ってからは、七年の歳月が流れていた。




「そう言えば、第三番中隊の隊章図案って決まりましたか?」

 広報の職員に尋ねられ、ハルト・シュタイナーは思わず渋面になった。場所は欧州南部第四地区。砂埃にまみれたテントが林立している、野営地でのことだ。

 尋ねてきた男は、ハルトと同じカーキ色の野戦服に身を包んではいるが、肩からは銃火器の代わりに、無骨な形をしたカメラを提げている。最前線の兵士たちの奮闘ぶりを、後方勤務の人々や一般市民に伝えるのがその役割である。らしい。

「……は? 図案? 一体何の話だ?」

 ただでさえ上背のあるハルトが仏頂面になると、それだけで怯む人間は多い。が、相手は広報課、かつては一方的にハルトの写真を激写し、あまつさえその写真を無断で士官募集用ポスターに採用したほどの強者だ。ハルトの眉間に寄った皺にも臆することなく、けろりとした顔で答えを寄越す。

「部隊の再編に合わせて、新しい隊章を作るところが多くて。シュタイナー隊も作成すると聞きましたけど……あれ、シュタイナー大尉はご存知なかったのですか?」

「誰がそんなことを…」

「トールキン少尉の発案だそうですよ」

 男の口から上った名前に、ハルトは得心する。

 リチャード・トールキン少尉。快活、豪胆で知られ、誰彼構わず話しかけては隊の士気を奮い立たせるのが上手い男だ。なるほど確かに彼ならば、そういった提案を思いつきそうである。

「発注をかけるなら、今月末が集約の締め切りですから。僕の方でまとめて総司令部にお願いするんで、形や大きさを描いた図案を提出してくださいね」

 男は一方的に言い置くと、ハルトの返事を待つことなく去っていった。小さくなる彼の背中を見送りながら、ハルトは小さく舌打ちする。

 新しい隊章。そんな面倒なもの、誰が作るものか。第一、大の男が揃いの絵柄を身に付けるなど、そんな浮ついたことできるはずもない。

 なにより、ハルト自身はトールキンから何も聞いてはいない。ここ数日は作戦任務中だったこともあり、トールキンも、隊の若者たちを奮い立たせるための冗談でも吹いていたのだろう。

 そう、思っていたのだが。




 司令官用のテントに戻ると、入り口のところに件のトールキンが立っていた。金髪を短く刈り込んだ大男が後ろ手を組んで待機している様は、さながら厳格な門番のようだ。しかしハルトの姿に気付くと、表情を崩して敬礼を取る。

「シュタイナー中隊長、おつかれさまです」

 それに対し、ハルトも軽く手を挙げて応えた。テントの中に入ると、その後をトールキンもついてくる。

「隊の奴らの様子はどうだ?」

 問うと、返ってきたのはさっぱりとした笑い声。

「いやー、この辺りの暑さに慣れていない奴が多くて。作戦が終了して気が抜けたのか、皆、冷たいアイスクリームが食べたいと嘆いていました」

「ガキかよ……」

「バテられたら困るんで、休息中であってもこまめに水分を補給するように指示してあります」

「助かる」

 司令官用のテントは複数の部隊で共用している為、他のテントに比べると広く、天井もやや高い。木製の作戦机を中央に据え、その周囲を木箱で作られた即席の棚が取り囲んでいる様子は、さながら簡易執務室だ。棚の中には、誰かの汚れたヘルメットや装備品が無造作に放り込まれていた。

 ハルトは作戦机に腰を預けると、胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥える。ライターで火を点けるとすぐさま煙を吸い込み、そして吐き出した。嗜好品として味わうための行為ではない。もはや習慣だ。

 ハルトが紫煙をくゆらせる姿をしばし見守ってから、トールキンが再び口を開いた。

「大尉、我が中隊の今後のことについて、一つ提案があります」

 その言葉に、ハルトは無言で顎をしゃくって先を促す。

「まずはこれを……」

 言いながらトールキンが懐から取り出したのは、折り畳んだ数枚の紙束。ハルトへ手渡すと、中身を確認するよう、目で訴えてくる。

 促されるがまま、咥え煙草の状態でハルトは紙面を開いた。そこにあったのは、様々な形の図柄たち。円の中に動物が描かれたものもあれば、星型の図形の中に番号を書いただけのものもある。絵の巧拙が様々なので、複数の人間によって描かれたものと見て間違いない。

 ハルトはぱらぱらとめくって内容に視線を走らせ、そして深く嘆息する。

「駄目だ」

「えっ、俺、まだ何も言ってませんよ」

 驚いたように目を丸くするトールキンに、ハルトは手にした紙面を軽く叩いてみせる。

「これは隊章の図案だろう。揃いのを作るつもりだと聞いたが、オレは反対だ」

「さすがシュタイナー大尉、お耳が早い。して、反対される理由は」

「隊章を作ったところで、作戦効率が上がるわけでも、ましてや生存率が高くなるわけでもない。むしろ、隊章の生地の分だけわずかでも服が重くなる。水を吸おうものなら最悪だ」

 即答するハルトの言葉に、トールキンは「なるほどなるほど」と首肯する。

「でもね、大尉。隊章があれば、新しく入ってくる奴でも自分はこの中隊の一員なんだっていう自覚が持てるし、隊の団結力にも繋がると思うんです。先日も部隊の再編成があったところですから、新顔には少しでも早くうちに馴染んでもらう必要があります。新旧問わず、隊員の団結力を高めておくことは、作戦成功の大きな鍵になると思いませんか?」

 尤もらしく説明を重ねるトールキン。そんなものに頼らずとも団結せねばならんだろうと思ったが、ハルトは黙っていた。団結力の欠如は即ち、中隊長であるハルト自身の指揮官としての力不足を意味している。

 沈黙を守るハルトの思考を読み取ったのか、トールキンが慌てて大仰に両手を振って付け加えた。

「もちろん我が第三番中隊は、陸軍の中でも屈指の団結力を誇っていると自負しています。それはひとえに、シュタイナー大尉の厳格な統率のおかげです。他部隊の奴らの中でも、シュタイナー隊に一目置いてる人間は多いと聞きます。しかし、だからこそ、今回の部隊再編成での転入者たちの中には、既に完成されている集団に入っていくことに抵抗を覚える者がいてもおかしくありません。――ただでさえ、大尉はおっかなくって誤解を受けやすいのに」

 最後は肩をすくめ、そしてにやりと笑ってみせる。しかしハルトの心は動かない。

「そんなもん、揃いの隊章くらいでどうにかなるようなもんでもないだろう。本人の気構えの問題だ」

「そうですかねぇ」

 トールキンが残念そうに呟いたところで、テントの入り口に影が落ちた。室内が暗くなり、ハルトもトールキンも顔を上げて影の主を見やる。

 二人の視線の先には男が立っていた。鳶色の髪に、二人と同じカーキ色の野戦服を着た姿ではあるが、表情のない顔でぼんやりとこちらを見ている。

 トールキンが、男に向かって軽く敬礼を取った。そして破顔する。

「ゲイラー中尉、どこにいたんですか? 探してたんですよ」

 トールキンからの問いに対し、男は少しだけ首を傾げ、そして短く答えた。

「……野暮用」

 ぼそりと呟くその声は、抑揚に欠けた平坦なもの。表情が乏しいのもいつものことだ。

 ロウ・ゲイラー。第三番中隊の副隊長を務める男であり、ハルトにとっては腐れ縁の仲でもある。

「どうした、何か用か」

 問うと、ロウは僅かに視線を上げた。

「ハイマン大佐が呼んでる」

 今作戦の指揮官である男の名を告げられ、ハルトは眉をひそめる。今朝方終了した作戦行動についての報告ならば、既に済ませたはずだ。

 ハルトの怪訝な表情を察したのか、ロウは憮然とした顔のまま「いや、」と呟き、そしてこう続けた。

「次の任務があるそうだ」




 戻ってきたばかりなのに申し訳ない、との前置きをした上で、連隊指揮官のハイマン大佐はハルトに次の作戦任務を下命した。いわく、第三番中隊は田園地帯を抜けて隣町まで進み、橋の復旧作業を手伝えとのことだった。

 町そのものは既に友軍が制圧し、襲撃の脅威はない。住民の救助活動も始まっているらしい。ただ、制圧前に行われた市街戦の影響で、その町に入るための橋が落とされてしまい、物資や人員の行き来がままならない状況なのだという。

 その橋を復旧させて作業を進めやすくするのが、第三番中隊の役割だ。

 野営地の瓦礫と補給物資の間を縫って進みながら、ハルトは頭の中で作戦を組み立てる。橋の復旧作業とは言っても、実際に修繕を行うのは工兵部隊だ。自分達が駆け付けるのは、その工兵部隊が作業しやすいように瓦礫を撤去したり、材料を運んだりする為の謂わば雑用係としてである。となれば、少数精鋭部隊で行くわけにもいかない。働き手は多い方がいい。

「全員連れて行くか……」

 暑い暑いとぼやいているらしい中隊の面々を思い浮かべ、即決する。ぼやくだけの元気があるなら、まだまだ動いてもらわねば。仮に手が余ったとしても、川を泳いででも町に入らせて救助活動を手伝わせればいいだけの話だ。

 ハルトがそう結論づけたところで、隣からぼそりと呟く声が聞こえた。

「そんなに大きな橋じゃないはずだ。橋脚さえ生きていれば、復旧に時間はかからない」

 副隊長としてハイマン大佐のテントに同行していたロウ・ゲイラーだ。ハルトは、ほぅと頷く。

「さすが、地元民は地理に強いな」

 ロウの出身はここ第四地区だ。両親も健在で、実家は小さな農場を経営していると聞いたことがある。

 ふと気になり、その農家の次男坊に尋ねてみた。

「そう言えばロウ、お前、家族に顔を見せなくていいのか?」

 各地の前線を駆け回っていると、まとまった休みが取りにくい。取れたとしても、遠征地で作戦の合間を縫って息抜きするくらいだ。自分から機会を見つけて足を運ばなければ、欧州の片隅にある町への帰郷などなかなか叶わないのが現実である。

「何なら、今回の作戦終了後に休暇でも取って――」

 何気なく提案しようとしたハルトを、ロウの鳶色の瞳がじっと見据えてくる。必要以上にじっと見据えてくる。

「何だよ、その目は」

「七年以上も故郷に帰ってない奴に言われたくない」

 返ってきたのは、小憎たらしい言葉。ハルトは渋面になる。付き合いが長いと、こういうことまで把握されているのが厄介だ。

 軽く舌打ちをし、右手で自分の首筋の辺りをがしがしと触った。同時に、脳裏には一つの村が思い浮かぶ。緑の山々に囲まれ、赤屋根の家が立ち並ぶ、小さな小さな集落。季節ごとの花が各家の庭に咲き乱れる様子は、今でも鮮明に瞼の裏によみがえる。

「あそこは――故郷とか、そういうのじゃねぇよ」

 そう、故郷ではない。生まれ育った町は別の場所にある。しかし、ことあるごとに郷愁を込めて思い出すのは、あの村だ。“彼女”と過ごしたあの小さな村。

 村のことを――否、彼女のことを思い出さない日はない。ふとした瞬間に、脳裏をよぎる。遠征に赴いた土地で珍しい花を見つけた時。新しく配給されたレーションが意外と美味かった時。戦友や部下が戦いの中で命を落としていった時。そして――自らが誰かの命を奪った時。今日のこの出来事を、彼女にどうやって報告しよう、どんな手紙を書こう、そう考えるのが習慣付いている。

 しかし色とりどりの花に囲まれたあの村を思い出すと、筆が鈍る。穏やかな村で慎ましやかな生活を営んでいる彼女に、この、埃と硝煙と血に塗れた日常を、どう伝えるべきなのか。考えあぐねた結果、手紙はもう随分と長い間、白紙のまま今に至っている。

 このような状態で、ましてや顔を見せに帰るなど。

 もう一度舌打ちをすると、ハルトは小さく呟いた。

「そんな簡単じゃねぇんだよ」

 辺りのざわめきに溶けたその声は、ロウの耳に届いたのか否か。依然として表情を変えずに前を見つめる部下の様子からは、伺い知ることはできなかった。





 第三番中隊の待機場所に戻ると、隊の面々はそこここで車座になって休息を取っていた。皆、ハルトとロウが来たことには気付かず、木箱に腰掛けたり近くの土嚢にもたれかかったりして、雑談を交わしている。中には、だらしなく寝そべった格好で煙草をふかしている者もいた。時刻は午後一時。太陽の熱がじりじりと地面を焦がし、彼らの頬にも汗が流れ落ちてゆく。

 休息中だという気の緩みからか、あちこちで賑やかな声がざわめいている。時折、大きな歓声が起こる集団もあった。

 ――しかし。

「おい」

 ハルトが低く呟いた次の瞬間。

 今しがたまでの喧騒が嘘のように、話し声がぴたりと止んだ。皆、にわかに姿勢を正し、発言者であるハルトの方へと注目する。何名かが反射的に立ち上がりかけたが、ハルトはそれを右手で制した。

「そのままでいい、聞け」

 静まり返った部下達を見渡し、先を続ける。

「新しい任務だ。隣町まで移動して、橋の復旧作業を手伝う」

 みな、ハルトの言葉に耳を傾けて頷く。

「現場までの行程は約七キロ、移動手段は徒歩だ。会敵する可能性は低いので、装備は最小限でいい。水の補充を忘れるな。出発は三十分後。今、この場にいない人間には、各小隊の責任者が知らせておけ。――質問は?」

 首を横に振る面々。しかしその表情の奥に何かを期待している気配を察知し、ハルトは深く嘆息する。

「それから、うちの中隊で隊章を作る話が出ているようだが、オレは反対だ」

 途端にあちこちから落胆の声が漏れたが、すかさずそれをひと睨みで黙らせる。

「オレが反対する理由はトールキンに聞け。以上だ」

 一方的にそう締めくくると、後方の集団にいるトールキンを見やった。

 すまん、そういうことだ。

 はいはい、承知しました。

 苦笑を浮かべる彼に後のことを託すと、ハルトは自分の装備品を準備すべく踵を返した。背中では、部下達に詰め寄られるトールキンが、彼らを宥める声を聞きながら。




 第三番中隊が野営地を出発したのは、それからきっかり三十分後のこと。太陽はとうに南中を過ぎたが、なお日差しは強い。ぎらつく陽光に目を眇めながら、一行は田園地帯を徒歩で進んでいた。

 地面に残った軍用車の轍を辿り、注意深く周囲に目を配る。道を逸れて草むらの中を歩くことはしない。一歩間違えれば、土の下に潜んだ地雷に牙を剥かれるからだ。現に、彼ら第三番中隊の列から数メートル先の草むらの中には、大きくえぐれた爆発痕がいくつか見られた。

 この辺りは既に友軍が制圧しているとは言え、追随を逃れた伏兵がいないとも限らない。最低限の用心は怠らず、隊員達は七、八名の小隊ごとに間隔を開けて歩いてゆく。いざとなればすぐに迎撃できるよう、肩から提げた軽機関銃に意識を傾けることも忘れない。むせ返るような土の匂いと草いきれの中、彼らは慎重に歩を進めていた。

 とは言え、何といっても暑い。分厚い生地の野戦服は、木の枝や草の葉からは身体を守ってくれるものの、この気候下では服の中に熱がこもって仇となっている。青年達の顎からは汗の雫が滴り落ち、地面に吸い込まれていった。

 ハルトも額の汗をぐいと拭う。防護ヘルメットの中は既に、まるで水浴びをした後のようにびっしょりだ。

 連続した作戦に加えて、この暑さ。思考力や判断力が低下しないように気を引き締めなければ、とっさの状況に対処しきれなくなる。それにこのままだと、隣町に着いただけで体力を使い切る者も出てくるかもしれない。部下達の様子を見ながら、必要に応じて休息を挟むべきか。

 そう、ハルトが画策していると。

 この場に限りなく不似合いな、甘ったるい菓子の香りが鼻をかすめた。この、香りは。

 ハルトは振り向き、匂いの元を確認する。そこには案の定、口の中で何かをもごもごとさせているロウ・ゲイラーの姿があった。彼の右手に握られているのは、チョコレートレーションの包み。

 この状況下で、ましてやこの猛暑の中で、チョコレートを食らうという嗜好がハルトには理解できない。理解できないが、この男のこれはいつものことなので、さして気にしないことにした。しかし他の隊員達は違ったようだ。

 何名かはロウの手元を見つめ、信じられないといった表情を浮かべている。

「なんでこの暑さで、ゲイラー中尉のチョコレートだけ溶けてないんだ……」

 尤もな呟きである。大半の人間のチョコレートレーションは、封を開けるのが憚られる程度には溶解しているはずだ。

 誰かの発した疑問を、当のロウ・ゲイラー中尉が耳ざとく拾う。彼らの方を見やると、右手にチョコレートを握りしめたままぼそりと呟いた。

「……特別仕様」

 その表情が心なしか得意げに見えたのは、ハルトだけではないはずだ。

 作戦開始前、野営地から出立する際に、ロウの元に補給部隊の兵士が顔を出していたことを、ハルトは知っている。恐らくその兵士から、試作品のチョコレートレーションでももらったのだろう。この男にとって、甘いものは生活必需品。作戦下においても例外ではない。

 それにしても、同じ部隊の人間とさえまともに会話をしないくせに、一体どこでそのような人脈を築いてくるのか。相変わらずよく分からない男である。

「いいなぁ、溶けないチョコレート…」

 物欲しげに見つめる隊員達の視線も物ともせず、ロウはチョコレートレーションを頬張り続ける。

「いつもながら、ゲイラー中尉の持つ流通経路が謎すぎる……」

「溶けないチョコレート、おれたちの分も実用化してくれねーかな」

 歩きながらぼやく隊員達。

 ――まずいな。

 今の一連の流れで、中隊の緊張感が維持できなくなってきているのをハルトは感じる。これは、そろそろ休息を挟む頃合いか。そう考えて隊全体を見渡していると。

 今度は別の小隊の一人が、焦点の合わない目で中空を眺めながら、ぽつりと呟く。

「あー、あぢぃよー」

 それに対し、彼の前を歩いていた者が不機嫌そうな顔で発言者を睨め付けた。

「暑いのはみんな分かってんだよ。余計に暑くなるだろうが。どうせ口を開くなら、気持ちが涼しくなるようなこと言えよ」

「えぇー? 例えば?」

「例えば……そうだな、氷とか雪とか。とにかく、冷たくて涼しいものだよ」

「冷たいものかぁ…」

 言われた方は、首を傾げて考え込んだ。そしてややあってから、ぽんと手を叩く。彼の提げた軽機関銃が、がしゃりと音を立てた。

「そう言えばさ、知ってるか? 欧州のもっともっとずーっと南の地域には氷でできた大陸があって、そこにはペンギンっていう、空を飛べない鳥が生息してるんだぜ」

 得意満面の笑みでその知識を披露した彼に返ってきたのは、呆れたようなしかめ面。傍らで聞いていたハルトも、思わず渋面になった。いったい何の話をしているのだ。

 ハルトの内心を代弁するかのごとく、知識を披露された方はやれやれと肩をすくめる。

「ペンギンくらい知ってるよ。そんなんで涼しくなれってのは無理な話だ」

「いやでもほらさ、ペンギンと言えば、ヘンリーズキャンディのパッケージ絵にもなってるし」

 彼の口に上ったのは、欧州では有名なアイスクリームメーカーの商標である。その名を聞いた他の隊員達が、にわかに目を輝かせる。

「ヘンリーズキャンディ! オレの大好物だぜ!」

「美味いよなぁ、あれ」

「ラズベリー味の、甘味と酸味のバランスが絶妙なんだよ」

「ばっか、お前、ラズベリーとか女が選ぶやつじゃねぇか。男なら黙ってソーダ味だろ」

「いやいや、通はやっぱり、クラッシュナッツ味だろうが」

 アイスクリームの話題に次々と食い付く、食べ盛りの青年達。そのほとんどが十代、そして第三番中隊の古株ばかりだ。新入りの奴らは、周りで笑いながらも会話の輪には入っていないことにハルトは気付く。脳裏には、トールキンの言葉が思い出された。

『隊章があれば、新しく入ってくる奴でも、自分はこの中隊の一員なんだっていう自覚が持てますし』

 そういう、ものなのか。

 一方、欲望丸出しでひとしきり己の好みを吐き出した後、彼らはほぅと溜め息をついて、うっとりとした表情を浮かべる。

「アイス…冷たいアイス……ペンギンマークのアイス」

 そこで一人が、名案とばかりに皆を振り返って声を輝かせた。

「そうだ、例の隊章の図柄さ、ペンギンとかいいんじゃないか? こんな暑い日の任務でも、ペンギンの隊章を見れば、オレがんばれる気がする」

「それいいな!ヘンリーズキャンディを思い出せば、やる気も湧いてくるしな!」

「いいなぁ、隊章欲しいなぁ」

 話の風向きがおかしくなってきた。ちらちらとこちらを伺う彼らに、ハルトは今一度釘をさす。

「隊章は作らないぞ」

 中隊長の断言に反発できる者などいるはずもない。望みを断たれた隊員達は悲愴な表情を浮かべ、そして何も言わずにしょんぼりと肩を落とした。それを見かねて会話に参戦してきた人物がいる。トールキンだ。

「まぁまぁ大尉、そう頑なにならないでくださいよ」

 先頭の小隊を率いていたはずの男が、いつの間にかここまで上がってきている。皆から隊章の図案を預かっていた身なだけに、中隊長説得失敗の責任を感じているのかもしれない。

 ハルトは眉根を寄せた。

「別に、頑なになっているわけじゃない」

「いいと思うけどなぁ、隊章。ただでさえうちの中隊は有名なんだから、トレードマークみたいなのがあっても面白いんじゃないですか」

 それに、と付け加える。

「いざって時、認識票を回収するだけよりかはマシでしょ」

 言いながら、トールキンは己の胸元を指差す。そこには二枚の小さな金属片が鎖に通されてぶら下がっていた。金属片には、本人の氏名や所属、そして血液型が刻まれている。持ち主が戦死した場合には、同じ部隊の仲間が二枚のうち一枚の認識票を外して、報告用として本隊に持ち帰るのが常である。

 ハルトはトールキンを見やってから、けっ、と吐き捨てる。

「お前の認識票なんざ、誰も持って帰らねぇよ」

「あっ、ひどい」

「お前が死ぬってことは、部隊が全滅するってことだろうが」

 ハルトの言葉に、トールキンは意外そうに片眉を上げた。そしてにやりと笑う。

「思わぬ高評価、痛み入ります」

「おぅ、痛み入っとけ」

「ではその評価に応えるべく、先頭集団は、このトールキンが責任持って面倒見ますね。隊章のこと、よかったらもうちょっとだけ考えてやってください」

 トールキンが先頭に戻ってゆく背中を眺めながら、ハルトはやれやれと嘆息する。隊章。そんなに作りたいものなのだろうか。男所帯の第三番中隊で、揃いのマーク。柄は、何と言っていたか、そうだ、アイスクリームの銘柄でお馴染みのペンギン。仮にもいい歳した男達が、揃いのペンギン。

 いつもの癖で、ふと、“彼女”ならばペンギンマークの隊章を見てどんな反応をするだろう、と思った。思ってしまった。――結果。

 ハルトは思わず足を止める。

 中隊長が立ち止まったことで、後続の小隊も反射的に歩みを止める。ハルトはすぐに我に返ると、慌てて再び歩き出した。歩きながら頭をぶんぶんと横に振る。

 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ。隊章を見た時の彼女の反応が、容易に想像できてしまった。

 彼女はきっと、朗らかに笑ってこう言うはずだ。

 『あら、かわいい鳥さんね』、と。

 そしてきっと、にこにこと微笑みながら、隊章のほつれ糸なども修繕してくれるだろう。ついでに、袖口の取れかけたボタンも縫い直してくれたりするのだろう。それから――。

「……くそっ」

 ハルトは片手で自分の口元を覆う。表情が緩みそうになっていることを自覚したからだ。他でもない自身の浮ついた気持ちに、戸惑いを覚える。あいつらのことを言えた義理ではないじゃないか。

 そっと周囲を見渡すと、ハルトの狼狽に気付いた人間はいなさそうだった。約一名を、除いては。

 チョコレートレーションを食べ終えたその約一名と、目が合う。

「……帰郷の土産にいいんじゃない?」

 ぼそりと呟いたその真意は、一体何なのか。どこまでこちらを見透かしているのか。反応を返すのも悔しいので、ハルトは行軍の先頭から最後尾を見渡して声を張った。

「おい!」

 そこに乗せられた感情に、狼狽が含まれていることは悟られぬよう。

「ここいらで休息だ!」

 怒号にも似たハルトの声に不思議そうな表情を浮かべながらも、隊員達はその場に腰を下ろす。それを確認してからハルトは、「それから、」と続けた。

「例の隊章の件だが――」

 その言葉に、全員がハルトの方を注目した。

 注目された方は右手で己の首筋を触りつつ、心の中では舌打ちをする。一体いつから自分は、こんなに甘い人間になったのか。

「全員がこの任務を終えて無事に帰ってくること。話はそれからだ」

 橋の復旧作業で、無事にもクソもあるか。

 中隊長のそんな内心とは裏腹に、今の言葉を受けて隊員達の間には歓喜の表情が広がっていく。中には小さく「やった!」と叫んで拳を握る者もいた。

 今がまだ作戦中であることを理解し、歓声を上げたりせずに隣同士静かに喜び合っている部下達を見て、ハルトは苦笑を浮かべる。

 今まで、任務を達成するためには最善で効率的な手を尽くしてきたつもりだ。その過程で不服を唱えて子どもじみた反発をする者がいれば、文字通り蹴り飛ばした。あるいはついて来なくていいと命じた。それでも自分についてきたのが、今の中隊の奴らだ。そして今回の部隊再編成で、自ら志願してこの中隊に編入してきたのも、今ここにいる奴らだ。

 そんな彼らにたまには褒美を与えて士気を高めるのも、中隊長としての責務だ。隊章ひとつで任務の効率が上がるなら、安いものだ。だからこれは、そう、彼女とは何の関係もない。

 部下達を見渡し、そして空を仰ぐ。依然として太陽は、攻撃的なまでの光と熱をこちらに降り注いでいる。あの穏やかな村とは縁のない気候だ。

 今日のこの出来事を、彼女にはどうやって報告しようか。隊章を巡って部下達が妙な団結を見せた、この出来事を。

 書けない手紙。伝えたいこと。その狭間で揺れる心。それは他ならぬ自分自身次第であることは、よく分かっている。だからこそ。

 ハルトはもう一度、苦笑する。

「何が何でも、生きて戻らねぇとな」

 誰にも聞こえないように呟いたその声は、高く澄んだ濃紺の空へと吸い込まれっていった。

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