(5)-2
欧州――第13地区。7日目。
最後の一握りの土を手の平からこぼすと、デュカスは立ち上がった。
目の前には小さな盛山が一つ、木々に囲まれて静かに、そこにあった。盛山の上には一本の棒が突き刺さっており、それが墓標の代わりを成している。
ようやく、姉に安らかな眠りを与えることができたのだ。
デュカスは左耳のピアスに触れてみた。もう片方は姉が身につけたまま、土の中にある。まだ耳の痛みは引かないが、そんなことはどうでもよかった。目には空虚さをたたえたまま、墓標を見つめる。
「おやすみ、姉さん」
そっと呟いてみた。途端、また胸の奥に痛みを感じた。決して忘れることのできない、深い痛み。
デュカスはゆっくりとかぶりを振った。
これで当初の目的は達成されたことになる。これから自分は、一体どうしたらよいのだろう。茫漠とした気持ちが、空虚な心を支配する。姉も村もなくしてしまった自分には、もう、何もない。
ゆらり、と動いて墓標に背を向ける。緩慢な動作で剣の鞘を腰に下げた。どこへ行けばいいのだろう。帰るべき場所をなくした自分の存在が、ひどく曖昧なものに思える。
重い足取りで、いつの間にか集落まで戻ってきていた。
顔を上げ、虚ろな目に村の様子を映す。
何度見てもそこは焼け野原のままで、人っ子一人見当たらない――はずであった。しかし突如デュカスの目は、遥か前方に、何か動くものを捕らえた。
まさか、と思ってその影を凝視すると、それは明らかに人間であった。地面に膝をつき、焼けた瓦礫を手にとっているのが分かる。
とっさに浮かんだのは、自分以外にも生き残りがいたのだ、という考えだった。しかしデュカスは、頭の中で即座にそれを否定する。この村で生き残っている者など誰もいないということは、先程この目で確かめたはずだ。全ての家屋を調べてその結果に落胆したことは、記憶に新しい。
では、あの人物は――。
デュカスの心臓が、どくんと大きく跳ね上がる。
――セゲド村の奴だ。
あの軍服ジャケット、見覚えがある。あいつらだ。村を焼き尽くしただけでは飽き足りず、奴らは再び何かするつもりなのだ。それ以外に考えられない。
デュカスが硬直していると、その人物は立ち上がり、顔をこちらへ巡らせた。そしてデュカスの存在に気付くと、ぎょっとしたように足を止め、デュカスを凝視する。二人の間、距離はあるものの、互いを遮る物は何もない。
気がつくとデュカスは、身を翻し、山の方へと駆け出していた。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。
――今度こそ、殺される。
頭の中にはそれしかなかった。今度こそ自分も、イニャキや他の村人たち同様、銃で撃たれ、血まみれになって殺されてしまうのだ。
「嫌だ、絶対に嫌だ」
歯を鳴らしながら、デュカスは喉の奥で低く呻いた。
山道を走りながら、そっと目を後方へと
まだ死にたくない、死ぬのは嫌だ。
瞳の中に、再びあの赤黒い炎が燃え上がる。
「――殺されるくらいなら、殺してやる」
呟くと、腰に下げた剣の鍔元を、左の親指で軽く押し上げる。山の入り組んだ小道を駆け抜けながら、デュカスはもう片方の手で剣の柄を、強く握り締めた。
なんて足が速いのだろう。
少年の姿を追いながら、ハルトは舌打ちした。
焼け落ちた村、転がる遺体、そして、怯えたように逃げる少年。あの集落で何があったのか、一目瞭然だった。だからこそ、あの少年に確かめなければならない。――他の村人達の、安否を。
ふと気付けば前方に少年の姿はなく、ハルトは軽く狼狽する。どうやら見失ってしまったようだ。思わず足を止める。辺りを見渡した。――と。
突如、頭上にすさまじい殺気を感じ、ハルトは反射的に地を蹴って横に飛んだ。一呼吸遅れて、今までハルトがいた場所に剣の切っ先が振り下ろされる。上から降ってきた殺気の持ち主が繰り出したものだった。
がつっという、剣先が土をえぐる音が、辺りに響いた。
そいつは最初の一撃がかわされたと分かるや否や、自らも地を蹴って後方に飛び
思った通り、今しがた集落で見かけた少年だった。恐らく木の上でハルトを待ち伏せていたのだろう。ぎらぎらと光る瞳は、殺気に満ちた不穏な輝きを放っており、まるで獣の目だ。
彼は、明らかにハルトに対して殺意を抱いている。とりあえずこの少年の動きを封じなければならない。しかしその剣の構えから、相手がかなりの手練であることが覗える。一方こちらは応戦できるような武器を何も持っていない。気を抜くと、それこそ命取りだ。ハルトの背中を冷たい汗が伝った。
少年は、間合いを詰めようと少しずつ足を這わせている。一気に斬りかかって来るつもりなのだろう。
見たところ、どこかを負傷しているといった動きではない。それでは先程ちらりと見えた、彼のシャツの背に付着している血痕は、誰か他の人間のものなのだろうか。
「……なぁ、念のために聞くけどよ」
相手の動きを探りつつ、ハルトはあくまで平静を装いながら口を開いた。
「どうしてオレに
少年を見据えながら、口角を上げる。が、少年からの返答はなかった。代わりに、再び地を蹴る音が聞こえた。どうやら、本気でハルトを殺そうとしているらしい。ハルトは、軽く舌打ちした。
体を少し沈め、迫り来る剣先をぎりぎりで避けた。そして片方の手ですばやく少年の左腕を掴むと、空いた方の手で、彼の手首めがけて力任せに手刀を叩き落す。思わず、少年が剣の柄を放した。剣を失ったことでバランスを崩し、少年がよろめく。そこをすかさずハルトは、少年の腹部を膝頭で思い切り蹴り上げた。
「ぐっ……!」
少年の口から呻き声が漏れる。力が入らなくて前のめりに倒れかけるのをハルトが抱きとめ、そして少年の襟首を掴むと、容赦なく地面に叩きつけた。
一瞬の出来事だった。
背中を強打して喘いでいる少年の喉元に、拾い上げた剣の切っ先を突きつけると、ハルトは冷ややかな視線を投げかけた。
「これでも一応、手加減はしたんだからな。感謝しろよ」
少年は顔中に屈辱の色を浮かべ、ハルトを睨む。どうやら、自分と相手との力量の差を理解したようだ。――が、そう思えたのはほんの一瞬のこと、突如身を翻すと、地面を這って逃げ出そうとした。これには、さすがのハルトも慌てる。
「おい、こら待て! ここで逃げるか、普通!?」
すぐさま少年の襟首を掴んで連れ戻し、再び手荒く扱った。小柄な少年は地面に転がる。ハルトはしゃがみ込むと、自らの腕を少年の喉元に強く押し付け、少年が体を起こせないようにした。すると少年は、今度は自分の喉を押さえつけているハルトの腕をどけようと、両手でその戒めにしがみつく。が、少年がいくら顔を真っ赤にしてねばっても、ハルトの腕はびくともしない。次に少年は、自由になっている下半身でハルトに攻撃しようとする。が、それも難なくかわされ、足をじたばたさせて
「お前なぁ……もう少し大人しくできねえのか?」
呆れた顔で呟くハルトに、少年は歯を食いしばり、鋭い眼光を向ける。その様子は、まさに手負いの獣そっくりだ。捕まってもなお、己の敗北を認めず、隙あらば逃げ出す、あるいは反撃しようとする。野生の獣そのものだ。牙を剥き、全身でハルトを威嚇している。
ハルトは眉をひそめた。威嚇――怯えて、いるのだろうか。
軽く溜息をつくと、ハルトは改めて少年を見据えた。向こうも、怯むことなくハルトの目を真っ向から睨み返す。意志の強そうな瞳だった。
ふと、ハルトの脳裏を何かがかすめる。
鋭利な眼差し、引き結んだ口元、漆黒の髪。見覚えがある。これらの断片的な特徴が、ハルトの頭の中で一人の少年の像を結ぶ。セピア色の写真が、蘇る。
「……デュカス?」
無意識のうちに、口を突いて出た名前だった。
しかし目の前の少年は、その名前に対し、過剰なくらいの反応を示す。びくり、と大きく肩を震わせると、怪訝そうにハルトを見上げ、探るような視線をぶつけてきた。
やはり、彼だ。
ハルトの中で、疑問が確信に変わる。昔、剣術を教えてやった少年。恋人カヤの、大切な――弟。
例によって口の端を僅かに上げると、ハルトは呟いた。
「――よぉ。久し振りだな、クソチビ」
少年が、先程とは別の意味で警戒の色を露にする。しかしハルトのことを用心深く見れば見るほどに、両目は大きく見開かれてゆく。「獣」の光を宿したその目は、「人間」のものへと変わりつつあった。
「あ……」
顔には驚愕の表情を浮かべたまま、少年がかすれた声を漏らした。ここに至り、さすがに理解したようだ。今自分の動きを封じている人物が、一体誰であるのかを。
ハルトの腕を振り解こうとしていた力が緩む。彼にもう逃げる気はないだろうと判断すると、ハルトはその戒めを解いた。立ち上がり、少年の剣を地面に突き刺す。
少年が、軽く身を起こしてハルトを凝視する。その口元は震えており、何か言葉を探しているようにも見えた。
目元を和らげると、ハルトは嘆息した。
「なんだよ、お前。ずいぶんと成長したじゃねぇか。一瞬、誰だか分からなかったぞ」
そしてまだ地面から半身を起こしたままの姿勢で硬直している少年を、懐かしい気持ちで見つめる。
「――お前、デュカスだろ?」
瞬間、少年――デュカスの体はびくんと震えた。しばしの間ハルトを凝視していたが、大きく息を呑むと、やがて絞り出すような声で呟いた。
「…ハ、ハル…ト……?」
その目に安堵の色が浮かぶ。
先程までの荒ぶる殺気が嘘のように掻き消え、かわりに隠しきれない狼狽がデュカスを包む。緩慢な動作で地面に座り直すと、気まずそうにハルトから視線を逸らせた。ハルトは、軽く眉をひそめる。
「本当ならここで世間話の一つでもするところだろうが、何せ状況が状況だ。なぁ、聞いていいか。村は一体……どうなったんだ? 皆はどこだ? ……カヤは、どこにいる?」
先程この目で見たように、村に異変があったのは確かだ。しかし何が起こったにせよ、デュカス以外にも生き残った人々がいるはずだ。ハルトはそう思っていた。無事に難を逃れた村人たちは、恐らくどこかに身を潜めており、カヤもそういった人々と共に安全な所にいるのだろう、と。
しかしデュカスからの返答はなかった。
座って俯いているため、その表情は分からない。
「デュカス。皆はどこだ?」
再びハルトが問い掛けても、デュカスは顔を上げなかった。
ハルトは軍人だ。今までに何度も戦場に赴き、その中で、襲撃に遭った村々を見てきている。だからこそ、「最悪の事態」という言葉が脳裏をよぎった。
「なぁ、カヤは…どうしたんだ?」
問い掛ける声が震えているのが、自分でも分かった。デュカスはやはり俯いたまま、答えない。思わずハルトは、デュカスの両肩を強く掴んで揺さぶった。
「おい! 何とか言えよ! 一体何が起こったんだ!? 誰の仕業だ!? カヤは……どうしたんだよ!?」
片膝をついてしゃがみ込み、デュカスを覗き込んで、ハルトは絶句した。
そこには、ひどく傷付いた顔をした少年がいた。唇を噛み締め、必死で涙をこらえながら、こちらを見ようともしない。細い肩が、微かに震えている。
それは言葉よりも明確な答えだった。
「おい、ちょっと待てよ。まさか……」
引きつった顔で、ハルトは呟いた。それに対し、デュカスは震えながら頷く。
背筋が総毛立つのを感じた。カヤは、――。
「嘘だ! お前、嘘言ってんじゃねぇよ!」
デュカスの襟首を掴み、叫ぶ。そんなハルトをデュカスは睨みつけた。
「嘘じゃない! オレはこの目で見たんだ! 姉さんは、炎の中に消えた! ついさっきだって、オレは真っ黒になった姉さんを見たんだ!」
デュカスの悲痛な叫び声が、辺りに反響する。
「お前こそ、今さらっ……今さら帰ってきて、何だってんだよ!? 突然村を出て軍隊に入ったのかと思ったら、ろくに連絡もよこさないで、姉さんを放ったらかしにして! そんなお前に……お前なんかに……!」
「デュカス、そのことは――」
ハルトが口篭もる。何か言いかけたが、デュカスは聞いてくれなかった。ハルトの腕が、振り払われる。
「なんでずっと姉さんの傍にいてやらなかったんだよ!? オレ達が……姉さんが、どんな気持ちでお前のことを待っていたか分かるか!? 姉さんはせっかくお前の帰りを待ち侘びていたのに、村は……あんな風になって…。肝心な時にいなかったくせに、今さら帰ってくるんじゃねぇよ! 何もかもみんな、手遅れなんだよ! ――姉さんはっ……」
ぎり、と歯の奥を軋ませると、デュカスは目の前の男を睨んだ。その双眸には、激しい憎悪が宿っている。
「姉さんは、お前のせいで死んだ! お前が殺したんだ!」
有無を言わさぬ、強い
ハルトの全身から、血の気が引く。冷水を浴びせられたように、指先が冷たくなるのが分かった。囚われたのだ、その瞳に。
体を強張らせているハルトには構わずに、デュカスは続ける。
「お前さえいれば…。お前が早く帰ってこないから、姉さんが! 姉さんが…! お前は、なんでっ…! なんで家にいてやれなかった!? なんで守ってやれなかった!? なんで……」
支離滅裂な言葉を並べ立てると、デュカスは震えている自分の右手を見つめた。
「なんであの時、手を放してしまったんだ!? なんで姉さんは死んだ!? なんでイニャキは死んだ!?」
デュカスの目は、既にハルトを見てはいない。どこか虚空の一点に視線を定め、己の両肩を強く掻き抱いた。顔色は死人のように真っ青で、唇が小刻みに震えている。
「デュカス、落ち着――」
ハルトが再びデュカスの肩に手を伸ばしたが、デュカスはそれを激しく振り払った。語調が、更に荒くなる。
「なんでみんな、殺されなきゃならないんだ!? みんなが何をしたって言うんだよ!? オレだけ助かって……なんでオレだけ生きてるんだよ!? なんで誰もいないんだ!? オレは、一人で……なんで、オレは一人なんだ!? 一人で……オレは、一人で……」
今にも泣き出しそうな顔で、ハルトを見上げた。その目に先程までの強い光はなく、幼子のような怯えの色が浮かんでいた。
「なぁ…、なんで……なんで…オレだけ生きてるんだ…?」
唇をわななかせ、デュカスは呟く。
彼は全身で救いを求めている、少なくともハルトにはそう見えた。いたたまれない気持ちになった。口を開き、何か言いかけたが、どんな言葉も出てはこない。代わりに身を屈めて、デュカスの体をそっと抱き寄せた。
「落ち着くんだ。……いいな?」
押し殺した声で呟き、子どもをあやすように、背中を優しくなでてやる。ハルトの腕の中で、デュカスの細い体は震えていた。彼の孤独が、恐怖が、その震えを通して痛いほどに伝わってきた。ハルトは、デュカスを抱く腕に力をこめる。
「……すまない。一人で…つらかったんだな。よくがんばった」
耳元で、声にならない嗚咽が聞こえた。同時に泥だらけのデュカスの手が、ハルトの服を縋るように強く握り締める。
「お…お前なんかっ…! お前なんか……!」
言葉では抵抗を続けながらも、デュカスは手の力を緩めることはない。ハルトは何も言わず少年の髪をなで、そして自分の胸元に彼の顔を押し付けた。泣け、というように。
途端、デュカスの目から涙がこぼれる。今まで必死で我慢していたのだろう。デュカスの喉の奥で、くぐもった声が洩れた。
「……さん! 姉さん! ――カヤ姉さん!」
泣きじゃくりながら、繰り返し姉の名を叫ぶ少年を、ハルトは黙って受け入れた。
まだ信じられなかった。いや、信じたくなかった。あの、いつも朗らかに笑う少女に、二度と会えることはないなんて。あまりに突然の出来事で、正直ハルト自身がその現実を認めることができない。
――今でも鮮明に、彼女の笑顔を覚えているのに。
ふと、目頭が熱くなった。自分もデュカスのように涙を流せたら、そう思った。
悲痛のあまり、顔が歪む。喉の奥で引きつった痛みを感じ、それを飲み下した。
唇を引き結ぶと、デュカスの体を更に強く抱きしめた。自分にできることは、せめて彼をこうして見守ることだけだ。他には、何も――。
デュカスのしゃくりあげる声を聞きながら、ハルトは何度も、デュカスの髪を優しくなでていた。
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