第86話 おうちにはいれない
ダラダラ過ごしてしまった休日は、ビールで
そんな気分だったので、散歩も兼ねて普段は使わないコンビニへと向かう。
最短距離だと歩き足りなくなる予感がしたから、知らない住宅街の景色を眺めながらの遠回りルートを選んだ。
駅からも国道からも半端に遠くて再開発の需要がないせいか、くすんだ色合いや
夕飯時が近いせいか、付近の家からは様々なニオイが漂ってくるが、不思議と空腹感を刺激してこない。
その理由をボンヤリ推理していると、感情を
「うっ、んぅー……えっ、え、ひぐっ、うっ、うー……」
子供の泣き声だ。
大声で
とりあえず、視界の中に泣いている子供の姿はない。
近所の家からかな、と警戒心を高めて耳を
そうやってしばらく歩いていると、ある家の前で
小学校の一年か二年くらいの女の子、だろうか。
雑に切られている髪、全体的に薄汚れた服装、サイズの合ってないサンダル。
放置子――という単語が浮かぶと同時に、家の様子を確認して眉を
昭和の中期に建てられたと思しき、古ぼけた平屋。
壁の大部分が、半ば枯れた
敷地内にゴミやガラクタが積まれているワケでもないのに、どうにもならない不潔感が漂っていた。
その原因は恐らく、妙に鼻につく不快な臭気のせいだ。
養豚場の悪臭と殺虫剤の刺激臭を混ぜて、泥水で薄めたようなニオイ。
人が住んでいる気配はあるのに、廃屋特有の寒々しい印象を
端的に言えば、とにかく『厭な場所』だった。
放置子に関わると、高確率で理不尽なトラブルに巻き込まれる、というのもある。
ここは見て見ぬフリでのスルーが賢明だろう。
泣いている少女は、こちらの存在を確認して
コンビニでロング缶を三本と適当な
違う道を選んだ方がいい、との警報が頭のどこかで鳴っていた。
しかし、あれからどうなったかも気になるので、来た時と同じ道を選んで帰る。
十分ほどで、またあの家と子供のセットが登場した。
近所の人や通行人に無視され続けているのか、同じ場所で泣きべそをかいている。
「……どうしたの?」
このまま見過ごして、数日後のニュースで名前を知るオチになったら気分が悪い、との思いからつい声を掛けてしまった。
少女は静かにしゃくり上げながら、
確か、子供と話すには目線の高さを合わせるといい、ってのを聞いたことがあるな。
「おうちにはいれない」
「ここが、そうなのか?」
蔦に埋もれた家を指差すと、大きく
明かりは点いておらず、話し声やTVの音なども聞こえない。
カギが掛かっていて帰れない、って状況なのだろうか。
「カギを忘れたとか、失くしたとか」
「もってない」
となると、やはり放置されてるのか。
同情心を増量しながら少女を見れば、視線を真っ直ぐに玄関のドアに向けていた。
そこはかとない違和感があったが、確認しようがなさそうなので話を進める。
「近所に、知り合いの人はいる?」
首を横に振られた。
実際には、近隣住民からは既に無視されてるのだろう。
「お友達のところは、どうかな?」
さっきより強めに首を振られた。
もしかすると、学校でも孤立しているのかもしれない。
警察に連絡するのも違うよなぁ、と思いつつ質問を重ねる。
「……家に入る方法はないの?」
少し考えてからそう訊くと、パッと笑顔に近い表情に切り替えて言う。
「ある。そこの、それ」
「ん、どれ?」
「そこのはしっこの、こわいの」
「怖い……?」
そんなのあるかな、と思いつつ
ドアの右上あたり、枯れた蔦と半ば一体化していてわかりづらいが、確かに何かある。
よく見れば、手のひらサイズの黒っぽいものが、壁に取り付けられていた。
変色と風化で元がどんなものだったか判別が難しいが、何となく正月の
「それ、とって」
「俺が触っちゃっても、大丈夫なの」
「だいじょうぶだから、とって」
裏にカギが隠してあったりするのだろうか。
子供の手が届かない場所じゃ、あんまり意味がないだろうに。
家の敷地に入り込むと、独特な悪臭が更に強くなる。
黒っぽい飾りに手を伸ばしていると、不意に「やめといた方がいい」との強い感情が湧き上がった。
「ほいっ、と」
壁から外した瞬間、すぐ近くで「パキッ」と乾いた何かが割れる音が鳴った。
「むおっ!」
同時に、右手の中で爆竹が破裂したような感覚が生じ、思わず飾りを取り落とす。
これはちょっと謝っておいた方がいいかも、と振り返ったが少女の姿がない。
あれ、と家の敷地から出て辺りを見回すと、俺の横をすり抜けて駆ける人影が。
「あぶな――」
ぶつかる直前、止めようとした。
だけど少女は速度を落とさず、閉じたままのドアを突き抜けて消えた。
呆然と木製のドアを見据え、何が起きたのかを理解しようとする。
やがて屋内から「ドタッ」「バリン」「グショッ」と、派手な騒音が流れてきた。
いくつもの感情や疑問が絡み合い混乱しているが、確信を持って言えることはある。
とんでもなくマズいことが起きた――或いは起きようとしている。
ふと壊れた飾りに目を向けると、赤黒いスライム状の何かに変じている。
視線をドアに戻すと、数センチの隙間が開いていた。
誘われている。
自分が何をやったのか、知りたかったらココまでおいで、と。
何故だか足が動いてくれず、ドアからも目が離せない。
その場に立ち尽くしていると、黒々とした隙間はじわり、じわりと広がる。
十五センチくらい開いたところで、暗がりの奥にいるものと目が合った。
「ブッホァ!」
その瞬間、無意識に止めていた息が吐き出された。
右の膝がカクッとなり、崩れるように
その痛みと衝撃が効いたのか、普通に動けるようになっている。
慌てて身を起こした俺は、ドアに背を向けると全速力でその場を離れた。
さっきは明らかに、入ってはいけない場所に片足を突っ込んでいた。
そんな自覚に、粘ついた
自宅に戻ってからすぐ、泡だらけになった三本のビールを数分で飲み干した。
部屋にあった焼酎も追加で数合飲んで、その日は気絶するように眠った。
その後、蔦に埋もれた家がどうなったかはわからない。
あの住宅街に足を運ぶことは、きっと二度とないだろう。
あれから二ヶ月ほどが経つが、とりあえず平和に暮らしている。
奇妙な少女を見かけもせず、怪現象に遭遇してもいない。
ただ一つ、困ったことがあるといえば、ある。
右手の指や手のひらに、小さな
少し
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