第73話 うしろから

「うぅわ、メッチャ燃えてるし」

「あー、やべぇな。ありゃ死んでるかもな」


 寒々しいものを感じながら、助手席の清香さやかに敢えて軽口で応じる。

 俺たちの視線の先には、反対車線で燃え盛っている商用車があった。

 車種はサクシードのようだが、火と煙に巻かれているのでハッキリしない。


「こんな何もないとこでさ、どうやって事故んの」

「そりゃ、居眠りとか電話とかCD入れ替えとか、色々あんだろ」

「最後のは二十世紀じゃん」

「CDはまだまだ現役だって」


 事故見物の渋滞が発生し、高速道路なのにノロノロとしか進まない。

 特に急ぎでもないドライブだから、多少の足止めは別に構わない。

 にしても、こんな現場をジックリ見たい悪趣味な連中が結構多いのに驚く。

 清香も「ひあぁ」とか「うへぇ」とか言いながらガン見してるんで、ちょっと同類っぽいのが困りものだが。


「あー、車こえー。もう完全に走る凶器だわ」

「今更そんなベタな文明批評かよ」

「むしろ鉄のイノシシだわ」

「タイムスリップした昔の人かよ」


 洒落にならない状況を中和したいのか、清香の発言がフザケたものになっていく。

 それに合わせて俺もなるべく下らなく返すが、空気が悪くなるのは止められない。

 すぐ近くで車が燃えていて、もしかすると人も燃えている。

 そんな異常事態を他人事だからと素通りするのは、どこか間違っているんじゃないか。

 罪悪感なのか正義感なのか、自分でもよくわからない感情がじんわり湧き上がる。


「消防車、まだ来てないんだ……あれ、こういう場所でも消防車が来んの?」

「知らんけど、早く消さないとマズそうだな」


 燃えている車は、前方を中央分離帯に乗り上げていた。

 熔け焦げた車体を包み込む炎が、植え込みへと延焼しかけている。

 他に停まっている車もないので、恐らくは単独事故だと思われるが、それにしても不自然だ。

 さっき清香も言っていたように、この辺りは何の変哲もない直線が続いている。

 どんな珍プレーをすると、こんな派手なクラッシュを発生させるのだろう。


「まぁ、俺らは安全運転で行きますかね」

「ホントそれ。頼むよユキオ」


 清香にペシペシと肩を叩かれ、曖昧あいまいうなづいてみせる。

 前の車が速度を上げたので、こちらも続いてアクセルを踏む。

 視界から煙も炎も車も消えると、ようやく一息つける気分が訪れた。

 最後にもう一度、事故現場を確認しようとバックミラーに目を遣る。

 

「……は?」


 後部座席には、そう多くもない俺と清香の荷物が置いてあるだけだ。

 だけのはずだった。

 なのに、二人の荷物の真ん中に黒い塊がある。

 違う――座っている。

 全体が黒く炭化し、所々に赤や黄の裂け目が生じている、人の形をした何かが。


「おぅあっ!」


 反射的に短い叫び声が出てしまうが、運転ミスはせずに済んだ。

 ハンドルを握る手に、りそうなほど力が入る。


「ひゃっ! どしたの、いきなり」

「どっ、どうしたもこうしたも、後ろっ」


 困惑した様子で訊かれて、俺はミラーの中の黒色をにらみながら答える。

 清香は小さく首を傾げ、面倒くさげな動作で背後を確認した。


「あー、まだ渋滞してんね。みんな野次馬マインド旺盛おうせいすぎ」

「いやいや、そっ、だっ――違うだろ!」

「何言ってんの? 爆発でもすんの、あの車」


 清香はまるで黒いのが見えていないような、悠長ゆうちょうな感想を述べてくる。

 思わず「お前こそ何言ってんだボケェ!」と怒鳴り散らしそうになるが、黒いのを視界の中に捉えている内に、ある可能性に気がついた。

 まるで見えていないような、ではなく清香には本当に見えていないのかも。

 

 そこに思い至ると、パニックを起こしかけていた頭がスッと冷える。

 こんなのが見えてしまえば、清香がテンパって車外に飛び出す危険すらある。

 そういう心配をしなくていい分、まだ気は楽と言えなくもない。

 いや、正直そんなことは全然ないのだが。

 ハンドルを固く握った掌が、手汗で湿ってきた感じがある。


『――って――ぇて』


 バックミラーを見ずに、二キロほど車を走らせた頃。

 黒い塊は運転席と助手席の間に身を乗り出し、れ果てた声で何か言ってきた。

 出来立ての料理みたいなぬくもりが、左腕の辺りに伝わってくる。

 

「ぃぃいぅいぃーん」


 叫び声を噛み殺そうとして、妙な具合に咽喉が鳴った。

 力一杯ブレーキを踏みそうになるが、ギリギリのところで堪える。

 首筋が、背中が、脹脛ふくらはぎが、冷えて凝っていくのがわかった。


「急に変な声出して、どしたのユキオ? どんな感情なの?」


 素で泣きそうだし、頭がおかしくなりそうなんだ。

 しかし黙って前だけ見て、清香も黒いのも無視して車を走らせる。

 そういえば、高速には一定間隔で設置された非常駐車帯ってのがあったはず。

 とりあえずそこで停まって、どうするべきか次の行動を――


『ぇて――ぃ……ぇてぇ――』


 見えて?

 イエティ?

 左後ろからの奇怪なかすれ声は、途切れ途切れだが続いている。

 同じ言葉を繰り返しているようだが、何と言っているのかわからない。 


『――べっ、て――ぃ――ぇ』


 やっぱり聞き取れない。

 何だっていうんだ。

 何を言おうとしてるんだ。

 どうにもならない焦燥感に、この奇声が拍車をかけてくる。

 痛むほどに奥歯を噛みながら車を走らせていると、やっと非常駐車帯の標識が見えた。


「ちょっ、どっは、何? 何なのっ?」


 清香に早口で抗議されるが、相手をしている余裕はない。

 強張こわばった足の感覚が覚束おぼつかなくてド下手になっているブレーキングで、車体をガクガク揺らしながら減速する。

 目的地の駐車帯で車を停め、忘れていた呼吸を再開して大きく息を吐いた。


 恐る恐るミラーを確認すると、いつの間にか黒いのは姿を消している。

 肩の力が抜け、腰がシートを数十センチずり落ちる。

 それから天井を仰いで、もう一度長く大きく息を吐く。

 違和感があったので額を指先で拭うと、脂汗がたっぷりと浮いていた。

 そのままの姿勢を続けていると、清香が腕を掴んで揺すってくる。


「ちょっと、ねぇ!」

「……ああ」

「意味わかんないんだけど、何してんの? 故障? 調子悪い?」

「あっ、あのな、清香。ちょっと、マジでガチにやばい、マジのやつなんで、真面目に聞いて欲しいんだけど」

「うん……」


 動揺を引きずっているせいか、怪しくなる日本語をどうにかなだめつつ、わかりやすく説明できるように呼吸を整えながら頭を整理する。

 こちらを見ている清香は、心配半分不安半分などんよりした曇り顔だ。


「あー、あそこの、アレだ。反対車線の事故現場の横、通ったろ」

「通った、けど?」

「あの後でな、この車の後部座席に真っ黒な……焼け焦げた人が乗ってきた」

「なっ――ユキオ、そういうのやめてよ。ネタにしても酷すぎ」


 怖がっている、というより不機嫌さを丸出しにした反応だ。

 眉間に深々としわを刻んでいる清香に、真顔でもって告げる。


「だから、マジなんだって」

「えぇええ……」

「今はもう消えてるけど、流石に事故りかけるレベルだったわ」

「そんなん言われてもさぁ――」


 あんまり信じていない様子の清香が、ヒョイと振り返って後部座席を確認する。


「んくっ」


 口を閉じたままシャックリしたような、そんな音が左から聞こえた。

 どうした、と訊きかけたところで、清香は俺の肩をバンバン叩いてくる。

 何事かと見てみれば、涙目になって半開きの口を震わせて、明らかに普通じゃない。


「あぁああああっ! 早く早くっ、車出して!」

「は?」

「いいから逃げて! 逃げてってばぁ!」


 悲鳴にも似た清香の叫びで、鼓膜こまくにダメージを受けながら気付かされる。

 さっきの黒いのは、「逃げて」と告げていたのだと。

 しかし、車内にいる相手から逃げろってのも何だし、自分から「逃げて」って言ってくるのも、まるで森のくまさ――


「逃げないと! 来るから! 来ちゃうよぉ!」

「だけど、黒いのはもう――」

「ちーがーうっ! 全っ然違う! いいから、早く早く早くはーやーくっ!」


 俺の肩をガンガン殴ってくる清香の声は、もう金属音に近くなっていた。

 しかし駐車帯から出ようにも、走ってくる車の流れが途切れず出るに出られない。

 自分でも背後を確認するが、車内にさっきの人影はないし、外からこちらに向かってくる存在も見当たらない。

 清香は一体、どういう相手から逃げろと言っているのか。


 どぅん


 そんな低い音がして、車体が垂直に揺れた。

 衝撃と音の感じから推測するに、結構な重さのある何かがルーフに着地したようだ。

 俺と清香は緊張で息を荒くしながら、無言で顔を見合わせる。

 これは車の外に逃げるべきか、車に乗って逃げるべきか――

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