第59話 きこえてんだろ

 薄く目を開けると、常夜灯でオレンジ色に染まった天井が視認できた。

 眠気と酩酊感めいていかんで濁った頭が、自分の居場所を確認しようとする。

 ああ、そうだ――今日は確か、バイトの先輩である小泉から誘われて、何人かで宅飲みをしてたんだ。

 テーブルの上と下に並んだ空き瓶と空き缶、そして部屋に充満している甘じょっぱくえたニオイが、記憶の正しさを裏付けてくる。


 遅くなったし動くのもダルいってんで、そのまま寝入った結果がコレだろう。

 状況認識が進むと、肌寒さと尿意が自己主張を開始してきた。

 それと、小声の会話が聞こえてくる――俺の他にも、この場に残ったヤツがいるのだろうか。


 何はともあれ、まずは膀胱ぼうこうの限界が近いのをどうにかせねば。

 優先順位を決定した俺は、床の固さと気温の低さで強張った体を動かし、フラつきながら便所へと向かう。

 途中で鳴った「ベキッ」ていう音と、足の裏の硬い感触は気にしないことにする。

 人体の神秘を感じるレベルの長い排尿を終え、再び小泉宅の居間兼寝室へと戻る。

 油の切れた自転車が、アパートの前を走っていく耳障りな音がした。


「――だろ」

「――かな」


 キコ、ギコ、キコ、ギコと不快な雑音が遠ざかると、また男女の小声の会話が聞こえた。

 何を話しているのか、語尾の辺りしか聞き取れない。

 飲み会の参加者に女はいなかったし、隣の部屋とかだろうか。

 出所を探してみるが、TVは消えていてPCの電源も落ちている。

 部屋の主の小泉と、二週間前から同僚になった毛利は、飲みすぎた時に特有の荒いいびきをかいて寝ていた。


 スマホで確認すると、四時ちょっと前という微妙な時間だ。

 俺も、もう一眠りするか。

 そう決めて、寝相の悪い小泉が蹴り飛ばした毛布を拾い、さっきまでのフローリングではなく合皮張りのソファに寝床をしつらえる。


 明日の予定は――いや、もう今日か――夕方から何かあったような――と、酔った頭に断片的なイメージがグルグルと回る。

 それが落ち着いて、再び眠気が強まりそうになったところで、奇怪な音が響いた。


「ぅぶぇええええええぇえええぇええええぇえええぇええええええええぇぐっ」


 わざとらしいゲップのような、下手なヤギの鳴き真似のような、そんな長い音。

 狙い澄まして放っただろう、フザケた雰囲気が含まれている。

 何してんだよ――と寝転がったままで文句を言おうとしたら、今度はハッキリと会話が耳に入った。


「こいつだな」

「こいつだね」


 ボソボソッとした男の呟きに、かすれ気味な女の声が応じる。

 反射的に息を潜めて、見知らぬ声の出所を窺う。

 自分の心臓の鼓動と、小泉と毛利の鼾がやかましいが、意識を集中したからか続きの話も聞き取れた。


「まちがいないか」

「まちがいないよ」


 さっきと同じ調子の問答だ。

 何を確認しているのだろうか。

 というか「こいつ」ってのは誰のことを指しているのか。

 そんなことをボンヤリと考えている内に、至近距離で発生している状況の異様さに気付いた。


 何だ、これ?


 シンプルだが深刻な疑問が、頭の中で猛然と膨らんでいった。

 明かりを点けて、起きていることを確かめたい気持ちがある。

 同時に、気付かなかったフリでスルーすべきとの予感もある。


「どうするか」

「どうしよう」


 俺の迷いを代弁するかのように、謎の男女が相談している。

 小声の呟きなのは相変わらずなのに、やけに明瞭めいりょうに聞き取れる。

 その理由を考えようとするが、アルコールが思考力を低下させている。

 

「ころすしかないのでは」


 女の声が、急に低くなったトーンで言った。

 驚いて勢いよく息を吸ってしまい、「ンヒッ」とシャックリの出来損ないが漏れた。

 数瞬の間をおいてから、むぅわっ、と何かの気配が膨らんだ。

 ヤバイ、起きてることを気づかれたかもしれない。

 咄嗟とっさに寝返りを打って誤魔化す――誤魔化せた、だろうか。

 

 古いドライヤーを遠くから向けられているような、緩くてぬるい風が首筋を撫でていく。

 熟しすぎたバナナをコーラで煮詰めたみたいな、異様に甘ったるいニオイが鼻腔びこうを侵蝕してくる。


「―――――――」


 また声がしたようだが、内容を理解することを脳が拒んでいた。

 むせて込み上げてこようとする、咳の塊を必死に飲み下す。

 大声でわめきたいのを我慢し、ギュッと目をつむる。

 肥大化した気配は、さっきから変わらず至近距離に居座っていた。


 何も聞いてない。

 何も知らない。

 何も聞いてない。

 何も知らない。


 お経を唱える代わりに、頭の中で繰り返し自分に言い聞かせる。

 甘いニオイが濃さを増し、重くトロンとした空気が顔にへばりつく感覚が。

 息が苦しくなる。

 動悸どうきが激しくなる。

 額のあたりに、猫の尻尾みたいなフワフワしたものが触れた。


「ころすしかないようだ」


 男の声は、機械的な棒読みだった。

 それを耳にすると同時に、意識がどこか深い場所へと沈み始める。

 俺にできることは、男の言葉が自分に向けられてないのを祈るくらいだった。

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