第21話 一万円分の何か

 友人の井原が半年ほど前から住み始めた、築四十年くらいの古いマンションの三階。

 都心まで三十分、駅まで徒歩八分、広さは2DK、家賃は諸々込みで六万四千。

 エレベーターと付属駐車場がないのがネックだと井原は言っていたが、そこを差し引いても好条件だろう。


 三年くらい前にリノベーション済みなので、マンションの外見や共用部分は若干オンボロだが、内装は至って綺麗だ。

 実は事故物件だったりしないか――前にそう訊いたことがあるが、井原は「相場より一万安いくらいでそりゃないだろ」と笑って否定した。

 構造上の欠陥なのか、どこからかの音が妙に響いてくることがあって時々驚かされるが、それも慣れれば大した問題じゃない、と言っていた。


 そこで俺は一人、夜の留守番をしている。

 どうってことない用件でメールのやり取りをしていたら、しばらくぶりにサシで宅飲みでもどうだ、という流れになって新居に招かれることに。

 で、酒も結構入って話が盛り上がってきたところで、ラインで彼女とやりとりしていた井原が何か失言したらしく、マジギレ状態の彼女を宥めに行くことになってしまった。


「悪ぃ悪ぃ、あいつを落ち着かせたら、すぐ戻るから。映画でも観て、テキトーに時間つぶしといてくれ。帰りに追加で何か買ってくるし、酒も好きに飲んでていいし」


 そう言って井原が自転車で出て行ってから、既に二時間近くが経っている。

 彼女がどこに住んでいるのかは知らないが、俺に待っていろと言うくらいだから、そう遠い場所じゃないんだろう――そんな判断が甘かったようだ。

 遠かろうが近かろうが、話がこじれたら時間は際限なくかかる。

 それに相手が落ち着いても、その後はケンカから関係修復したカップルにお決まりの、あのパターンに雪崩れ込む可能性も高い。


「あっちの状況がわからんと、電話して『俺は帰るから鍵かけに戻って来い』とも言えないしなぁ」

 

 リビングにのソファに寝転がった俺は、溜息混じりに呟きつつリモコンに手を伸ばし、エンドロールの流れ始めたアクション大作のブルーレイを停止する。

 映画をもう一本観るか、ゲームでも始めるか、本棚の漫画に手を出すか――考えてみても、どれにも心が動かない。

 どうにもシラケてしまい、もう帰りたいテンションになりつつあった。


「……ぃ……ぁ……」


 トイレに行った帰り、冷蔵庫からビールを取り出そうとドアに手をかけたところで、微かに声が聞こえたように思えた。

 振り返ってから辺りを見回すが、当然ながら誰もいない。

 ビデオ画面のまま停止してあるので、TVの音声ということもない。

 これが井原の言っていた、周囲の音が妙に響いてくるって状態なのか――と納得しかけたのだが。


「……ぃ……ぉ……ぉぃ」


 さっきよりも、ハッキリと聞こえた。

 男がこちらに呼びかけている――どこから、誰が。

 聞こえ方の感じからして、壁の向こうとかドアの向こうとか、何かでへだてられた場所から届いてくるようだ。

 幻覚がホイホイ出るほど飲んでないハズだから、実際に声がしているのは確かだ。


「まて」


 何となく、相手にしない方がいいように思えて、呼びかけを無視してリビングに戻ろうとしたら、明確な制止の声が届けられた。

 その声は小さかったが、素通りできない冷たさを含んでいる。

 キッチンの明かりをつけ、改めて確認してみたものの、やはり誰もいないし何もない。

 まさか、妙なのに出くわしたりしないだろうな――と警戒しつつ、そっと風呂場のドアを開けてみる。


「ちが……」


 違う、と言っているのだろうか。

 この声の主は、俺の行動を監視しているのか。

 シンクの上にある曇りガラスの窓は閉まっていて、換気扇は大きなフードが付いているタイプだ。

 誰かが覗けるような隙間も、覗いているような気配もない。

 じゃあこの声は何なんだ、と思いつつトイレのドアを開ける。


「ぬ」


 ぬ、ってどういうことだ。

 しかし、訊いてもきっと答えは返ってこない。

 トイレにも何もないし、誰もいない。

 念の為に、半端にしか開かない窓を開けて外を確認してみたが、隣のマンションの壁が見えるだけだった。

 

 落ち着かない気持ちを抱えたまま、リビングへと戻ってソファに腰を下ろす。

 ビールを飲もうか、みたいな気分はすっかり消え失せている。

 考えることといったら、一刻も早くこの部屋から出て行きたい、という思いのみ。

 そもそも、どうして井原のせいで俺がこんなワケのわからない状況になってるんだ。

 色々と限界に達したので、「とにかく早く戻って来い」と井原に連絡を入れるべく、傍らに投げ出していたスマホを拾い上げようとした。


 ガコッ――ガンッ――


 何かが何かにぶつかる、金属質の音がキッチンの方から聞こえて、俺は動きを止めた。

 頭では無視するべきだとわかっているのだが、すぐ近くで発生している怪事を無視してジッとしている、なんてのはちょっと無理だ。

 そもそも、変な声に話しかけられている時点で、気のせいで済ませられる次元は終わっている。


 カリカリカリカリカリ、カリカリカリカリ


 移動してみると、硬いものを爪で引っかいてるような音が鳴っている。

 明かりがついたままのキッチンには、やはり動くものはない。

 本当にもう、勘弁してくれ――そう思った瞬間、またさっきの声が。


「けて……ぁ、あけ……ぇ」


 開けて? 空けて? どっちだろうか。

 どこかを開けろというのか、部屋を空けろというのか。

 どっちにしても「俺に言うなよ」と抗議したくして仕方ない。

 冷蔵庫を開けてみるが、おかしなものは見当たらない。

 ソースが中濃・ウスター・とんかつ・オタフクと四種類あるのは引っかかるが。

 続けて、さっき妙な反応があったトイレをもう一度調べてみる。


 カリカリカリ、カリカリカリカリ


 ここだ。

 音はどこから――と、広くもないトイレの中を見回す。

 天井の端に設置してある埋め込み式の換気扇から、ハラハラと細かい埃が降っていた。

 これだ。

 便器に蓋をし、その上に乗って金属製のカバー越しに換気扇の奥を覗いてみる。

 暗くてよく見えないが、音だけは断続的に聞こえてくる。


「フザケてんなよ、クソッ!」


 目の前で続く怪現象に、何だか小馬鹿にされている気分になり、妙に刺々しい気分になって換気扇を強めに叩く。

 直後、カバーがポロッと外れ、埃の塊と一緒に床に転がる。


「ぷふぇ――」


 飛び散った粉末が目と口に入り、俺は咄嗟とっさに顔を覆った。


「くぉうっ!」


 バランスを崩し、便器から落ちかけて壁で背中を打ちつけ、一瞬呼吸が止まる。

 衝撃で思わず目を見開いた俺の視界に、違和感しかないモノが混ざってすぐ消えた。

 何だ、これ――換気扇から落ちてきたらしいそれを目で追おうとするが、チャッチャッチャッチャッ、とコンクリの上を歩く小型犬みたいな音を立て、狭い個室から逃げ去る。

 

 俺は今、何を見たんだ。


 デカい肌色のダンゴムシ?

 イセエビのできそこない?

 アシダカグモの変種とか?


 どういうことだったんだ、アレは。

 数十秒か数分か、ただただ呆然としていると、玄関の鍵が開けられる音が。

 ああ、井原が帰ってきたのか。

 ドアを開けたら、アレが逃げるかも。


「ん? ……ぉおっ?」


 井原の困惑気味の悲鳴が聞こえた。

 トイレから出て、井原の様子を確認する。

 まだ体は外に出たまま、ドアノブを握った姿勢で固まっていた。

 視線は廊下の先、恐らくはアレが逃げ去った方向だろう。

 口を半開きにして動かない井原に、俺は声をかけた。


「……見たか?」

「ああ」

「アレは何なんだ」

「ああ」

「いや、ああじゃなくて! 見たんだろ?」

「ああ」

「だったら、あの――」


 重ねて問おうとしたところで、息を呑んで言葉に詰まった。

 井原がこちらに向けてくる据わった目には、複数のマイナス感情が混ざり合った色合いが浮かんでいる。

 どうしてそんな目で俺を見るんだ、と問い返したい。

 なのに、井原の態度には有無を言わせない、奇妙な圧があった。

  

「忘れた方がいい」


 棒読みでそう告げてくる友人に対し、俺は黙って頷くしかなかった。

 それは多分、転居したばかりの井原自身にも向けられている言葉なのだろう。

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