将棋セット【ショートケーキとダージリン】
「タノモー!」
時代錯誤な掛け声とともにドアが開かれた。
「アユ太がココのマスターですカ?」
「誰がアユ太だ」
店内で仁王立ちするのは留学生アリス・ウー。
銀髪赤目の派手な外見ではあるが、アリスはイングリッシュネームであり本名は伍小梅(ウー・シャオメイ)。
香港生まれのイギリス育ちだ。
香港は1997年に中国へ返還されるまでイギリスの租借地だったので、本名とは別にイギリス人の覚えやすい名前を付ける習慣があったらしい。
不本意ながらクラスメイトであり、俺がアユ太と呼ばれるようになった元凶でもある。
「む、お気に召しまセンか」
「当たり前だ。お前の名前でいうなら『こうめ』だぞ」
「コウメ!」
喜ばれてしまった。
「こうめと呼ばれたければアユ太は辞めろ」
「ではプーとお呼びしまショー」
「……誰が無職だ」
偶然にも俺の名前はタイの大城(アユタヤ)王朝と、有名な観光地である普吉(プーケット)の中国語表記と同じである。
アリスがいなければ偶然の一致にも気付くことはなかったのだろうが、こんなことに気付いてもろくなことはない。
「マスターどころか家業の手伝いなんで最低賃金も貰えん身分だが、店長代理には違いない。何しに来た?」
「どーじょーデストロイにキマシタ!」
と、右上段回し蹴りで空を切る。
まず膝を突きだし、一拍遅れて足を跳ねるガードのしづらそうなハイキックだ。
女子らしからぬ振る舞いだが、膝まである黒いスパッツを穿いているのでやましいものは見えない。
「うちは将棋喫茶だぞ?」
「ケノービが欲しいのデス」
「けの?」
「ブラックベルト」
と俺の腰元を指さした。
「ああ、ケノービってのは黒帯のことか」
「イエス! オビ=ワン!」
「初段って言え」
将棋喫茶なので、うちの制服は袴だ。
袴の下から黒帯がわずかに顔を覗かせている。
こうやって帯をチラ見せさせるのが粋であり、最近の流行でもある。
ここ最近、将棋界では柔道や空手のように段位で帯の色を変えることが流行(はや)っており、黒帯すなわち初段(オビ=ワン)を目指すのがブームになっているのだ。
「お前空手部だろ? そっちはどうした?」
「みょーなクセが抜けるまでブラックベルトはおあずけされマシた……」
「カンフーの癖か」
そればかりはどうしようもない。
いくら実力的な基準を満たしていても、空手ではないのだから。
「レッツプレイショーギ!」
「将棋指せるのか?」
「ふふーん。グランパはチェスのグランドマスターなのデス!」
「マジか」
GMは最高クラスの称号だ。
世界にも1000人ぐらいしかいない。
将棋のプロ棋士が150人ぐらいだから、チェスの普及度を考えると相当の実力者だ。
「会ったことはありまセンが」
「……ダメじゃねえか」
「GMのブラッドが流れてるのでダイジョーブ。アリスが勝ったらカンバン頂きますヨ?」
「好きにしろ」
道場と違って喫茶店の看板なんぞに大した価値はない。
そもそもうちの看板はまな板だしな。
「とりあえず何かオーダーしろ。話はそれからだ」
「ではショートケーキをプリーズ」
「紅茶とコーヒー、どっちがいい? ショートケーキならダージリンかグアテマラがオススメだ。抹茶っていう選択肢もあるな」
「マッチャ? うー」
迷っている。
「ダージリン!」
「あいよ」
結局は馴染みのある味に落ち着いたらしい。
まずはダージリンを淹れよう。
「ほれ」
「おー、オータムナル!」
さすがに鼻がいい。
香りと色だけで紅茶の良し悪しがわかるらしい。
オータムナルは秋摘みの茶葉で、色は赤みのあるオレンジ。
渋味が少なく、砂糖もミルクも入れないストレートがオススメだ。
「ほわっとしマス」
おそらく匂いのことだろう。
オータムナルは口の中でほわっと甘い香りが広がる。
紅茶で一息吐いたのなら次はケーキだ。
俺もティータイムとしゃれ込みたいのでホールケーキを取り出す。
上にのせるのはイチゴではなくカラント(干しぶどうの一種)にしよう。
客の前でのせるのも重要だ。
ぽちぽちとカラントをのせていき、アルファベットで文字を描く。
『EAT ME(私を食べて)』
「アリス・イン・ワンダーランド!」
『不思議の国のアリス』に登場したケーキだ。
食べると背が高くなるアレである。
なお不思議の国のアリスには『DRINK ME(私を飲んで)』なる飲んだら背が縮む飲み物も登場するのだが……。
チェリータルトやカスタード、パイナップル、ローストターキー、タッフィー、バタートーストなどを混ぜ合わせた味がするらしく、さすがにそれは再現できない。
ホールケーキを切り分けて差し出すと、アリスは満面の笑みでケーキを頬張った。
「うます」
……妙な日本語が若干気になるものの、美味いのは当然。
カラントは選りすぐりの逸品だし、何よりダージリンとショートケーキの組み合わせは鉄板だ。
迷った時はこの2つを注文しておけば間違いない。
「さて、対局と行こうか」
袴を脱いで座布団に座る。
「俺は玉だけでいいぞ」
「ほわい?」
「ハンデだ。その代わり俺が先手で、歩を三つ持ち駒にさせてもらう」
盤に駒を並べる。
9 8 7 6 5 4 3 2 1
・ ・ ・ ・ 王 ・ ・ ・ ・ 一
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 二
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 三
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 四
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 五
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 六
歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 七
・ 角 ・ ・ ・ ・ ・ 飛 ・ 八
香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香 九
アユ太 対 アリス
「……それで勝てる思いマスか?」
「勝てるさ。なんならチェスみたく二歩(ダブルポーン)もありでいいぞ」
「こーかいしても知りませんヨ?」
「するか。……お願いします」
「おねがいしマス」
対局開始の挨拶と同時に羽織を脱ぐ。
これは落語家の真似だ。
落語には町人の噺(はなし)が多く、武士の略式正装である羽織をしているのはおかしいため、本題に入ったら羽織を脱ぐのだ。
いかに格好よく、さりげなく脱げるかで落語家の腕がわかる。
もちろん将棋の腕とは関係ない。
格好いい、それが重要だ。
「行くぞ」
8六に歩を打つ。
・ ▽←アユ太の歩
歩 歩 歩
・ 角 ・
香 桂 銀
アリスは反射的にその歩を取った。
そして8七歩。
「!?」
・ 歩 ・
歩 ▽ 歩
・ 角 ・
香 桂 銀
捨て駒で相手の歩を前に出し、後ろを取って角を殺した場面
「これでお前の角は死んだ」
「ぐぬぬ」
アリスは座禅を組んで考えだした。
こいつは絶対に日本を誤解している。
そもそもいい手など浮かぶはずがない。
もう勝負はついているのだから。
「うー」
だがアリスが諦めていない以上、おとなしく待っているしかない。
ショートケーキを突つき、ダージリンでまったりすること数分、
「アタック!」
ようやくアリスが動いた。
しかしその手は想定の範囲内。
即座に切り返してアリスの玉を殺しにいく。
そして10数手後。
「……マイリマシタ」
アリスが投了した。
これ以上あがいても棋譜(きふ)を汚すだけ。
賢明な判断だ。
「これは初級者殺しの『歩三兵(ふさんぴょう)』って指し方でな」
「ふさんぴょー」
響きが気に入ったのか『ふさんぴょー』『かんぴょー』としきりに呟いている。
「とりあえず歩三兵の8六歩には7八銀としてみようか。銀を一つ上げて角の頭を守る」
「こーデス?」
「先手の次の一手は当然8七歩成りで、それを銀で取る。そこでまたしても8六歩だ」
「これをシルバーでゲットするとバックにポーンでアウトですネ?」
「最初にお前が引っ掛かった手だな。ここで銀と角を引くとこうなる」
・▽・
歩▽歩
・▽銀
香桂角
同じ筋に歩を二枚以上打つのは『二歩』の反則
「くれいじー!」
「実は二歩ありはお前へのハンデじゃない。歩三兵の正式なルールなんだよ。二歩がなければ有段者といえども勝つのは難しい。『楠木に歩三兵にてなぶられる』ってな」
「オー、ハイク」
「川柳だ」
楠木は南北朝時代の名将・楠木正成。
歩3枚と20枚の対局はさながら500の兵で20万の幕府軍を撃退した『赤坂城の戦い』か。
いずれにしろ歩三兵とは、有段者が初級者に『なぜ将棋では二歩が禁止されているのか』を身を以って思い知らせる戦いといえる。
「ここから勝つには5六歩と突いて角で王手をかけるのがセオリーだな」
9 8 7 6 5 4 3 2 1
・ ・ ・ ・ 王 ・ ・ ・ ・ 一
・ ・ ・ ・ ・ 口 ・ ・ ・ 二
・ ・ ・ ・ ・ ・ 口 ・ ・ 三
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 角 ・ 四
・ ・ ・ ・ ・ ・ 口 ・ ・ 五
・ ▼ ・ ・ 歩 口 ・ ・ ・ 六
歩 ▼ 歩 歩 口 歩 歩 歩 歩 七
・ ・ 銀 口 ・ ・ ・ 飛 ・ 八
香 ▼ 口 金 玉 金 銀 桂 香 九
桂馬を捨てて角で王手をかける
後は銀で『と金』を取り、先手に取られた桂馬さえ上手くさばけばいい。
まあ、初級者には無理だろうが。
「うう……、やはりアリスにブラックベルトは早かったようデス」
「お前、日本に来てどれくらいで初段に成れると思ってた?」
「ディープに考えたことはありまセンが。卒業式(グラディエーション)はキモノにブラックベルトと決めてまシタ」
「それなら問題ない」
こいつは定期的な収入の見込める上客だ。
逃す手はない。
サッとホワイトボードにペンを走らせる。
「『三年遊べば初段に成れる』。これがうちのモットーだ!」
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