第四巻

プロローグ

 夏休みが終わって一週間。ようやく毎日学校に行くという学生の本分が体になじんできた頃だった。まだ休みでもいいんじゃないかと思えるような蒸し暑い九月の熱気から逃げ出すこともできずに、僕はまだ冷房の残った教室で家に帰る気力をチャージしていた。


「もう家までの道が全部空調付きだったらいいのに」


 いろんな方向で技術は進歩しているけど、残念ながら今の僕の願いを叶えるほどにはなっていない。エコが騒がれるこのご時世にそんなことできないに決まっているんだけど。


「はぁ、帰るかなぁ」


 そろそろこの教室も残暑に包まれる。その後に比べたら外の方が風通しがいいだけマシだ。そう自分に言い聞かせて立ち上がった。教室のドアを開ける。そこにはなんとも暑苦しい視線を持った僕の持ち主が立っていた。


「まだいたのね。一応確認に来てよかったわ」


「玲様」


 長い黒髪を優雅に揺らしながら入ってきた玲様、中条玲は僕のことをお人形だと言ってはばからない名家のお嬢様にして、僕の数少ない友達でもある。


 僕よりちょっとだけ低い背は近くにいても安心する。一番近くにいる人が見上げなくちゃいけない存在だからなんだけど。ただ凛とした瞳は見つめているだけで吸い込まれそうな深みがあって、僕は玲様の頼みを断れないのだ。


 教室の外はやっぱり暑いみたいで赤みがかった額には汗が浮かんでいる。胸元のボタンを開けてパタパタと冷ますたびに大きな胸が揺れているのが薄手のブラウス越しにわかる。僕の目に毒だからやめてほしいところだ。


 この時点でなんとなく予感がした。また妙なことを始めるつもりだって。僕だって学ばないわけじゃない。こういう目をしているときの玲様は、決まって周りに何かをやらせようとしているときだ。


「イベントに行くわ」


「イベント?」


 いったい何の? イベントなんてものはこの田舎ではせいぜい夏祭りくらいのもので、それも先月に終わってしまった。次はクリスマスにアーケードにツリーが飾られてセールが始まるまで何かあったような記憶もない。学校では修学旅行や文化祭が控えているけど、行くって感じじゃないしなぁ。


「同人イベントよ。私が描いて本にして売るのよ」


「あぁ、あの東京の」


 ニュースで見たことがある。夕陽ヶ丘の何倍もの人が東京の会場に集まっているのを見た。さながら人の海って感じで、あの中に自分が入ったらそのまま潰されそうなほどだった。


「あれ? でもあれって夏と冬にあるんじゃないの?」


「有名なのはね。でも実際は結構いろんなところでやってるのよ」


 そう言って玲様はポケットから折りたたまれたチラシを一枚取りだした。シンプルな文字とキャラクターのイラストが描かれたシンプルなチラシ。創作同人誌のイベントは遥華姉と行った動物園よりさらに遠い大都市のドームで開催されるらしい。


 マンガ、イラスト集、小説、評論文、写真集。そういった自分が作った作品を持ち寄って交流するんだとか。


「しかもこのイベントはね、ゲーム会社の商品見本市が併催されているのよ。つまり他のイベントより人が集まりやすいってこと」


「へぇ、そうなんだ」


「私も初めてだからよくわからないんだけど、そうネットに書いてあったわ」


 聞きかじりの知識だったの? なんだか感心して少し損した気分だ。でも玲様が描いたマンガが誰かの手に渡るとしたら、それはとってもすてきなことかもしれない。


「それで、どんなマンガを描いたの?」


「それは、これからよ」


「そのイベントっていつ?」


「文化の日の祝日」


 ってことはあと二か月くらいだ。マンガってどのくらい描くんだろうか。本屋さんに売っている単行本なら二〇〇ページ弱くらいあるけど、さすがにそんなにたくさんは描かないだろうし。でもちょっとずつ進めているんだろうなぁ。


 そんな風に楽観的に考えていたのは僕だけだったみたいで。


「直、手伝って。印刷所の〆切りって開催の一か月前だったのよ」


 玲様が僕の服の裾をつかんでそう言った。なるほど、教室にきたのはこれが理由だったのだ。でもこうして僕を頼ってきてくれるのはちょっぴり嬉しく思えてしまう。夏休みはいろいろと騒がしくしちゃったし、恩返しにはなるかな。


「いいけど、僕絵なんて全然描けないよ?」


「大丈夫よ。ちゃんと仕事はあるから」


 その言葉とともに玲様の目がまた光る。ここでようやく僕はまた安請け合いをしてしまったと気がついた。教室に入ってきたときの様子を考えれば玲様が僕にただマンガを描く手伝いをしてほしいって言いに来ただけじゃないってことはわかったはずなのに。


「直はこれでよしとして、あとは湊に少し手伝ってもらわないと」


「じゃ、遥華姉にも声かけておくよ」


「え。遥華は」


 少しだけ玲様の動揺が見える。絶対に連れていかなきゃ。僕だけじゃなにかと理由をつけてサボろうとし始めた玲様と湊さんを止められないだろうからね。


「とにかく初めてちゃんと誰かに見せるマンガを描くから」


「うん。頑張ってね」


 でもやっぱり楽しみでもある。だって玲様が自分の夢に向かって一歩を踏み出すんだから。僕はいったいどうすればいいのかと立ち止まったままなのに。


 ちょっとだけ胸の痛みを覚えながら、僕は玲様と一緒に教室を出る。残っていた暑さが玲様のやる気のせいに感じてさっきより心地よく思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る