恋する気持ちは竹刀を打ち合わせてⅥ

 バイトから戻ると、玄関にある靴の数がいつもより一つ多い。誰のものかなんて考えなくてもわかる。遥華姉の分だ。今日はおばさんの仕事が遅くなったのかな? うちで夕食を食べることなんて少なくないから、驚くことでもない。


 居間の前を通ると、すっかり定位置となった元々お父さんが座っていた上座に座っている。来客と言えばそうだから間違いではないんだろうけど、遥華姉の威厳に気圧される気分だ。


「ナオ、おかえり」


「ただいま。着替えてくるから先に食べてて」


「まだだからゆっくり着替えて手洗ってきてね」


 そんな普通の会話になんだかほっとする。なにかとドタバタすることが多かったからゆっくりご飯が食べられることに幸せを感じる。こんな風にだらだらと続いていく日々が嫌だと思っていたのに、いつの間にかそれを求めているんだから、僕はやっぱり欲張りなのかもしれない。


 席について手を合わせる。今日のメニューは冷しゃぶに定番のお味噌汁。暑い夏でもこれだけは食べたくなるんだから不思議なものだ。疲れた体にはこの落ち着いた味がいい。


 冷しゃぶにはポン酢派だ。うちの家族はみんなゴマダレはあんまり好きじゃないらしい。青じそドレッシングとかもさっぱりとしていて合う。たっぷりのキュウリとレタスとたまねぎの千切りを巻いて食べるのがおいしいのだ。


「うん、おいしい」


「そう? ありがとう」


「早苗さんが料理上手だから、ナオがおいしいしか言わなくなるのかな?」


 確かにお母さんの料理でおいしくなかったものがない。僕はほとんど毎日おいしいって言っている気がする。別に嘘はついてないし、僕は料理は食べる専門で何がいいとか悪いとかそういう指摘ができるわけじゃない。とにかくおいしかったことを伝える以外に能力がないのだ。


 特別語彙も多くないから、結局僕の口から出される言葉はおいしい、の一言になってしまう。同じ言葉でもちょっとずつ意味は違うんだけど、そんなの理解してくれっていう方が無理な話だよね。


「この後、おやつあるけど」


「今日は何を作ってきたの?」


「ナオの感想は期待できないから食べなくていいかなぁ」


「そういうこと言うんだから。なんて言っていいかわかんないし」


 そもそも遥華姉だって期待できないことは十分わかっているはずだ。それを承知で持ってきてくれているはずなのに。

 ちょっと試しに今食べた冷しゃぶの味を考えてみよう。うーん、お肉はさっぱりしていて、ポン酢とお野菜とよく合う。もも肉だから硬すぎず、でも肉厚で食べ応えがある。そしてそこから導き出される結論は、やっぱりおいしいということだけだった。


「無理して考えると頭がパンクするんじゃない?」


「もうすでに無理みたいだよ」


 やっぱり僕にはできないみたいだ。そういうアドバイスはうちのお母さんに全部任せて、僕はしっかりとおいしいことを伝える努力をしてみよう。


「あとでナオの部屋に行くからね。そこでゆっくり聞いてあげよう」


 たぶんそれは冗談で、要するに宮古先輩との勝負をどうするかって話を相談するんだろう。僕はアルバイトで入れ違いになってしまったから、まだもう挑戦状を叩きつけたことは遥華姉には言っていない。なんて言うかなぁ。呆れて何も言えないかもしれないけど。


 夕ご飯を終えて、部屋に戻る。遥華姉はお皿に乗せた今日のお菓子を隠したまま、僕の後ろをついてきている。部屋に入るまで、何を作ったかは見せてくれないらしい。


 今まではクッキーとパウンドケーキ。それからチーズケーキも湊さんと一度作っていたっけ。イマイチだったらしくて、僕のところには届かなかった。すごく気になってるんだけど。じゃあ次はどんなものだろう。ショートケーキとか? お皿に乗っていることを考えればクッキーみたいなつまんで食べるものじゃないだろうし。


 料理の知識がないっていうのはこういうときにも困るのか。そのうち遥華姉が僕が名前も知らない料理とか作ってきたらどうしよう? ビーフストロガノフとかボルシチとか名前は知ってるけどまったく想像がつかない。料理の勉強もした方がいいのかな。


 僕の部屋の壁にたてかけてある折りたたみ式のちゃぶ台を起こす。遥華姉や湊さんの部屋だとローテーブルなのに、僕の部屋だとちゃぶ台って呼びたくなるんだから日本語っていうのは不思議なものだ。


 まずは僕が持ってきたコップ。それから遥華姉が隠し続けていた背中のお皿をちゃぶ台に乗せる。そこにあったのは、真っ黒でちょっと生地の詰まったケーキ。上にはたっぷりの粉砂糖。間に挟んであるチョコレートガナッシュはクルミがたっぷり入っている。これは僕でも知っている。


「ガトーショコラだ」


「ナオでも知ってたんだ」


「さすがにそのくらいは知ってるよ」


 ケーキは大好きだもの。でもとっても手間がかかりそうだし、難しそうなんだけど教えてもらったとはいえ遥華姉うまくなりすぎじゃないかな。なんでそうみんな一足飛びに成長していくんだろう。僕の方は全然だっていうのに。


「はい、どうぞ。フォークも持ってきたから」


 遥華姉に勧められるままにフォークを握って、先端をゆっくりと切り取る。チョコレートの重さに沈んだしっかりとした生地は、フォークの先に乗っただけで重さを感じる。チョコレートの焦げた香りが鼻腔をくすぐる。


 たまらず口の中に勢いよく入れると、ほのかな苦みとたっぷりの甘さが僕の口の中をあっという間に支配した。


「おいしい!」


 それだけ言ってはっとした。やっぱり口に出せたのはそれだけだ。もっとこうテレビ番組のレポーターが言っているような伝わるような伝わらないような飾り付けられた言葉を最初に出したかったのに。そりゃ食べ終わるまでに思いつかないかもしれないけどさ。


「また言った」


 遥華姉はやっぱり、とにやつきながら僕の顔を見て言った。


「これから考えるから」


「いいよ。いつもより声が明るかったから上出来みたい」


 それだけ伝わっているなら僕が考えるまでもないじゃない。ちょっとした声のトーンの違いだって僕たちには聞き分けられるのだ。次の一口を放り込みながら、僕は遥華姉の成長速度にちょっと焦っていた。

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