Qutie Crazy Doll ~僕は彼女の着せかえ人形~

神坂 理樹人

第一巻

プロローグⅠ

 早朝の冷たい空気を切り裂いて、白刃が朝日を照り返した。


 澄んだ空気の中では刀身に当たる太陽の日も明るく見える。誰もいない道場は床板から帰ってくる冷たい感覚さえもどこか嬉しく感じてしまう。


「ふぅ。今日はなかなかいい感じかな」


 残身をほどいて、僕はゆっくりとその刀を腰にしまった。もちろん模造刀だから手を斬ったりする心配はないんだけど、これでかなり重いし、落としてしまったら大変だ。


「今日も気持ちがいいな」


 天気は快晴。気温も過ごしやすいうららかな春の日。昔の人ならここで一句でも詠みたくなるところなのかもしれないけど、僕にはそこまで教養がない。だからこうしてたった一人の道場で無心で刀を抜くことしかできないのだ。


「あ、ナオ。やっぱりここにいた。もう朝ご飯できるって」


遥華姉はるかねえ。おはよう」


 刀の片付けをしていると、入り口に遥華姉の姿があった。姉、と呼んでいるけれど、僕の本当のお姉さんじゃない。お隣に住んでいる僕の一つ先輩だ。小学生の頃に引っ越してきてうちの道場で剣道をやっていた。今も高校で剣道部のマネージャーをやっている。


 柔らかな表情と変わらない優しい声。それとは正反対の重心に少しのブレもないまっすぐな立ち姿。学校でも女の子のファンが結構多いことを本人は嫌がっている。


 出会った頃からクラスでも一番背の高かった遥華姉は今でもクラスの女の子で一番の長身のはずだ。剣道部だけじゃなくバレー部やバスケ部、あらゆる運動部からの誘いを断って選手ではなくマネージャーになった理由も僕はよく知っていた。


「おはよう。早く汗流して着替えておいで」


「わかった」


 それだけ言うと遥華姉はぱたぱたとまた小走りに母屋おもやの方へと戻っていく。その背に一つにまとめられてまっすぐ垂れる長い黒髪に僕はやっぱり考えさせられる。あれはもう二度と剣道をやらない、という強い意思表示に思えるからだ。そしてその反動は他でもない僕に向けられている。


 道場を出て、僕は入り口を振り返った。古びた一枚板の看板には『小山内おさない道場』とかすれた墨文字で名前が書いてある。今日も夜になれば道場生がたくさんやってきて練習に汗を流すんだろう。その中に僕が入らなくなったのは中学に入ってからだからもう三年も前になる。


「早く行かなきゃ」


 空っぽの道場に背を向けて僕は母屋に向かって歩き出した。


 シャワーを浴びて道着から着替えを済ませ、居間に向かうと僕が一番最後だった。畳敷きの十畳ある居間には大きな座卓。朝から支度をしてくれるお母さんのおかげで今日も小山内家の食卓は豪華絢爛ごうかけんらんだ。白いご飯に焼き魚、味噌汁に浅漬け。日曜日の朝からこれだけのものが食べられることに感謝しないとね。


 食卓には遥華姉とお母さんそれからじいちゃん。じいちゃんは今も道場の師範をやっている。もう今年で六五になるのに、まだまだ元気に小学生や中学生を指導している。


「ほれ、直。早う座れ」


「あ、うん」


「直はごはん大盛りにする?」


「普通でいいよ」


 お母さんに笑顔で返して僕は遥華姉の隣に座った。上座にはじいちゃんが座って、その次のくらいは現在遥華姉のものになっている。確かに我が家では僕より扱いがいい気がするのはきっと気のせいじゃない。


「やっぱり私がおじさんの席に座るのよくないと思うんだけど」


「いいのよ。あと一年は帰ってこないんだから」


「もうちょっと言い方あるでしょ、お母さん」


 単身赴任のお父さんもそんな言われようじゃ浮かばれないよ。


 隣に座る遥華姉の顔がちょっとだけ上に見える。僕にはそれが悔しかった。


「どしたの、ナオ?」


「なんでもないよ」


 始めて会ったときから僕よりも背の高かった遥華姉は止まることを知らないまま伸び続け、いつか追い越すだろうと気楽に構えていた僕を絶望の淵に追い込んだ。高校生になる頃には、と淡く抱いていた期待は見事に打ち破られ、僕は未だに遥華姉より一〇センチ以上も低い背丈に甘んじている。


 僕は遥華姉の不思議そうな視線を見ないようにしながらお味噌汁に口をつけた。


「そうだ。ナオは今日予定あるの?」


「いや、特にはないけど」


「じゃあ、今日どこかに出かけようか」


「え、えっと」


 言い淀む。部活にも入っていないし友達も多くない僕に、日曜日だからといって予定が入ることはめったにない。ただ遥華姉と出かけるとなると何かと理由をつけて断りたいところだった。


「何もないんだからいってらっしゃいよ。ハルちゃんがいないと一日家にいるだけなんだから」


「それはそうなんだけどさ」


 お母さんからの援軍はどうやら遥華姉の方についたようだ。じいちゃんは孫の窮地にもまったく興味がないらしく、歯に挟まった魚の小骨と格闘している。


「大きくなったから一緒にいるのが恥ずかしいんでしょ? 気にしなくていいのに」


「そうそう。私は気にしてないよ。太陽の光を浴びないと吸血鬼になっちゃうよ?」


「吸血鬼が太陽の光浴びたら死んじゃうよ」


 恥ずかしい、というのは嘘ではない。でもそれは遥華姉と一緒にいるからじゃないのだ。とはいってもそんなことをお母さんに話すつもりはないし、話せることじゃない。


「わかったよ」


 だから、僕は結局遥華姉の言うとおりに首を縦に振るしかないのだ。

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