お好みに、おツクリさせて頂きます。
それから一ヶ月、週に一度、多ければ二度は、仕事帰りに彼女の店へ、通うようになった。本当は仕事が休みの月曜日も、通いたいのだが、こう見えても僕には妻がいるため、その日は尽くしてやらねばいかんのだ。
悲しくも、僕の癒しとの逢瀬を交わすことはできない。それを考えると、自然にこみ上げてくる、苦く大きな溜息を飲み込み、僕はオアシスへと向かうために、ドアを押し開けた。
「いらっしゃいませ。まぁ、物井さん、いらっしゃい」
白い半袖のワンピースの裾を揺らしながら、四季沢凛々(しぎさわりり)は僕を振り返る。
「凛々さん、今日も来てしまいました。少し…」
彼女は、僕が話しているというのに、たったったと奥に駆けて行き、丸い缶を持って戻ってくると、「今日も来て下さると思って、クッキーを用意しておいたんです。今、お茶も入れて来ますから、座っていて下さい」
なぁんて、可愛らしく唇を緩ませながら、又、奥に走って行く。そんな姿に、抑え切れない笑みを浮かべながら、僕はいつものように店の中央にある椅子に腰を掛ける。目の前のテーブルには、丸いクッキー缶が置かれていた。これは、僕の為に買われた物なのだと考えると、もう、にやけが止まらない。
だが、クッキー缶を見つめて、そんな顔をしている人間は、相当気持ちが悪い。僕がそんな奴を見掛けたら、即刻どん引いてしまう。多分、僕だけでは、ないと思うが。
でも、凛々さんなら「まぁ、クッキーがとってもお好きなんですね」等と、言ってくれるかもしれない。だがもし、万が一そうでなければ、彼女に気味悪がられてしまうので、僕は口元をきゅっと引き締める。
それにしても、相変わらず個性的なデザインの帽子を思い付くものだ。店内を見渡すと、至る所に不思議なデザインの帽子が並べられている。これ等は、僕なんか庶民が手を出せるような値段ではない。流石オーダーメイドとでも、言うべきか。にしても、こんな変てこな帽子を買う者がいるのだろうか。
この一ヶ月、店に訪ねて来る者を、僕は二人しか見たことがない。一人は僕で、もう一人は、金持ちの匂いを、ぷんぷん撒き散らした、いけ好かない男である。二人の会話や、雰囲気から察するに、恋人ではないようだが、僕と同じく、その男も常連なのだろう。
気に食わないが、僕にはそいつをどうすることもできないのだ。見掛けしか分からない男に、嫉妬し苛立っていると、ふいに、後頭部に違和感を覚えた。振り返ろうとしたが、それは僕にそうはさせてくれない。
「動いちゃ駄目ですよ。お帽子、もう少し、こっちです」
いつの間にか、僕の背後には、凛々さんが立っていた。彼女は、僕のヅ…お帽子を正常な位置に直し、机を挟んだ正面に腰を下ろした。
「うん、やっぱり、そのお帽子はそこでなくちゃ」
彼女は何の躊躇いもなく、いつだって僕の帽子に触れる。妻でさえ、それには触れないし、僕自体を汚いものを見ている目で見るというのに彼女は違う。僕はどうしてあの妻を、伴侶に選んでしまったのだろう。
「凛々さんは、平気なんですか」
唐突に言葉が漏れた。入れたてと思わせる程、湯気の立つお茶を、彼女は見つめていた。暫くすると、キョトンと小首を傾げ、ちょっと分からないですと笑う。それもそうだ。一体、何のことなのか、僕にしか分かるまい。
折角彼女が持って来てくれたお茶は、息をかけても冷めそうになかった。だから僕は、クッキーを頂くことにする。別にお茶もクッキーも、今の僕にはどうでも良かったが、頭と心を整理するためには、何かをするしかなかった。クッキーを咀嚼する度に、妻と出会ってから現在に至るまでの記憶が、流れていく。走馬灯とは、こんな感じなのか。
妻だって、凛々さんのように、お淑やかで素直な奴だった。まぁ、結婚するまでの姿であったが。今となって思えば、僕は妻に騙されたのだ。僕が望む女性とは正反対の妻を、僕は初めから愛していたのだろうか。愛とは恋とは、目の前でクッキーを頬張る彼女に抱く、この感情のことではないのだろうか。こんな形で運命が巡って来るのなら、妻を選ばなければ良かった。
「あの、さっきのことなんですけれど…」クッキーを食べる手を止め、凛々さんは僕を見つめている。その視線に顔の筋肉が弛みそうになったので、彼女からクッキー缶へ目を移す。四十枚程度は入っていたクッキーが、十枚くらいしか残っていない。
「えっと、変な質問なんですけれど」
僕は再び彼女に視線を戻す。
「凛々さんは、僕の頭を見ても何とも思わないんですか」
冷たい一筋の汗が、僕の背中を伝った。いつだって微笑んでいる彼女から、笑みが消えたからだ。僕は、聞いてはいけないことを、聞いてしまったのかもしれない。
「あの凛々さん…」
「物井さんのそれって、円形脱毛ですよね」意外だった。その質問は勿論だが、この頭を見て、彼女がそれに気付いていたことが、一番驚いた。
「よく分かりましたね。僕、年の割りには老けて見えるんで、皆ただのハゲだと思っているんでしょうけど、実はストレスで抜けたんです。でも、どうして分かったんですか」
「物井さんと初めてお会いした日、散らばった資料を拾う、貴方の爪を見てそうかなって」
僕は自分の歪んで凹んだ爪を見た。
「それに…私もなったことがあるので」
「えっ」
顔を上げると、悲し気な笑みを浮かべた凛々さんが目に映った。
「私、本当は今頃、結婚しているはずだったんです。その病気にならなければ……。変な話ですよね。治らない病気ではないのに、結婚できなくなったなんて。でも、あの人は恥かしいって、髪が抜けた私を見て、そう言ったんです。それからすぐに出て行って、一ヶ月もしない内に、とっても可愛い人と一緒になったみたいです。でも今はほら、ちゃんと元通りになったんですよ。ふふふっ。」
ずっと疑問だった。彼女のような人がどうして、一人身なのか。
何と声を掛けよう。肝心な時に上手い言葉が使えない。そんな僕を見て、彼女はいつものように笑った。そこには、さっき見せた悲しみを、微塵も感じることができない。
「つまらないお話を聞かせてしまって、御免なさい。お茶、入れ直しますね」
席を立ってしまいそうな彼女に、半ば叫ぶように、僕は言った。
「今度の月曜日は、お暇ですか」
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