第1話

まだ寝ていると思われたのか、呼び鈴が続けて鳴らされる。

「はいはい、いますいます」

小声でぼやきながら鍵を開けてドアを開くと、このアパートの管理人の船井 ヨネが書類を持って立っていた。

「はいこれ。昨日言ってたやつ。明日まででいいから書いて持ってきて」

管理の悪さが一目でわかる無造作な折れ目のついた紙を3枚渡される。

「他の部屋の人に挨拶した?多分みんな起きてるから今のうちにやっちゃいなね」

ゆったりとした口調で助言をした後、ヨネはじゃあよろしく、とだけ言って去っていった。

今年で68歳になる彼女は、夫に先立たれて一人暮らしをしている。通路を挟んで向かい側の一軒家に住んでおり、若者の力になりたいと長らく空き地となっていた土地を買い取って学生限定と銘打ったアパートを建てたらしい。

ありがたいことをしてくださる方もいるものだと感謝しつつも、くしゃくしゃの提出書類をしかめ面で伸ばす。

書いてしまおうと思ったが、明日までならまだ時間がある。どんな人が住んでいるか気になるし、挨拶を先にすることにした。


健太が住む001号室の隣、002号室の前に立つ。緊張しながら呼び鈴を鳴らすと、はーいと返事が返ってきた。

「001号室に引っ越してきた者です。ご挨拶に来ました」

慣れない敬語で応対するとドアが開き、細面の男性が顔を覗かせた。

「あ、どうも、えーっと、1号室ですか?」

明るい色のパーマがかかった髪がふわりと動く。風貌と雰囲気からは、年の近さが感じられた。

「大正大学に入学した、合田 健太と言います。よろしくお願いします。」

それでも抜けない緊張から、たどたどしく自己紹介をする健太を表情一つ変えずに見つめ、男性は

「あー、赤谷大学の柏木 修平です。いいよ、そんなかしこまんなくて。どうせ一個違いだし。」

と手のひらを健太の方に向けて答えた。

赤谷大学といえば、大正大学と同じランクの私立大学だ。

付き合いづらい人ではなさそうだ。挨拶用に用意した地元の銘菓を渡して軽く話をしてから、健太は002号室を後にした。


そのまま隣の003号室に向かう。幸先はよかった。このままスムーズに回りたい。

心を落ち着かせて呼び鈴を鳴らすと、返ってきたのは女性の声だった。

油断していた。高校の頃は女子との交流なんて皆無に近く、ましてや交際経験もない。

幼馴染も特にいないので近くにいる女性と言えば3歳下の妹くらい。

どうしよう。目を合わせられるか。まともに話ができるか。戸惑いがピークに達してじんわり汗をかき始めた瞬間、目の前の扉が開いた。

「あれ、どちら様ですか?」

出てきたのは明らかに年上の女性。栗色の髪を後ろで結っている。整った顔立ちで目を合わせていると見惚れてしまいそうなので咄嗟に下を向いた。

何か話をしなければ。いや、挨拶だ。挨拶をしなければ。最大限の勇気とある限りの語彙力を振り絞る。

「お、はようございます。隣、あ、の、隣…1、号室…1号室に引っ越してきました!合田 健太です!これからお世話になりますよろしくお願いします!」

惨敗である。さぞかし怪しまれただろう。これからの付き合いが不安だ。頭の中が真っ白のまま、無意識にお菓子を両手で突き出した。

「君が新しく入ってきた人なんだね!私は福島 彩子っていいます。大学院の1年生で、公務員を目指してます。これからよろしくね!お菓子もありがとう、これ、どこのですか?」

あまりに素晴らしい対応をされ、なにも考えられなくなった。質問を受けたのは覚えているが、なんと答えたかは記憶にない。最後によろしくお願いしますと挨拶して、丁寧に扉を閉められたところでやっと我に返った。

芸能人と言っても通じるんじゃないだろうかと思うほどの美人だった。こんな人が身近にいるなんて。一人暮らしも悪くない。

頬を赤らめて暫く立ち尽くしていたが、こうしてはいられないと頭をぶるぶると振って熱を冷まし、横の部屋に向かうことにした。

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