第50話・裸婦

 肉体の成長は促されたが、精神の成長を促すべき劇的な機会もまた同時にやってきた。

「はだかの女が見れるぞ!」

 裸婦デッサン、なる授業が行われるのだという。つまり、素っ裸の女性をモデルにして画を描きましょう、というあれだ。人体のつくりを理解するために、裸婦の素描は芸術の世界では必須の課題なのだ。数週間後に、そんな夢のような出来事が実現する。ウワサを耳にした男子たちは、ざわめき立った。なにしろ、今まで幻想世界にしか存在していなかった、おっぱいや、尻や、もっと重要な秘部を、心ゆくまで凝視できるチャンスだ。心穏やかでいることなどできるわけがない。妄想はふくらみ、別のものもふくらむ。

「水泳用のサポーターパンツを二枚重ねてはいてけ」

「立って描いたらあかんぞ。ぜったい座ってデッサンしなかん」

 悪い先輩たちからさまざまなアドバイスを受け、オレたちは、反応するにちがいない体の部位対策を練った。そして本番当日を夢み、粗相などしでかさないように入念にシミュレーションをくり返し、指折り数えて寝苦しい夜を過ごすのだった。

 早くきてほしいような、こないでほしいような、そのときがついにやってきた。彫刻室は、窓という窓に真っ黒なカーテンが引かれ、内部の光景を決して外に漏らすことがないように、厳重に覆い隠された。この密室感が、またなんともたまらない。いつも過ごしている何気ない空間が、今や劇場のような雰囲気をかもし、いやが上にも気持ちの高揚を駆り立てる。生つばを飲んで、その瞬間を待った。

 果たして、それが開始された。着替え用に特設されたカーテンのブースから、薄いガウン一枚のみをまとったモデルさんがしずしずと登場だ。きれい・・・でもなく、かわいい・・・ともいえず、かといってブサイク・・・なわけでもない、普通の女性だ。30前くらいか。意外に、気分の盛り上がりはない。がっかりのような、安堵のような、奇妙な心地だ。と同時に、ピリピリとした緊張感が、部屋全体を包み込む。誰もが無言だ。期待していたストリップは、恐ろしいほどの厳粛さで幕を開けようとしている。

「では、お願いします」

 好々爺のタマイ先生が言うと、モデルさんは少しの躊躇もなく、はらりとガウンを肩からすべらせる。そして、部屋の中央に用意された、ちゃぶ台のようなモデル台の上に立ち上がった。

 その瞬間、ある種の「きょとん」が去来した。まばゆさも、興奮も・・・皆無だ。率直に言えば、それはストリップショーではなかった。下半身は、なんの反応を起こさない。目の前にあるのは、モノだ。生きた肉の質感を持つ物体。それが動かないで、空間の中に存在している。石膏像と、たいして違いはない。薄く呼吸をしているかどうか、だけの話だ。ただ、それは圧倒的にリアルだ。人体の理想型たる石膏像と比べてはなるまいが、幻滅をともないそうになる現実がそこにある。おちちにも尻にも、あらがいようのない引力が作用している。肉の起伏は、幻想界のもののようになめらかではない。つまり裸婦とは、すばらしく美しいわけでもなければ、エロいわけでもない。夢の中に思い描いていたものと、それはおよそかけ離れた、無慈悲な真実だ。しかし、骨格の上を筋肉が取り巻き、皮に覆われたその物体は、血液を走らせ、体温を発している。呼吸と鼓動のリズムが波打って表皮を駆け巡り、バランスを求めるからだの均衡は一時も固定されない。そのことが、こちらを決定的に感動させる。いやらしさではない、理由のわからないドキドキが止まらず、鉛筆を動かしながら、ただただ動揺しつづけるしかなかった。

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