第36話・木炭デッサン

 加納高校美術科の一日は、石膏デッサンからはじまる。石膏デッサンとは、石膏製の彫像(ギリシャやローマの英雄たちの石像を模造したもの)を精密に描き写す作業のことだ。用いるのは、画用の木炭に、消しゴム代わりの食パン、以上だ。美術科生たちは、毎朝それだけを用意し、始業前にデッサン室にこもる。

 オレたち1年生は、入学に際し、各自にカルトンという窓枠ほどもある画板を与えられた。大きな画用紙もはさみ込める、芸術家の小脇におなじみのやつだ。早朝にデッサン室に足を運ぶと、すでに上級生たちは静かに作業を開始している。抜き足、差し足、で室内を進んで、準備をしなければならない。お気に入りの石膏像の前に場所を確保したら、カルトンをイーゼルに据え、木炭画専用の木炭紙をクリップでセットする。この大きな木炭紙は、木炭でできているわけではなく、白紙だ。木炭がよく乗るように、表面がザラザラでこぼこにできている。この粗い紙の上で木炭を滑らせると、炭がざっくりと紙に移るのだ。そのガサガサの線や面の調子を、指を使って整えていく。木炭そのものの色合いは濃い影になるし、軽くこすればハーフトーンになる。強くこすると、反射光を受けたようなツヤも出せる。食パンのしっとりとした部分でぬぐうと、ハイライトができる。そうして陰影を際立たせつつ、ススを紙上に定着させていく。鉛筆画だと、どうしても画面に光沢が出てしまうため、純粋な炭素である炭を用いるのはたいしたアイデアではないか。太古の昔より伝わるまことにシンプルな描写技法だが、これがなかなかうまくできていて、微妙なタッチひとつで、量感、素材感、光の質が表現できる。真っ白な紙の上に、真っ白な石膏像を、炭という暗黒のみで表現するわけだ。そこには影しか存在していないので、空間における立体の理解にはもってこいと言える。そしてそれは、技術的な優劣を区別するのに非常に効果的なのだ。

 美大・芸大の受験は、なによりもこの木炭デッサンが重要視される。学科(つまり賢さ)など二の次、三の次。とにもかくにもデッサンができなければ、ゲージツ家はスタートラインにも立てない。この「創造性」の前段階に「テクニック」を置くあたりが、日本の美術教育のゆがんだ部分なのだが、確かにうまいヘタを歴然と選り分けるのには都合がいい。われわれ美術科一同は以降、デッサンのレベルによって人間としての質を計られることとなる。

 デッサン室は、くもりガラスを透過する柔らかい自然光に満たされている。石膏像の陰影が最も美しく出る光量を考えて、設計されているのだ。美術科の2年生、3年生の先輩たちは、ヒマさえあればデッサン室にこもって、大きな画紙に向かっている。彼らの技術は驚くべきもので、木炭とパンの切れ端だけを使って、トーンを自由自在に操り、モリエールやブルータスなどという高難度の彫像を紙の中に写し込んでいく。その正確な構図、立体感、繊細な描写は、「画の上手な中学生」上がりの新入生たちを圧倒するに十分だ。

 1年生が使えるスペースは、デッサン室の端っこの薄暗い一角だ。そこには、首だけが切り離されたビーナス(頭像)や、アグリッパという軍人さんの胸像が並べられている。このひとたちはまことに端正な顔立ちをしており、鼻筋に対して左右対称な上に、顔を縦に二分割したライン上に目があり、また二分割したライン上に髪の生え際、鼻、口などが配置された、まさにお手本みたいな美男美女なのだ。「マンガ入門」の最初のページを思い出してしまうではないか。要するに、描くのにいちばん簡単、便利な石膏像と言える。オレたちは、そんな与えられた一帯にイーゼルを並べ、真新しいカルトンに木炭紙を固定する。木炭紙は、一枚150円もする。大切に描かなければならない。

 毎朝、トップを切ったと思ってデッサン室に乗り込んでも、薄闇の中でクラスメイトの半数ほどはすでに鼻先を汚している。先輩たちに限れば、大多数が修練にはげんでいる。室内が静かすぎるため、こんなにも大勢の人間がひしめいているとは感じられないのだ。木炭と格闘中のクラスメイトたちの目は真剣で、部屋に入るこの瞬間だけは、呼吸をするのもはばかられるほどだ。彼女らは手を真っ黒にし、その指先で紙をせっせとこすって、黒から白へのグラデーションを練習している。まだ、見よう見まねで、質の方はおぼつかない。それでも、その意欲は脅威だ。オレはこそこそと自分のイーゼルに向かい、消しゴム用に買ってきた食パンをほおばって、まずは腹を満たす。なんてところに紛れ込んでしまったのだろう。競争の中に落とし込まれ、仕方なく腕磨きにはげむ。

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