07

 それにしても、考えてみれば不思議なものだ。

 私がこの病院で目覚めたときには、自分が何者であるか分からずにいた。今でもそれに変わりはないのだが、その脆弱な基盤の上に、ある一つの人格とでも言うべきものが形成されていった。それを促したのは病院の環境や友人でもあったが、決定的なのはやはり海からの声だった。

 私はその声を恐れた。次の日もその次の日も、私が声を聞かない日はなかった。私たちは恐れながらも、その悲哀に満ちた声から逃れることはできない。もちろん、60番も同じ状況下にある。

 翻ってあのラジオのことを考える。言ってしまえば、あのラジオから流れてくる放送は、あの声を変奏したものに過ぎない。どこか海の向こう側から、得体の知れない相手が流している放送なのだから。60番にもそのことは充分に分かっているはずなのだ。それなのに、彼はあのラジオの放送を毎日のように繰り返して聞いているという。

 それが不思議でならないのだ。

 そこでもう一つ不思議なのは、東の人間があのラジオ放送を聞いていたということだ。ひょっとすると彼らと私たち、東と西の人間を分かつものは、声が聞こえるかどうかというそれだけのことなのではないだろうか。ラジオから流れてくる放送が海の声の変奏であるという発想は、必ずしも飛躍したものではないし、誰もが考え得るものだと思うのだ。それでも彼らがラジオを聞いていたというならば、彼らは海の声が聞こえないか、それともあの方の内容を理解しているから恐れる必要がないのではないだろうか。

 ここで私の好奇心が動き出す――無機質な部屋の中にいる時間が多いから、自然と色々なことを考えてしまうのだ――。あの放送は何を伝えようとしているのだろうか?

 私はその翌朝、早めに起きて裏庭へ向かうことにした。






 私がそろそろ部屋を出ようかと思っていたそのとき、ドアをノックする音が聞こえた。ミス・ホワイトだろうか、そう思ってドアを開けた。


「おはよう」


 そこには60番が立っていた。

 私は彼を部屋に招き入れると、イスを差し出して座ってもらうことにした。

 私の部屋は相変わらず淡白で、彼と同じようにいくつかの本を重ねてはいるのだが、彼と違ってその数は僅かなものだった。


「今日は早いな」

「起きていたんだろう? ちょっと散歩に付き合ってもらいたいと思ってね」

「そうか、じゃあ先に朝食をとろう」

「いや、今のこの時間が空気も澄んでいて気持ち良いんだ。海風を浴びに行こう」


 海風。

 それはつまり、彼が裏庭へ行こうとしていることを意味した。私は怪訝な表情になるのを隠せなかった。


「妙なことは考えてないさ。ただ……、他の電波が拾えるかもしれないと思ってね」


 私はその言葉を素直に信じることにして、彼の提案を受け入れた。

 図書室へ行くことがあるから、私たちが揃って北館へ行くのは珍しいことではなかったが、その先の裏庭まで足を伸ばすのは初めてのことだったので、少し妙な感覚に囚われた。

 裏庭へ通じるドアを開けると、太陽の光が屋内に入り込んできた。私は朝日に照らされる彼の横顔を見ていたが、そこから感情を読み取ることはできなかった。


「風が気持ち良いな」


 60番は極めて尋常なことを言った。あの海を、声と電波を運んで来る海を前にして。


「ここへ来るのは久しぶりだ。少し、海を眺めても良いかな?」

「もちろん」


 私たちは、海により近いベンチに座り、海を眺めることにした。

 私はあの声を聞く前にこの海と出会っていたから、いくらか恐怖心は緩和されていたけれども、それでもやはり正体のない恐怖のようなものは感じていた。それに対し、彼はいかにも泰然とした様子で海を眺めていた。


「あの放送を、まだ聞いているのかい?」


 ある文言の繰り返しの後に行進曲が流れるあの放送のことだ。


「ああ。……おっと、大事なことを忘れていた」


 そう言うと彼はポケットからラジオを取り出し、懸命にチューニングのつまみをいじり始めた。しかし流れてくるのは、ほとんどがノイズかノイズ混じりの不明瞭な言葉や音楽だった。

 しばらくの格闘の末、彼はいつもの周波数に合わせてあの放送を聞き始めた。ちょうど太陽が海面から離脱し、朝の訪れをあまねく世界に知らしめようとしているところだった。彼は何度か繰り返して放送を聞いた後、満足したような表情でラジオをポケットに入れた。


「満足かい」

「ああ、もう何も言うことはないよ」

「それにしても、その放送はどうして君をそこまで惹きつけるんだろうね」

「言葉が分からないから何とも言えないが、これは一種の福音を告げているようにも思えるんだ」

「福音?」

「そう。僕以外の人間にとっては不幸や悲しみをもたらすかもしれないが、少なくとも僕にとっては福音になる……、そんなふうに思えるんだ」

「それは、君もまた希望を持っているということだね?」

「……会いたい人がいるんだ。それは僕にとって大事な人々だ。僕のこの身がどうなるかは分からないが、僕がこの世界に生きて彼らを想い続ける限り、彼らもまた同じように生きて僕を想い続けてくれていると感じるんだ」


 私は直感的に家族だろうと思った。彼を育てた家族か、あるいは彼が築いた家族か。私はそれを詮索することはしなかった。


「希望はね」


 私がそんなことを考えていると、彼が口を開いた。その視線が宙をさまよっていたのが、不意に僕を見つめてこんなことを言い始めた。


「希望は一つの力なのかもしれない。ある希望は別の希望とは共存できないことが多い。そういう意味において一つの力だと思えるんだ。それでも、僕は希望というものを持ち続けるし、君にも希望を持ってほしい。僕の希望の裏返しが君の希望であることを願っている」


 彼はそう言うと立ち上がった。


「希望を持つんだよ」


 燦々と輝く太陽を、彼は直視した。






 朝食を終えると私たちはそれぞれの部屋に戻った。

 いつもより早く起きて海風を浴びてきたせいか、時間の感覚がどこかおかしくなったようだった。そもそも、私は51番の少年に会いたかったのだ。そしてあの放送の意味を、彼なら知っているだろうから、教えてもらおうと思ったのだ。もう一度裏庭へ行けば、きっと彼と会えるだろう。

 しかし私は、ベッドに身を沈めて天井をぼんやりと眺めながら、どこか感傷的になった自分の心と向き合うことにした。

 随分と遠いところまで来たような気がした。狂った時間の感覚が、歯車を大きく回転させていった。

 そして、冬がきた。

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