伊和奈が預かってもって帰った『依頼』は、作蔵が受け取るとあっさりと契約されてしまった。

 とりつかれてしまった……。

『依頼主』の声は、悲痛だった。

『依頼主』の心の芯が作蔵の全身全霊に刻まれる。

『依頼主』は、生きる為の時間を奪われた。孤独と恐怖が『依頼主』を支配して、生きることを諦めさせた。

『依頼主』は、生身の身体ではない。すなわち、魂のみの存在になってしまった。

 奪われた時……。

 探して『依頼主』に渡す。

 道端に落ちている石を、拾うような生易しいことではない。あんぽんたん(日頃、伊和奈に罵られている)な作蔵でもわかっていた。

「伊和奈、俺に寝る時間を与えてくれ。寝不足は『仕事』に集中できないのだ」

 作蔵は、眠い目を擦って伊和奈に頼み込む。

「完徹で『仕事』の段取りをしなさい……。と、言いたいところだけど仕方ないわね。私だってこんがらがってる『依頼』の内容だと察しているよ。おやすみ、作蔵」

「おやすみ、伊和奈。いつも“おまえのこと”を後回しにしてすまない。だが、俺は必ずーー」

「私は直々に『依頼』していないのよ。何故だかは、あんたはわかっているのでしょう」

「ああ、そうだったな。宛にしてるぞ、相棒」

 作蔵は、四畳半を仕切る襖を開いて出る。


「馬鹿作蔵」

 閉じる襖の音に混じらせて、伊和奈は呟いたーー。


 ***


 作蔵は、夢を見ていた。


 ーーおやおや、相変わらず厄介な『仕事』を承けるとは、感心するね。


 作蔵に語りかける『相手』は、目尻を下げて歯を見せながら藍染めのブラウスと唐草模様のもんぺを身に纏い、白髪混じりの髪をひとつに縛っていた。

 作蔵はむず痒い背中に服の裾から腕を伸ばして爪を立てる。


 ーーひっひっひっ、態度が悪いぞ。折角今回の『仕事』をさっくりと解決する方法を、提示致そうとするのにな。

 作蔵は、あざ笑いをする『相手』に厳つい顔を剥けて爪先に息を吹きかけた。


 ーーおまえさんが探しているものは、時を知らせる型にべったりと張り付いている。まあ、信じるか信じないかは任せるが、試す価値はあるぞ。ひっひっひっ……。


 作蔵の夢は『相手』が灰色の煙に撒かれるところで終わるーー。


 作蔵は自室に敷く布団の中で目を覚まして、天井にぶら下がる照明灯の朱色を照らす豆電球を見上げて掛け布団を剥いで起き上がると、襖を開いて廊下に出る。そして、廊下の照明を点けることなくトイレへと向かっていった。

 用を足すと洗面所で手を洗い、壁に吊るされてるハンガーに掛かるタオルで濡れた手を拭う。

『依頼主』が取り戻したい“時間”はどんなことだ。と、作蔵は自室に引き返す為に歩く廊下で考える。

『依頼主』の関係者といえば『元依頼者』だ。滞納している家賃が払えない『依頼主』の事情を承知で、半ば立ち退きを迫らせる依頼をした。おかげで伊和奈には嫌な『仕事』をさせてしまった。

 だから、作蔵は今回引き受けた『仕事』で伊和奈に探らせることは止すと、決めていた。

 自室に戻った作蔵は、布団の中に潜り込んで再び寝に落ちる。


 ***


〔ちょっと外出する。朝御飯のおかずは特別に玉子を一個をつける。炊きたてほやほやのご飯と一緒に食べたら最高だからね。あ、味噌汁の具もたっぷり野菜だから、お碗一杯でも残さず食べなさいよ〕


 作蔵は、蒼くて分厚いカーテンの隙間から射し込む朝日の眩しさで目を覚ました。閉まる扉の向こうから野鳥の囀りに耳を澄まして、額に右手を置くと湿布薬で貼り付く《置き手紙》を読んだ。


 作蔵は、伊和奈の行動を監視しない。伊和奈は『仕事』以外では自由にさせる。それがお互いの“決まり事”だ。

 作蔵は洗顔を済ませて台所に向かうと、ガスコンロに置かれる鍋の蓋を開ける。そして、用意されているお碗に貝杓子ですくった大根、人参、ごぼうに里芋と、刻まれた具だくさんの味噌汁を注ぎ込む。白い陶器の茶碗に土鍋で炊かれた白米を木のしゃもじで山盛りに盛り付け、漆塗りの盆に箸と一緒に乗せて四畳半へと移動する。

 家具調こたつの台の上に『朝食』を並べて、部屋の隅に置かれる24型のアナログ式のテレビの電源を容れるが、音声ばかりで関心の映像は 映るに時間を費やされていた。

 作蔵は即、電源をきって目の前に並べた『朝食』を摂ることにした。

 腹を満たして空になった食器を盆に乗せて台所に移動をした作蔵は、シンクの蛇口をひねって《ヤマオレンジ》と容器にラベル付けされた洗剤を染み込ませた黄色のスポンジたわしでひとつずつ汚れを落として洗い、ステンレス製の水切り籠に押し込んだ。


 伊和奈はまだ、帰ってこない。

 作蔵は、廊下の奥にある納戸から箒と塵取りを引っ張り出して、四畳半を無駄に占めている家具調こたつを退かしてこたつ布団一式を庭にある物干し棹に掛けて四畳半に戻ると、畳の編み目にそって箒で掃くをした。

 窓を磨いて廊下を拭く。脱水が終わった洗濯機の中にある衣類を洗濯籠に詰めてこたつ布団が干されている庭に草履を履いて吊るされているハンガー式の物干し器に靴下、ズボン、肌着、Tシャツ(殆ど作蔵の分)を干す。


 伊和奈は、まだまだ帰ってこない。

 広々としている四畳半で、作蔵は大の字になっていた。

 伊和奈が外出している時は、作蔵は家を空けることはしない。

 ーーごめんくださーい、どんがらガスです。

 玄関に行くとガス代を集金係員に払う。

 ーーこんにちはぁああっ! お子さまステップのご案内をーー。

 子供がいない家庭だからじゃあね。と、セールスマンが差し出すパンフレットを突っ返して扉を閉めて玄関の鍵をする。

 ーーあのう……。飼い猫が空に散歩に行ったまま戻ってこないのです。

 泣きじゃくる子供を宥める子供の母親の弱々しい声に作蔵は懸命に耳を傾けた。

 いつから戻ってこない、猫の特徴は、名前はと、作蔵は訊ねる。

 ーー今朝から……ですーー。

 ……。

 作蔵は、澄みきる青空を見上げるようにと親子を促す。

『にゃあ、にゃあ』と、足あとを点々とつける白と黒のまだら模様の猫が歩いていたーー。


 伊和奈は(省略)……。

 作蔵、あんたはいつになったら『仕事』の段取りをするのだ。

「見ててわかるだろう。と、いうよりしっかりと考え中だ」

 それは、失礼した。あ、ぶつくさと何か言うのは失礼ではないのか。あ、思いっきり無視をした。

「腹へった」

 作蔵は厳つい顔をして、台所に向かった。


〔土鍋に残る白ご飯は晩飯に回す。具だくさんの味噌汁は私が食べる。おやつに乾燥芋を用意している〕

 2ドア式の冷蔵庫に拳の大きさほどあるマグネットで留められる伊和奈の文字のメモ用紙。作蔵は、メモ用紙を剥がすことをせずに冷蔵庫の扉を開いて、棚に置かれる開封された乾燥芋の袋を取り出した。

 肘をついて冷蔵庫の扉を閉めると、一枚だけ残る乾燥芋を掌で掴み、口の中に入れると歯で食いちぎって噛み締めた。

『依頼主』はまともに食事をしていたのだろうか。噛み砕いた乾燥芋を呑み込み、作蔵はふと思うのだった。

『依頼主』はどんな思い出があったのだろう。好物は、趣味は、特技は何だ。と、作蔵は次から次へと『依頼主』の探す“時間”の手掛りとなるだろうの思考を、張り巡らせた。


 ーー時を知らせる型……。

 夢の中にてできた『相手』の言ったことも気になる。

 作蔵は、一口分残る乾燥芋を頬張ると四畳半に置かれる茶箪笥の上で時を刻む道具を思い浮かべる。

 四畳半に入って四角い灰色の置き時計を見る、時刻は2時50分を28秒過ぎていた。

“進む時”ではわからない。と、作蔵は首を横に振った。

 電話の時報……。は、あり得ないと作蔵は即否定した。

 作蔵は、家中のありとあらゆる“時間”に関係がある品物を片っ端から手にとっては放り出した。

 古新聞、古雑誌、捲りが面倒臭くなって1年前の4月14日のままの日付けで柱にぶら下がっていた日捲りカレンダー。

『仕事』の記録をしている帳面、家計簿は、伊和奈が管理している……。閲覧するには伊和奈の許可を得なければならない。

 伊和奈の部屋は、作蔵でも入ることが出来なかった。誰に何処で伝承されたのかわからないが、ご丁寧に扉に〔作蔵進入禁止〕と、術がかけられている《貼り紙》の為にだった。

 伊和奈の部屋の前を仕方なく去った作蔵は、自室の押し入れで埃でくしゃみと鼻水に苦戦しながら、がらくたまみれで入れっぱなしの一冊のアルバムを手にした。

 作蔵の歴史の瞬間がところせましとアルバムに貼り付いていた。

 おおっ! 泥塗れでそれでも菓子袋を握り締めているとは流石だ、作蔵。

「解説は余計だ」

 作蔵は薄暗くなる部屋に明かりを灯す。


 ーー作蔵、作蔵。

「今、取り込み中だ。あと少しで『仕事』の手掛かりとなるモノが見つかりそうなのだ」

 作蔵は、アルバムの台紙を捲りながら言う。


「作蔵、あんた何かを忘れているよ」

「話しかけないでくれい。もうちょっと、あとちっとでだからーー」

 作蔵は声に振り向かずに言う。


「庭に何を干しっぱなしに、家中を散らかしっぱなしにしてまでの『仕事』の段取りをしなさい。と、私は一度も言ったことはないよ」


 作蔵は、漸く声の主に気付く。

 額から滴る汗を拭うこともせずに振り返る先には、鋭い目付きの伊和奈が歯ぎしりをしていた。


 ーー馬鹿作蔵っ!!


 世が更けて、作蔵は晩御飯を食べそびれたーー。

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