02 スリップストリーム

 目を開けたとき、状況がよくわからなかった。布が見えた。体の下に感じるのはコンクリート。でも、頭の下には、もちもちと柔らかい枕がある。

「ユリト、起きた?」

 声が降ってきた。カイリの声だ。ぼんやりした視界の真ん中には、何かの布越しに、おれを見下ろすカイリの顔。木陰だろうか、薄暗い。

「おれは……?」

「いきなり倒れた」

 唐突に、おれは状況を理解した。

 見えている布の正体、胸だ。タンクトップを着たカイリの胸。下手をしたら額に触れそうな近さに、その胸がある。おれの頭の下にあるのは、カイリの太ももだ。つまり、膝枕というやつだ。

 ボッ、と音がしそうな勢いで顔がほてった。言葉が出ない。全身、固まってしまう。ヤバい以外の何物でもない。

 起き上がらなきゃ。離れなきゃ。でも、この状態から体を起こすには、カイリの胸が邪魔だ。メチャクチャ大きいってわけじゃないけど、おれの顔をのぞき込むために前かがみになっているから、視界の中での存在感がすごい。これ、ほんとにマジでヤバい。

 カイリの手がおれの額に載せられた。その手が動いて、頬と首筋にも触れる。

「体温、戻ったね。倒れたときは体温が低くなってた。呼吸数も心拍数も少なくて」

 ちょっと待って、カイリは何で平然としていられるんだ? おれは視線をそらすこともできないくらい、本気で頭がパニックなのに。

 かすかな風を感じる。視界の隅に、カイリがおれの帽子をうちわ代わりにあおぐのが見えた。

「気分悪くない?」

「だ、だい、じょうぶ……」

「ここは校舎の外だよ。風が抜けて涼しい日陰を探して、ハルタと二人で運んできた。ハルタは今、うちまで走って飲み物を取りに行ってる。ユリト、脱水症状気味だから」

 校舎の水道は止まっていること。近くにあった自動販売機もすでに撤去されたこと。唯一残っている商店に行くより家に戻るほうが近いこと。カイリの説明を、回らない頭で一生懸命、理解する。

 ということは、今、おれとカイリの二人きり?

 やめてくれよ、もう。朝もヤバかったけど。ずぶ濡れで透けていて、気になって仕方なくて。

 だけど、今はある意味、それ以上だ。だって、接近どころか接触していて、手でも顔でもちょっと動かすだけで、いくらでもヤバいことをやってしまえる。

 おれは魔が差してしまいそうで、その一方、緊張しすぎて体が動かない。理性と衝動がギシギシとせめぎ合う均衡状態。少なかったと聞いたばかりの呼吸数と心拍数が、急激に上昇する。

 ほてりは、でも、長く続かなかった。

「ハルタに聞いた。半年近く前から、ユリトはときどき倒れるんだって」

 逆さ吊りにして冷水に突っ込まれた気分。

「……聞いたんだ」

「うん。ユリト、夜、あんまり眠れないんでしょ。その反動で、昼間にいきなり意識を失って眠ってしまうって、ハルタが言ってた」

 カイリに弱みを知られてしまった。スーッと心が冷えていく。ハルタのバカ野郎。誰にでもペラペラしゃべるなよ。こんなの、カッコ悪いのに。

 おれが教室で倒れた後の、学校の女子たちの反応が頭によみがえった。実は病弱なのを隠して微笑んでいるのが逆に貴公子っぽくて素敵だって、おれを誉めているつもりらしかった。

 ふざけるなよ。意味がわからない。病弱なんて、おれはそんなんじゃないのに。そもそも貴公子でも何でもない。笑っているのは、ただの仮面だ。

 眠れない夜のいらだちと、疲れの取れない体の重さと、いつ倒れるかわからない不安と恐怖。こんなものに耐えなきゃならない。投げ出すこともあきらめることも許されない。おれの気持ちは、誰にも理解されない。

「ハルタから、どこまで聞いた?」

「少しだけ。二言、三言くらい。ユリトはいつも体調が悪いから心配だって、ハルタが泣きそうな顔してた」

「実際、あいつ、すぐ泣くから。おれは確かに体調悪いけど、薬を飲んだりするようなことでもないんだ。眠くなる薬を病院で出されそうになったときも断った」

「どうして?」

「薬を飲んだら、自分は病気だって認めることになる気がした。違うんだ。おれは病気なんかじゃない。今までうまくやってこられた。失敗や挫折はときどきあったけど、ちゃんと踏み台にして、頑張り続けることができた。このまま行けるはずなんだ」

 目を閉じながら、カイリから顔をそむけた。耳の下には、カイリの太ももの少し湿って柔らかい感触。その肌にキスしたい衝動が起こった自分に、瞬間的に吐き気がした。

 カイリの手が、おれの額に触れて、髪を撫でた。

「ユリトは色が白いね。髪も肌もきれい。まつげが長いから、ハルタとは目元の印象が違う。全体的に似てる顔だけど」

「兄弟だから似てるよ。目元は、おれが母親似。このまつげのせいで、小さいころ、よく女の子だと間違われてた。ユリ、って親がおれを呼ぶから、普通に勘違いされるよな」

「ユリトの顔、男の子の顔だと思うけど」

「ありがとう。そう言ってくれるのは、昔からハルタだけだった。おれが女の子に間違われるたびに怒ってたの、おれじゃなくてハルタだったんだ。だからあいつ、おれをユリって呼ぶのをやめて、兄貴って。それまで呼び捨てだったくせにさ」

「ハルタは、ユリトのこと大事なんだね。いいな。わたしは一人だから」

 カイリは父親のスバルさんとの二人暮らしで、学校でも中学生は一人だったみたいだ。おれの常識では考えられない環境のこの島で、カイリは何を思って生きてきたんだろう?

 急に、カイリのことを知りたくなった。ときどき寂しそうな顔をするのは、どうして? カイリはずっとこの島で暮らしていたい? どこか遠くに行きたいって考えたりしない? 違う自分になれたらって想像することはない?

「カイリは、一人はイヤ?」

「どうして訊くの?」

「訊いてみたいだけ。何ていうか、カイリは、おれの学校にいるような女子とはちょっと違う。不思議な雰囲気だよな」

「不思議かな?」

「静かなのに、暗いわけじゃなくて、自然体な感じで、嘘なんてつきそうになくて」

「そんなふうに見える? これでも、昔はにぎやかだったんだよ。それに、嘘はつかないけど、隠しごとはする」

「そりゃ、誰だって全部を人に見せるわけじゃないさ。隠しごとくらい、おれも……」

 いや、それ以前に、おれは嘘つきなんだろうけど。いい人のふりをしている。優等生の役を演じている。笑顔の仮面をかぶっている。

 演技がうまくなりすぎた。本当の自分の面影が見えなくなるときがある。まあ、別にいいか。このまま全部、子ども時代の自分なんて忘れてしまうほうが気楽だ。

「ユリトはどうして龍ノ里島に来たの?」

 カイリが、今さらなことを言い出した。おれが担任の田宮先生の紹介で龍ノ里島のスバルさんを訪ねることになったのは、カイリだってわかっているはずだ。

 でも、そうか。普通、ただの教え子に離島での夏休みなんか、勧めるわけがない。自分の後輩を伝手に、都会から遠く離れた辺境に行けだなんて。

「授業中に倒れて以来、担任の田宮先生がおれを気に掛けてくださってるんだ。進路の相談にしても、どこの高校や大学に行きたいかだけじゃなくて、もっとちゃんと将来のことを話し合って。そんな話の中で、スバルさんのことが出てきた」

 おれは将来、何になりたいのか。今、何に興味があるのか。子どものころ、何が好きだったか。

 自分自身の歴史を読み解くうちに、いちばん強く輝く存在に気が付いた。プラモートのシュトラール。勢いよく走る、小さな自動車模型。もっと速く走ってほしくて、一生懸命に調べた機械の仕組み。

 おれが夢中になれるのは、生徒会活動や部活のバスケじゃない。勉強するのが好きなのは、シュトラールのためにたくさんの知識を得ようと思ったあのころ、サイエンスをおもしろいと感じたからだ。

「先生は、好きなものに没頭して生きればいいって言った。でも正直、おれはその言葉に納得できない」

「どうして?」

「おれが田宮先生にしゃべったの、プラモートのことだよ。小学生のころにハマってたおもちゃの話だ。学校じゃ誰にも言えないくらい幼い趣味で、みんなとっくにそんなもの卒業してる」

「でも、ユリトは今も、シュトラールを大事に思ってるでしょ?」

「ダメなんだよ、こんなんじゃ。プラモートのことで頭がいっぱいだった小学生の自分から卒業しなきゃいけない。成長しなきゃいけない。実際、親も普通の先生方も、おれが大人みたいに振る舞うことを期待してる。田宮先生だけが違うことを言う」

「プラモートを好きなままでいいって?」

「うん。それで、おれが田宮先生の言葉に納得できないままでいたら、好きなものに没頭して生きてる人として、スバルさんを紹介された」

「だから、ここに来たの?」

「スバルさんという人と話すためと、自然の中で過ごすために、ちょっと行ってこいって言われた。ちょっとって場所でもないんだけど。田宮先生も、何度か龍ノ里島に来たことがあるらしい。島の生命力を分けてもらえるような場所だったって話してくれた」

 カイリが、そっと笑った。

「龍ノ里島の生命力。感じてくれる人が、都会にもいるんだ」

「おれも感じるよ。むしろ、都会に住んでるからこそ、この島に生命力があふれてるのを感じる。すごくキラキラした場所だな、って」

「ないものねだりだよ。この島をどんなにきれいだと感じたとしても、二十一世紀の人間が住むには、やっぱり不便だから」

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