03 ポテンシャル
「それ、何?」
カイリがおれのほうに身を乗り出した。
それ、とカイリが言ったのは、もちろんシュトラールのことだ。こういうのは男子の趣味だから、カイリは知らないんだろう。この島で売っているとも思えないし。
「プラモートっていって、電池で動く自動車模型だよ」
「あ、昨日、クルマの中でハルタが話してたやつ。ユリト、持ってきてたんだ?」
気まずさで、喉が詰まる。
「子どもっぽいって、自分でも思うんだけど。こいつのこと、こうしてどこにでも連れていく癖が、いまだに抜けなくて。小学生のころまでで、レースは卒業したのに」
おれはマシンをカバンに隠そうとした。その肘のあたりに、カイリの濡れた指先が触れた。
「もっとよく見せて。この子の形、すごくきれい。速そうだね。動くんでしょ?」
興味を示されるなんて、想像してもいなかった。カイリに触れられたところが熱い。
「本当は動くよ。ボディに隠れてるけど、後輪のシャフトのあたりにモーターが内蔵されてて、その前側に電池が二本入ってて、それが動力。シャーシの裏のスイッチをオンにしたら、走り出す」
「ボディって? シャーシ?」
「あ、ごめん、言葉足らずで。ボディは、マシンの外装のこと。シャーシは、ボディの下の土台の部分」
「動かしてみて」
おれはかぶりを振った。
「今のこいつは動かないんだ」
「どうして?」
「ひびに気付かずにいたら、いつの間にかシャーシが割れて、チップも一緒に壊れてしまった。モーターや電池やギヤはしょっちゅう交換するし、パーツはコースごとに付け替えるし、シャーシも買い替えることはできるんだけど、チップだけは……」
おれはマシンのボディを外して、機械部分の奥に搭載されたチップをカイリに見せた。小指の爪の半分くらいしかない、ごく薄いチップは、ボディの破損もろとも真っ二つになっている。
「これは何のための部品?」
「走りを記憶するための頭脳だよ。ちょっと高いから、載せてないレーサーも多いけど。公式レースの決勝では、正確なタイムを算出するためにも使われる」
「記憶?」
「走ったことの全部の履歴が、ここに記憶されてる。プラモートのメーカーが出してる専用の機械を使えば、その記憶から、マシンが体感したレースを再現する映像が観られる」
「ユリトも観たことあるの?」
「あるよ。何度もある。すごい世界に連れていってもらえるんだ。だから、チップが壊れたのが目に入った瞬間、こいつが死んだって思った。おれとずっと一緒に走ってきたこいつの記憶が、こんなふうに割れっちゃったんじゃ、もう再現できないんだ」
「ユリトは、このマシンのこと、大事にしてたんだね」
染み入るように澄んだカイリの声が、耳の奥で熱を持つ。息をついて目を閉じたら、見栄が一つ、はがれて落ちた。
「笑ってくれてかまわないんだけど、おれはこいつのこと、ただのモノだと思ったことないんだ。親友で、相棒で、心も魂も命も持ってる。こいつはしゃべれないけど、どこをメンテしてほしいかって、おれには伝わってくる」
「この尾びれみたいな翼みたいな部分に書いてあるの、この子の名前?」
目を開けて、真正面にマシンをかざす。シャープな流線型のボディでも、ひときわ目を引くのは、大きなリヤウィング。そこに、銀色の文字で刻んである。
「うん、こいつの名前」
「何て読むの?」
「シュトラール。ドイツ語で、輝きっていう意味。プラモートとしての商品名は別にあるんだ。でも、おれとハルタは、わざわざ自分だけの名前を付けてて。変だろ?」
「変じゃないよ。シュトラールって、カッコいい名前だと思う」
カッコいいって、カイリの声で聞かされたら、おれの胸の奥が何だか勘違いした。ドキッとしてしまって、少し苦しい。
「名前、カッコいいとか、初めて言われた。まあ、こいつの名前を知ってるの、おれのほかにはハルタだけか。でも、ぬいぐるみに名前付けてる子どもみたいなもんだから、人には教えたことなくて」
「子どもでもいいんじゃない?」
「どうだろうな。おれはそういうとこ見栄っ張りだし、何かダサいかなって」
「もう走らせないの?」
「シャーシとチップが割れてからは、意味もなく眺めてるばっかりかな。いじるのが、怖くなっちゃって。必要以上に悲しい気持ちになりそうで、それがイヤで」
なあ、シュトラール。おまえ、走りたいか? いや、訊いてごめん。走りたいよな。おまえは走るために存在するんだから。
なんてね。呼び掛けても無駄かな。頭脳だったチップが壊れて、おまえはもう、おれのことわからないだろ? まあ、最初から機械に意識なんか存在しないんだろうけどさ、本当は。
シュトラールのモーター音をまた聞きたいとも思う。でも、もういいかなとも思う。子どもっぽい夢、このへんで終わらせようかな。プラモートに夢中になった子ども時代は、シュトラールのチップと一緒に割れて終わって、それでいいかな。
「走らせるの、楽しい?」
カイリの言葉に、ドクンと血潮が反応する。レースの興奮を記憶している体が、あるいは魂が、おれの口から正直な言葉を吐き出させた。
「楽しかった。ライバルに勝つのも嬉しかったけど、それ以上に、シュトラールがどんどん速くなることが嬉しかった。昨日の自分より今日の自分のほうが成長してるって実感できた。新しいセッティングを思い付く瞬間も、抑え切れないくらいワクワクして好きだった」
「楽しそう」
「スタートラインから走り出すときが、最高にドキドキするんだ。『レディー、ゴー!』で、レースが始まる。そこから先は、祈って応援して、シュトラールを信じるしかない。ちゃんと応えてくれるんだ。だから、こいつにも心があるって錯覚しちゃうよな」
小学生のころに入りびたっていた模型屋に行かなくなったのは、中学一年生の何月だっただろう? 覚えていない。
一年生の一学期からクラス委員を任されて、テストの成績もトップを維持していた。一目置かれる存在でいなければならないような気がした。小学生のままでいてはいけない。早く大人にならないといけない。そんなふうに、心が追い立てられた。
カイリがおれに尋ねた。
「チップがもとどおりになってシャーシの傷が治ったら、シュトラールは走れるの?」
「ああ。でも、この島には模型屋とかないよな」
「ないよ。わたしが言いたいの、そういうことじゃなくて。ユリトはシュトラールに命があるって、本気で信じてるよね。命あるものは、龍ノ神が見守ってるよ」
おれはカイリの目をのぞき込んだ。唐突に何を言い出すんだろう? まっすぐにおれを見つめ返す目はふざけている様子もない。
「どういう意味? おれが信じてたら、シュトラールに命が宿るってこと?」
薄い唇が、透き通る声が、歌うように告げる。
「龍ノ里島に訪れる、最後の奇跡。まもなく眠りに就く島の、小さなたわむれ」
シュトラールを持つおれの手に、カイリが濡れた手を重ねた。
「な、何だよ?」
「シュトラールには、さわらないよ。機械は海水を嫌うから。ユリト、シュトラールを想って。正直な願いを込めて、想って」
「正直な願い?」
「生き返ってほしいでしょう?」
ドクン、と、カイリの手が熱を持った。気のせいなんかじゃない。確かに熱い。人の体温ではあり得ないくらいに。
熱はおれの手に飛び込んで、そして突き抜ける。
シュトラールが熱に包まれる。レースを走り切った直後みたいに、シュトラールの車体が熱い。そして、かすかな振動と涼やかな駆動音が、唐突に起こる。
そんなはずはない。シュトラールには今、モーターも電池も入っていない。
何が起こった、と問うより早く、熱は引いた。振動も音も引いた。
カイリの手が離れていく。
まばたきなんか一度もしなかった。ずっとシュトラールを見つめていた。なのに、いつそれが起こったのか、わからなかった。
「割れて、ない……?」
無傷のチップが、整然としてそこにある。シャーシにも傷ひとつない。復元された? 生き返った?
カイリが静かに告げた。
「命が、あったから」
おれはカイリを見つめた。
「どういうこと?」
「レディー、ゴーで走り出したら、シュトラールはユリトに応えてくれるんでしょ? ユリトと共鳴するための命が、この子には本当にあった。奇跡は、命あるものにだけ訪れる」
「奇跡? 命あるもの?」
カイリは立ち上がった。おれは視線をさらわれた。呆けたように、海の輝きを映す瞳を見つめてしまう。
ふっと、カイリが頬を緩めた。
「ユリト、シュトラールをバッグにしまって、バッグをここに置いて。帽子も邪魔」
「は? 何で?」
「泳ごう」
「お、おれが?」
カイリはおれを見下ろして、首をかしげた。
「ユリトって、ほんとは、おれって言うんだ? さっきからそうだよね」
しまった。うっかりしていた。今まで家族以外の人の前では、ぼくという一人称で通してきた。言葉遣いも、できるだけ丁寧にしようと心掛けていたのに、今、カイリの前では崩れていた気がする。
「何か、あの……ごめん」
「どうして謝るの?」
「ここにいる間、行儀よくしなきゃって決めてたのに」
「必要ないよ。ハルタみたいに、自由にしてれば? それより、カバン置いて。濡れちゃいけないもの、カバンと一緒にここに置いて」
言われるままに、おれは帽子を脱いで、シュトラールをバッグにしまって、バッグを体から外した。財布もケータイも、部屋に置いてきている。濡らしたくないのは、シュトラールだけだ。いや、全身ずぶ濡れにも、あんまりなりたくないけれど。
おれが立ち上がると、カイリはいきなり、おれの手首をつかんだ。濡れた細い指。カイリのほうが背は高いけれど、手はずいぶん華奢だ。おれの手と全然違う形をしている。
形が違うのは、手だけじゃない。体じゅう全部だ。濡れて肌に貼り付いた服のせいで、そばにいるだけで恥ずかしくなるほど、カイリの体の形がわかってしまう。
すごい勢いで、おれの頬に熱が集まった。
「ちょ、て、手を、あのっ」
「飛び込むよ」
「はい? ま、待って、ここ、海面から、かなり高い」
「今は潮が引いてるから、三メートルくらいあるかな」
「な、三メートルって、飛び込む高さ?」
「思いっ切り遠くまで飛ばないと、海底が浅いとこに落ちたらケガするよ」
「ええぇぇっ? 待ったなしかよっ?」
カイリがおれの手を引いた。うっかりぶつかったカイリの体は、想像以上に柔らかい。間近な横顔が笑っている。目を奪われた一瞬の間に、カイリは駆け出していた。もちろん、おれも引っ張られて走る。
「レディー、ゴー!」
カイリの掛け声とともに、おれとカイリの足はコンクリートを蹴って、キラキラ輝く海の上へと躍り出した。
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